雪の雫(2)

 あかいあついあかいあつい――


 目の前で倒れている友人は何かも剥ぎ取られすっかり姿が変わってしまった。友人だけではない。部屋の中に転がるクラスメイトたちはもはやただの肉塊だった。その残った肉でさえ今も削がれ続けている。自分もいずれこれになるのだ。


 ぐったりと床に倒れた体は瞬きといった些細な動きさえできず、ひたすら目の前の地獄を見続けた。声なき悲鳴が鼓膜の奥にこびりついて、ごうごうと燃える中に混じる。


 ああもしかしたらこれは自分の悲鳴かもしれない。


 指の先が黒ずみ少しずつ崩れていく。なんてことだ。この体は人よりも脆い。肉塊になる間もないというのか。


 私が消える。崩れる。溶ける――




「彼女は今、ほとんどの機能を止めて眠っている状態です。放っておいても百年もすれば回復するでしょう」


 百年……。


 客室のベッドに腰掛けたヴィルヘルムは、手にある氷の珠を包んだ被衣を見下ろす。


 カーテンを閉め切り、蝋燭一つ灯さず、ベッドに寝かせた薄らと青白く光る氷剣のおかげで完全な暗闇は避けられたが、息が白くなるほど部屋は冷え切っていた。


 彼女の体調を思っての処置だ。太陽の恩恵を持つアルフィとローニを遠ざけ、人払いもして、部屋にいるのはヴィルヘルムと上着を何枚も重ね着している黒肌の少年、そしてせつな。


「けど今回は、幸いにも起こすのに必要なものが揃っている」


 失われた気力を補充するためのヴィルヘルム膨大な魔力


 繋ぎ・・にせつなの気から造られた氷の剣。


「あなたには彼女の夢に入ってもらいます」


「夢?」


「ご覧の通り、固い殻に閉じこもっている状態なので呼びかけるなら内側からの方が効果があるんです。直接心に入るのは危険なので、夢を足掛かりにします」


 ヴィルヘルムは氷剣と並んで横たわり、胸の上に氷の珠を包んだ被衣を乗せる。


「あなたは彼女のことだけを考えていてください。あとは剣が導いてくれるはず」


 少年の耳飾りが一際輝いたのを収めてから、目を閉じる。呼吸を浅くして意識が一瞬沈んだあと、右手に剣を握る感触がした。目を開けると燃え盛る見たこともない建物の中に立っていた。


 煤けた白い壁に、茜色に反射する光沢のある床。細長い廊下の片側にはガラスの割れた窓が奥へと連なり、反対側にはその間に扉が入る。一番近い扉の上には「1ーD」と記された細長い板が挿してあって、同じような板が一部屋ごとに並んでいた。


 ごうごうと燃える炎に侵食された無機質な空間。


 これが、あいつの?


 壁に貼ってあった紙に触れようとすると、端から燃え上がり塵となって散っていく。火は床を這い、天井には黒煙が充満している。天井が低いせいで黒煙に体のほとんどを呑まれ、喉を中から掻かれるような不快感に眉をひそめると、氷剣から発せられる青い冷気がヴィルヘルムを包み、息苦しさがふっと消えた。


 鞘付きのまま持っていた青い柄を親指で撫でる。


 また守られた。


 燃え盛る火の中には黒い塊が転がっていた。人間ほどの大きな炭の塊が所かしこに転がり、重なり、あるいは砕け散り、凄惨たるさま。夢だからか、現実ほどひどい臭いはしない。


 これは、夢は夢でも悪夢ではないだろうか。鍛冶場の炉を見ただけで恐慌状態になりかけるほど火を怖がっていたのに、なぜよりにもよってこんな夢を見ているのかと、理不尽な文句をぶつけたくなった。その為にも早く見つけてやらないと。輝く剣を片手に進む。


 よく見ると、床に転がっている炭は、燃え尽きることなく延々と火に巻かれていた。炎の勢いは衰えず、そしてこれ以上激しくなることもないようだ。割れた窓の向こうは、広がる黒煙しか見えない。朝も夜も、時間の感覚というものがない。夢だからか、まるで停滞していた。


 彼女は、やけに人間くさい人外だった。どこにでもいる平凡な娘のように振る舞って、それなのにときおり線を引いた態度でこちらを見たり。その内に熱情を煮えらせておきながら、他の女と結婚してもかまわないとふざけたことも言う。


 結婚を損得勘定ありの交渉と捉えて感情を切り離すのは貴族にもある考えだ。それでも引っかかってしまった。執着が強いというなら、もっと感情を示すべきではないか。


 何かの証のような剣まで持たせておいて、なぜあそこで理知的になるのか。


 いつも見ているくせに、なぜ触れるのは躊躇する。


 なぜ、なぜ、なぜ。


 周囲の炎に同調しそうになったヴィルヘルムを剣の冷気が優しく額を撫でて宥める。


 ある部屋の前に着くと剣が一瞬重みを増した。形の歪んだ扉をガタつくところを力尽くで横に滑らせると熱い暴風が身体に吹き付ける。炎はより色濃く、激しくうねっていた。室内は一層暑く、物は散乱し、逃げ惑ったであろう人型の焦げ跡がそこら中に焼き付いていた。ごうごうと燃える炎に混じって、今も人々の叫喚が響いているような気がする。


 奥の窓辺で横たわるような形で燃え盛る一体の炭を見据え、剣を抜く。瞬間、冷気の魔力が室内の炎を鎮め、室内にある何もかもを凍結させた。


 氷に覆われた炭から白い影が浮かび上がり、それは徐々に探していた少女の姿を形を取る。座り込み、前に手をつき体を支える姿は吹けば消えてしまいそうなほど朧げで、ぼんやりとした顔には生気が感じられない。


 幾度と見せた強気の姿勢はどこへやら。半開きの口に定まらない焦点、希薄な足元。身体の端が煙のように揺らめきながらぼろぼろと崩れていく。


 剣を鞘に収めながら気づく。この剣が生成されたときと同じだと。己の姿がわからなくて崩れながもかろうじて原型を留める状態。


「帰るぞ」


 聴覚は働いたようで、ぴくりと身体が反応してぎこちなく顔を上げる。


「……かえる……どこに?」


 ヴィルヘルムは屈み、少女の手を掴んだ。


「ヘルへ帰るんだ。お前は、ニフルヘイムの雪乙女だろ」


 決して聞き逃しさせないようはっきりと力強く言って引き起こす。


 少女はぱちりと瞬きをした。朧げだった身体は崩れが止まってしっかりと固まり、足もはっきりと見えるようになる。


 雪のように白い衣に夜のような黒髪。あの日、広場で初めてこの姿を目にしたとき、とても美しいと思った。吹雪で舞い上がった黒い流線に目を奪われ、力に満ちた眼差しに射抜かれた心地がした。


 そういえば以前、髪の長さがどうこうと言っていたが、真っ白な中で際立つこの色はとても尊いものに思う。背中に流れる一房を掬い上げると、双黒が上を向く。溶け込むように自分の姿が映っているのを凝視した。


 まだ意識がはっきりしていないのか、珍しくすぐに目が逸らされない。


 胸に倒れ込んできた身体は弱々しく、ヴィルヘルムの背に縋るように持ち上がった手は、しかし掴むには至らず指を引っ掛けるていどだった。身体は成長した姿だが、まだ力が足りていないのだろう。


 意図的に魔力を他人に渡すなどしたことがない。剣を扱うときのようにすればいいのか。触れて、抱きしめて、それでも足りなければ。


 頬に手を当て顔を上に向かせる。半開きになった小さな口から色付いた吐息が見える。


「おい……喰えるか」


 せつなは小首を傾げるだけだった。やはり、ヴィルヘルムがどうにかするしかないようだ。


 せつなの膝裏に腕をまわして身体を浮かせ、床に座り込んだ自分の膝の上に乗せる。頭を肩に寄り掛からせて、身体に腕を回してしっかりと支える。


「…………ヴィル?」


 ああ、その声で呼ばれるのはとても——。


 無垢な子どものように顔がほころび、伸ばした腕をヴィルヘルムの首にまわす。くすくすと楽しげに笑う声が耳元でして、まだ正気ではないなと察する。


 額同士を擦り合わせると、彼女は猫のように目を細めた。

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