第二章 ソルダグ
ひだまりの都(1)
皮を奪われ肉を奪われ息を奪われ——赤く染まる。
私が、世界が、赤く赤く——
怖い。誰か、誰か——あつい
「暑い……」
瞼を上げると身体の表面がじっとりと濡れているような不快感があった。顔を顰めながら横にしていた身体を起こす。低い天上、向かいに座る見目麗しい銀髪の青年。外から聞こえる馬の鼻息に車輪の回る音。
そういえば馬車に乗ってたんだった。
短くなった足が床に着かず浮いていて、振動で体がぐらぐらと揺れる。そんな身体を支える為に詰められたクッションを使い、なんとか腰を落ち着けて窓の外を見ると、ニフルヘイムではまったく目にしなかった麗かな花畑が広がっていた。風にそよぐ爽やかな彩りを目にして幼い少女は気怠げに「暑い」と呟いて窓辺から離れ、
閉ざされた車内は氷室のように冷え込んでおり、青年はニフルヘイム領から出てもまだ北方にいるような装いである。
少女と青年。傍から見ればどのような関係だろうと人々の好奇心をくすぐる二人はいま、王都に向かう道中であった。
ニフルヘイム主都——ヘル。王冠のような岩壁が町を囲み、快晴に恵まれた町は屋根に被った雪や氷の建物が輝き、最奥には彫刻のような美しい青の氷城がある。
城には古くから集めた蔵書を収める書庫があり、その一角に一人の少女がいた。この地では見かけない白い振袖を纏い、背中を覆うほど長い黒髪を今は白い紐で結い上げている。
最近文字を学び始めたせつなは、教材になりそうな本を探していた。
棚の上段に手を伸ばす後ろ姿に雪玉のような姿の雪精が一匹近づく。揺れる白い紐の端にくっついて、ぐるりと回って己の体に巻きつけた。すると結び目が解けて紐が攫われ、艶やかな黒髪が広がる。
「あ、こら待って、返しなさい!」
——しゃんしゃんしゃん
鈴のような澄んだ声で鳴きながらせつなの手を躱す。
振りかぶった拍子に袖の中から雪精が三匹、四匹とわらわら出てきた。せつなの髪の裏に隠れたり、黒糸の波に飛び込んで絡んだりと、完全に遊んでいる。
「遊ばないで、もう……やっぱり切ろうかな」
一房つまみ上げて呟くと「とんでもない!」と誰かが叫ぶ。
振り向くとせつなと同い年ぐらいのメイドがいた。最近は雪精といると遠くから眺められていることが多く、こうして声をかけられるのは珍しい。
「御髪を切るだなんて、旦那様が悲しみます!」
一瞬どきりとしたが、すぐにそれはないと声に出さず否定する。
でも一応念の為、ちゃんと聞いてから決めよう。
以前のようにさっぱりと短くしてしまいたいけれど、もしも彼が長い方を好むというならこのままでいい。
「それにせっかく楽しそうにしているのに、フウィートゥルヴから取り上げるというのも……」
「ああ、この子たち……」
ニフルヘイムの民から愛されている雪精たちは、四六時中せつなにくっついていた。どうやらせつなの側は大層居心地が良いらしく、呼んでもいないのに集まるのである。一度、群がれ雪だるまにされて注意してからは、十匹前後と数は変わるけれど常に三匹以上いる。
そしてここの人々にとって、せつなとフウィートゥルヴが一緒にいる光景は、拝むほどの価値があるらしくすっかりセット扱いだ。
「ところで何か用?」
「あ、そうでした。旦那様がお呼びです」
それを早く言って!
メイドを置いて書庫を飛び出し、着物の裾がはだけないよう足を開き過ぎず、滑るように書斎へ向かった。扉の前で深呼吸してノック。中から許しを貰ってからドアノブに触れた。
ほぅ、と思わずため息がこぼれた。
陽に照らされた雪原のようにきらめく銀髪、結晶のように美しい白銀の瞳。白磁の肌の下に走る血の熱の気配がせつなの心を焦がす。
「どうした」
入り口に立ち尽くしたままでいるせつなに気づき、ヴィルヘルムは執務机に向いていた顔を上げた。
「な、なに?」
我に返って応えたが、上擦ったうえ問い返してしまった。下唇を噛んできゅっと締める。
ここのところ、彼を前にするといつもこんな調子だ。
部屋の中では一歩一歩慎重に。ここでは真ん中にあるソファの上がせつなの定位置だ。向かい合いにならないので気が楽になるかと思ったのだが、二人っきりということを意識してしまって緊張が高まる。
ヴィルヘルムは手元に広げていた紙を折り畳み封筒にしまい、せつなの首元にくっついている雪精を一瞥する。
「お前、ニフルヘイムを離れることはできるか」
「え? なに突然」
思いも寄らなかった質問に緊張の糸が緩み、顔をヴィルヘルムへ向ける。
自然の化身たる精霊は、自分の元素となる物から離れると力が弱まる。小さい精霊だと消えてしまうこともあるらしい。だからフウィートゥルヴは雪の降らない土地には現れない。
力のある精霊の場合は、影響が少ないこともあるという。
ヴィルヘルムは、雪乙女もそうではないかと考えているようだ。
訂正の必要も感じず「雪乙女」と呼ばれるがままにしていたせつなだが、実は精霊であるという自覚はほとんどない。人外になってしまったのは確かだが、子どものように甘えてくる
そして、もともと雪など滅多に降らない土地で生まれ育った記憶が、
「大丈夫だけど」
「本当に?」
注意深く向けられる目から、ほんの少し目を逸らす。
「う、うん。平気平気! でもそんなこと聞くってことは、どこか行くの?」
「中央に呼ばれた」
「中央ってことは、王都?」
「お前のことがとうとう王の耳に入ったらしい。一目会いたいそうだ」
ため息をつくということは、あまり乗り気ではないのだろうか。
「それって行かなきゃダメなの?」
「強制ではない。王も精霊のことはよく知っているからな。ただ……」
「ただ?」
「ある日、なんの前触れもなく門前に現れるかもしれないと思うと」
頭を支えるようにこめかみに指をあてる。親戚の子どもに振り回され、ぐったりとしていたおじさんのことを思い出す。
「王都……ちょっと興味あるかも」
そう後押ししても、まだ悩む要素があるのか決めかねる様子で、けれど結局、王都へ向かうことになった。
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