雪乙女の心(5)


 だって、とせつなが何か言おうとしたそのとき。ひと組の男女が悲鳴を上げながら茂みから放り出された・・・・・・。臀部を派手に床に打ち付けて、慌ただしく手足を伸ばして、互いに追い越しながら競うように逃げていく。


 呆気に取られた二人の前に茂みを飛び越えて巨大ニワトリ、もといヴィンガルが現れる。


『まったく昨今の人間は礼儀を弁えぬ。ここをいったいどこだと思っているのか!』


 頭を前後に揺らす動作が憤慨によるものだとわかったのは、偉そうな言葉がせつなの耳に入り込んだからだ。


 嘴が向けられ、せつなは反射的に立ち上がって身構える。


『フン、我が庭に入り込んでいたら頭に穴を開けてやったものを』


 石の床を二、三歩進んで、ヴィンガルはやはり流暢に喋った。しかも喧嘩腰で。


「また返り討ちにしてやるわよ」


『生意気な小娘め』


 飛び散る火花をヴィルヘルムがせつなを引き寄せて止める。


「お前、ヴィンガルと話しているのか?」


「そりゃ、え……まさかわからない?」


「俺にはただの鳥の鳴き声にしか聞こえない」


 とうとう自分は鳥の言葉まで解するようになってしまったのか。絶句し額に手をあてるせつなに、嘲笑う鳥の声が降る。


『たわけ。そもそも我ら・・・言葉は心で発するもの。貴様のようにわざわざ人間に聞き取れるように声を合わせたりせんわ』


 フウィートゥルヴと違ってまったく可愛げがないが、目の前の生物はどうやら同類らしい。


『そういえばあのヒナはどうなっている』


「ヒナ?」


『あの泣き虫で軟弱なヒナだ』


「もしかしてローニのこと?」


『我のことも無視して走り去っていったぞ』


「それは……」


『まあよい。あれが泣いているのはいつものことだ。どうせ大したことではないのだろう。しかし今宵は貴様のような余所者が多いというのに、仮にも太陽のヒナを一人にしておくとは人間共は不用心過ぎる!』


 おや、とせつなは意識を改めてヴィンガルを見つめた。


「殿下がどうした」


「ローニが泣いてたのを見かけたから心配なんだって」


「心配? ……こいつが?」


 やはり意外に感じるのだろう。ヴィルヘルムは目を見張る。


 二人の反応が癇に障ったようで、ヴィンガルは甲高く鳴いた。


 背後の窓ガラスが吹き飛んだ。ヴィルヘルムは腕を上げて、飛んできた破片から身を守る。彼の影に入る形になったせつなは目をぱちくりとさせた。


 まさか鳴き声で、と疑問符が浮かびかけるが窓は内側から破裂したようだ。風通しのよくなった枠の向こうから温い花の香りと喧騒が流れてくる。


 大広間へ戻ると、長い燭台を振り回したり、花瓶を投げたりしている男たちから人々は逃げ回っていた。会場を賑やかせていた音楽の代わりに悲鳴が轟き混乱が生まれる。


 近衛兵が現れて暴れ回る者たちを取り押さえる。すると今度は別の場所で突然誰かが暴れ出す。目は虚ろで、首をぐらぐらと揺らしながら歩く姿はとても正気には見えない。質の悪い酒を飲んだとしても、揃いも揃って同じ酔い方をするものだろうか。まるでゾンビのような、けれど彼らは生きている。動き以外で怪しい気配はない普通の人間。


 暴徒の一人が近衛兵を投げ飛ばす。


 大広間以外からも悲鳴が聞こえる。


 優雅な舞踏会は、怒涛のパニック観劇に変わってしまった。


 うわぁ、と唸るせつなにふらふらと男が近づいて手を伸ばす。ヴィルヘルムはその手を掴み、床に捩じ伏せた。脈に触れ、バタつく手足に顔を顰めつつ片足も使って押さえ込む。


「酔っ払いってわけじゃないよね」


「普通ではないな。まじないの類かもしれない」


 近衛兵は数を増やし、速やかな沈静化を図るが、暴徒たちは増強されているようで拮抗していた。細身の老紳士ががたいの良い近衛兵に押し勝つ。落ち着くにはまだまだ時間がかかりそうだ。


 ヴィルヘルムが取り押さえた男を近衛兵に引き渡すと、護衛に囲まれながらアルフィが落ち着いた顔で、しかし足早に近づいてくる。


「ヴィル、ローニを知らないか!」




 どうしてぼくはいつも……。


 初めての舞踏会で晒した失態を思い浮かべ、幼い王子は顔を膝に埋める。


 踊り慣れた相手だったのに。練習では転ばなくなったのに。大事なところで足を滑らせた。冷静に、笑って流せたらよかったのに実際は頭の中が真っ白になって、怖くて逃げ出してしまった。


 父に憧れ、あのような立派な人になりたいと願いながら、いつまで経っても情けないままの自分がつらい。溢れる涙を止める術がわからずローニはぼろぼろと流し続ける。


 コンコンと部屋の扉が叩かれる。まさか誰か来るなんてまったく思わず、動揺で返事が遅れた間に扉は勝手に開く。そこに立っていたのは使用人ではなかった。礼服を纏い、仮面を付けているということは舞踏会の参加者。それがなぜここ・・にいるのかがわからない。大広間からは離れており、ここはおいそれと客人が入り込める場所ではない。しかも一言もなくふらふらと近寄って来るので気味が悪い。


「あ、あの?」


 仮面の隙間から見える目は、はたから見ればローニに向けられているが、正面から受けると焦点がまったく合っていない。目が合わないのに、両手はローニに向けられて伸びる。


 ゾッと背筋を震わせてローニは慌てて立ち上がり、男の横をすり抜けて逃げ出そうとした。


 だが目の前に振り下ろされた剣に遮られ、ローニは後ろに転がる。瞳が覆う水の幕で世界がぼやけても、立ち塞がる影の恐ろしさが緩むことはない。


 剣は、壁にかけられていた模造品。鞘を見せるための物で中身はない。けれどそのまま殴られれば痛いだろうし、ローニの細い手足は容易く折られてしまうかもしれない。


 男が剣を振り上げて、初めて目が合う。


 怯えるローニを前にして男は息をつく。


「やはり……王の器ではない……」


 微かでも聞き逃さなかったローニの体が強張る。


 毎日毎日夢の中で、たくさんの人影がローニの弱さを責め立てた。お前ではダメだ。現実でそれを口にする人はこれまでいなかったけれど、きっとみんな思っている。断罪を待つ罪人のように項垂れた。


 朝を告げる雄鶏の声がする。


 ああこれは夢だったのだろうか。


 ふっと体の力を抜いたローニの首目掛けて剣が振り下ろされ、「てぇいっ!」と少女の声が聞こえたかと思うと、男の後頭部に巨大な雪玉が直撃し、頭をすっぽりと呑み込んだ。視界を奪われた男が踠き、足がもつれて前に向かって体が傾く。


 潰される!

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