雪乙女の心(4)

「だからあいつの名前を呼ばないのか?」


 なんで、と口にする前に気づく。そういえばこの男は、街に出かけたときにこっそり護衛を忍ばせていた。城内であればそこら中、目と耳だらけ。せつなが一度もその名を口にしていないことに気づいていたとしても不思議ではない。


 何も言われていないけれど、もしかしたらヴィルヘルムも気づいているのだろうか。


 若い娘たちに囲まれている彼には愛想笑いの一つもない。邪険にしているわけでもないので、可憐な花々は蝶になって蕾の周りに群がり、いっこうにその数が減らない。


 ふと、彼らの向こう側にある楽団の近くを男が歩いているのを見た。つばの広い、大きな羽飾りが付いた帽子で顔は見えない。けれど右耳辺りで瞬く光がせつなの目を引いた。


 あれってもしかして……。


「失礼!」


 空になった皿を適当な場所に置き、アルフィに振り返ることなくその男を追いかける。中央の踊り場を挟んだ向こう側な為、せつなは端から回り込む必要があった。人々の間を風の如くすり抜ける。


 すれ違った幾人かが唐突な肌寒さに腕をさすり、休憩室に向かった。


 男がそのまま進むと大広間を出てしまう。あと少しというところで会場がどよめく。横から押し寄せた人でせつなの行き先が塞がれ、慌てて首を伸ばして探すけれど完全に見失ってしまった。


 ため息をつき、何が起きたのかと中央を見ると、ローニが尻餅をついていた。ダンス相手だった少女が慌てて手を伸ばすが、真っ赤な顔を歪めてローニはその場から逃げ去る。


 見なかったことにして流そうにも事は中心で起きてしまい、歓談どころではなくなった空気が広がる。


 すると外套を羽織った騎士が手を鳴らした。それを合図に楽団は新しい曲を奏で、人のいなくなった踊り場に巨大なボールと共に弾みながら道化師が現れる。ボールの上で逆立ちしながら足の裏で椅子を持ち上げる。道化師の仲間が出てきて、椅子の上に向かってもう一つ椅子を放り投げた。それが綺麗に積み重なって歓声が上がる。


「真っ先に食べ物に向かったと思ったら、次はどこへ行く気だ」


 背後から近づいてきたヴィルヘルムに振り返り、差し出された腕におずおずと手を置く。


「私見てなかったんだけど、さっき何があったの?」


「躓いたようだ」


「大丈夫かな?」


「走れてはいたから挫いてはいないだろうが……見舞いに行くか?」


 今行ったところで、はたしてあの気の弱い王子様は会ってくれるだろうか。


「ニフルヘイム卿」


「デワーク卿」


 穏やかそうな男が少女を引き連れてやって来た。簡単な挨拶をしたあと、男は自分の娘を紹介する。


「よろしければ、娘と一曲踊ってもらえませんか」


 父親の後ろで娘は恥ずかしそうに微笑みながら、その目は一度もヴィルヘルムから外れていない。


 ヴィルヘルムの美しさに見惚れる気持ちはよくわかる。致し方ないことだ。


 けど、気に入らない。


 今はせつなが隣にいるというのに、彼らの目には映っていないようだ。せめて一言でもあれば、譲歩する気にもなったかもしれないが、存在を無視されたうえ自分からヴィルヘルムを取り上げようとする行為を看過できない。


 せつなはひと息吸って、ヴィルヘルムの腕を胸に抱えるようにしがみつく。


「申し訳ないけど、私のパートナーだから」


 親子とヴィルヘルムの目が見開かれる。いや彼らだけではない。周囲の反応も大きかった。


 せつなと少女は正面から同じ高さで目が合っていた。


 ベールから長い黒髪がはみ出し、青いリボンを飾った胸元が先ほどよりも緩やかな曲線を描く。甘えるように男の上腕に頭をすりつける。そこにいたのは幼い少女などではなく、雪風を纏ったような年頃の娘。


 急激に成長して人々を驚かせたせつなはヴィルヘルムの手に指を絡め、引っ張ってその場から立ち去った。


 庭の方へ出た瞬間、シュッとせつなの体はまた幼い姿へと変わる。


「はぁ」


 疲れが滲み出た声に「大丈夫か」とヴィルヘルムが案じる。


「少し、このままで」


 心地良いヴィルヘルムの体温から離れ難くて、握りしめた手を離せなかった。


 ヴィルヘルムは隅にあるベンチへせつなを誘導すると、腕に寄り掛からせるように座らせた。


「つい出て来ちゃったけど、大丈夫だった?」


「問題ないだろ。娘を会わせるという最低限の目的は果たせただろうからな」


「やっぱりそういう……」


 どうりで若い娘が多かったわけだ。


 未婚男性の元に、同じく未婚の少女たちが集まる理由。想像に容易い。


 権力があり、器量も良し。ヴィルヘルムほどの好物件を放置しておく理由はないだろう。むしろ未だ独り身である方がおかしいのではないか。


「結婚する気はないの?」


「考えたこともない」


「それは、さすがにダメなんじゃ……」


 子を残す。その意味は一般人よりも重くのしかかる責務だろうに。


「——残すべきは俺ではなく、レンナルトの血だ」


「それを言い訳にしてたわけね」


 誰もがレンナルトよりもヴィルヘルムを領主として認めているのに、本人はいつまでもレンナルトを尊重している。


 レンナルトがいるのだから自分が結婚する必要はない。そう言って今日までその類の話を退けていたに違いない。


 しかしレンナルトが表舞台から退いた今、矛先は全てヴィルヘルムに向かう。


 いずれはレンナルトの結婚相手をヴィルヘルムが見繕う気でいようとも、他の貴族の知ったことではない。仮面舞踏会を開いたのも、ヴィルヘルムがさっさと領地に帰ってしまう前に繋がりを作っておきたかったからか。


「結婚相手は慎重に選ばないとね。少なくとも、さっきみたいに私があんたを連れ去るのを黙って見てるだけのは、認められないかな」


 自分の存在も許容できるほど度量が広いのが理想、と付け足す。


 ヴィルヘルムがなんとも言い難い複雑な表情になる。


「お前は、俺が誰かと結婚してもかまわないのか」


「うん」


 頷くことに何の迷いもなかった。

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