雪の雫(3)

 せつなは一瞬、ここがどこだかわからなかった。なぜか体が重くて動かない。そしてあたたかいのに心地が良い。


 そっと顔を上げると、この世で何よりも愛おしい美貌があった。


「…………ひあっ!?」


 なんでこんなことにっ!?


 飛び起きそうなほどの衝撃であったが、肩と腰が彼の腕で固定されていて動けない。ななな、と震えながら混乱を極める。


 なぜ、なぜヴィルと同じベッドで寝てるの!?


 しかも自分は本来の姿。まさか何か、一夜の過ち的な、と目を回していると白い顔がいつもよりも弱々しいことに気づく。首筋に手をあててみれば脈も弱い。なのにせつなを捕まえている腕には力があり、抜け出すのに苦労した。人を呼びに部屋の外に出ると暖かい風が吹き込む。部屋の中が異常に冷え込んでいたのだと気づいた。


「誰か!」


「お嬢様!」


 すぐに向かいの部屋からシーラが飛び出し、せつなを見て涙を流す。そんな彼女を気遣ってる暇はなかった。


「よかった、ご無事で――」


「それよりもヴィルヘルムが大変なの! 体が冷えきってるし、弱ってる。早く部屋を暖めてあげて」


「旦那様が?」


 戸惑いながらもヴィルヘルムの様子を見るとすぐにシーラは顔色を変えて窓を開け、冷え切った空気を外に逃す。


「あ、お嬢様は」


「私は大丈夫だから」


 被衣を頭に被り、ヴィルヘルムをじっと見つめる。よく考えれば、彼が寒さで弱るはずがないのに、これは一体どういうことか。


『おや、無事回復したようでなにより』


「ん?」


「無事回復してなによりです」


 褐色肌の少年が部屋に入ってくる。


「あんたは……」


 何度か見かけた、右耳に細長い水晶の耳飾りを付けた彼だ。


『彼は魔力不足になってるだけだから、しばらく安静にしていれば大丈夫』


「彼は魔力不足になっているだけですから、しばらく安静にしていれば大丈夫です」


「繰り返さなくていいよ。ちゃんと聞こえてるから」


 ネジが回りきった人形のように、ピタッと少年が口を閉じて固まる。けれど声は変わらず語りかけてきた。


『へえ、同類だと聞こえるんだ』


 じゃあやっぱりあの雄鶏君にも聞こえてたのかな。と呟く男とも女とも聞こえる声は、妙な気配がする耳飾りから発せられていた。


 話があるというので、さきほどシーラが飛び出してきた部屋に移動する。


 足音もしない少年は静かにソファに腰を下ろし、テーブルを挟んだ向かいに座るせつなを見ていた。目の前にいるというのに少年の気配はとても遠く、耳飾りが主体で、少年の方が飾りのような印象を受けた。


 せつなは鋭い目を耳飾りに向ける。


「それで、ヴィルヘルムがああなってる原因をあんたは知ってるの」


『君を助けるためだよ』


 自分が疲弊し切って人型すら保てなくなっていたこと。助けるためにヴィルヘルムが協力して、自分は彼の気を喰らって回復したこと。氷剣の冷気が部屋を満たしている間、シーラと少年はこの部屋で待機していたこと。


 あらかた聞き終えて、せつなはソファに深く沈み込む。


「うぅ……」


 なんてことだ。まさかこんな多大な迷惑をかけたなんて。ただ側にいたいだけなのに、それすらも害になっていたとは。


『彼が知らないのはともかく、まさか本人が雪女自分のことをわかっていなかったとはね』


「……なんとなくそうじゃないかなとは思ったけど、自己判断以外で確かめる術がなかったのよ」


『なら自分が保証しよう。君は間違いなく雪女だ。——でも元人間とはね。どうりでなんか妙だと思った』


「人としての私は、多分……もう死んでる」


 炎に巻かれる悪夢。あれはただの幻ではない、記憶だ。


『この世界に来て変容したのか、変容したからこそこの世界に流れたのか。どちらにしろ人間の肉体は滅びたんだろうね。その体はもう、自然の気でできた雪女の身体だ。だからこそ人型から珠にまで自由に姿を変えられた』


「随分と詳しいけど、あんた一体何者?」


『君と同類さ。自分も日本から来た——』


 そのとき、部屋の扉が開いてヴィルヘルムが来た。驚いて立ち上がったせつなに近づき、がしりと彼女の顔を両手で鷲掴む。


「にゃ、にゃに」


 頬を抑えられ、口がうまく動かない。


「もう大丈夫なのか」


「そりぇは」


 喋りづらい、と顔から両手を引き剥がす。


「それはこっちのセリフ! 体は大丈夫なの?」


「問題ない」


 しかし、ヴィルヘルムはふらつき、ソファの背もたれに手をついた。彼の後ろにいたシーラと一緒にせつなはいつもよりも血の熱の気配が薄い身体を支え、ソファに座らせる。


『自分のことより女の心配か。愛されてるねぇ』


「な、何言ってんの!」


 せつなと違って、下心を含まなさい純粋な優しさを揶揄するような調子が気に入らない。


 ずっと無言を貫いて無表情でいる少年に急に声を上げたせつなを二人は不思議そうに見る。


「また何か聞こえているのか」


「ちょっとね」


『どうやら二人とも無事なようだし、自分たちはそろそろ御暇しよう』


 声がそう言うと少年は立ち上がった。


『あ、そうだ。君たちに渡したい物があるんだ』


 少年は腰につけたポーチからある物を取り出す。


 せつなにとって懐かしい形。かつてはよく見て、日本人にとっては馴染みのある品。ただしそれは、せつなが使っていた物よりも品質が高そうだ。


 艶のある落ち着いた赤、半円の形。漆塗りの椀である。


 唐突に出てきたそれにせつなは瞬きする。


『これあげる』


「……どうしろと?」


 まさかこの流れで、食器として渡されたわけではないだろう。


『こんなところで出会ったのも何かの縁だし、今回と同じように困ったことがあったら自分のところに来なよ。使い方は、どこかの山奥の川にそれを流してくれればいい。そうすればその椀が導いてくれる』


「なんでお椀……一寸法師?」


『そっちが浮かぶかー』


 声は笑いながら『それじゃあね』と言って、少年が会釈して出て行く。


「で、結局何だったんだ」


 無表情の相手にせつながずっと一人で話しているようにしか見えていなかったであろうヴィルヘルムに余計なところを省略して簡単に説明する。


「というわけで。はい、これ」


「なぜ俺に渡す。お前が貰った物だろう」


「『君たちに』って言ってたからいいでしょ。また迷惑かけることになるかもしれないし……もちろん気をつけるけど、一応あんたが持っていた方がいいと思う」


「……わかった」


「それじゃ、早くベッドに戻って休んで!」


 ヴィルヘルムの背中を押して客間に戻しながら気づく。


 結局、彼らの素性も名前すらも聞いてない。




 ある建物の屋根の上から、この国では珍しい褐色肌の少年が街を見下ろし、白い塔と城を眺める。


『さて、スペアも渡してしまったし、君も一度帰っておいで』


「もういいのですか」


『うん。色んなものが見れて・・・満足したよ。君が旅に出ると言ったときはどうなるものかと思ったけど、おかげで良い出会いがあった』


 動けない主に外の世界を見せたいと思ったのが始まりだった。


 予定より長く、遠く、地図にも載っていないような果てまで来てしまったが、主にとっての僥倖を得られたのなら良かった。


「すぐ帰ります」


『うん、待ってるよ』


 広場にいた子どもが飛び立つ鳥を目で追いかけて見上げたとき、建物の上には誰もいなかった。

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