フウィートゥルヴ(1)
使用人たちも寝静まった頃。薄暗い談話室に男たちは集っていた。
「本当に大丈夫なのですか」
部屋の隅に巣食う闇に引き込まれるのを恐れるように始終肩を丸めている男が、自分の息子とそう変わらない歳の青年を伏し目で窺う。青年は悠々と「問題ない」と告げるが、男の不安は払拭されない。
男の隣に座る年嵩の紳士は、無表情のまま「期日は」と淡々と問う。
「三日以内に手筈が整う予定だ」
「そんなすぐに!? で、ですが領主様はどうするのですか」
声を上げた男は隣の紳士の一瞥に身を縮め、さらに後半の発言で青年に睨まれ、ますます小さくなる。
当初の予定では、領主不在の間に事を起こし、帰ってくるまでに領主交代をせざるを得ない状態に整えておくはずだった。しかし
もとより命まで奪えるとは思っていない。彼の剣に敵う者はそうはいないし、雪山での遭難も、傍系とはいえニフルヘイムの王の血脈ゆえの極寒耐性があるので期待もできない。ある程度足止めになればそれでよかったのだが。
まったく忌々しい、と青年は舌打ちする。
「それでも実行するのですね」
「ああ」
紳士の言葉に青年は頷く。その口元には揺るがない自信を示す笑みがあった。
「今のレンナルト様が領主になる為に行動するとして、一つだけ思い当たることがあります」
小休憩用に書斎に運ばれてきた鮮やかな赤茶色の紅茶に口をつけながら、ヴィルヘルムはウルフの言葉に耳を傾ける。話題は、懲りず
ラルフが可能性として挙げた方法は、ヴィルヘルムも一度考えた。因習に固執してレンナルトを擁立する老輩や現在を受け入れながらも伝統を尊重する領民、双方を同時に納得させるなら、ソレは確かに効果的だ。
「
ラルフの表情が少し陰る。
「大丈夫でしょうか」
レンナルトのことだけを言っているのではないのだろう。
奇妙な様子でせつなが朝食の席を飛び出したのは今朝のこと。彼女はそれから部屋に引きこもって姿を見せていない。お茶の時間に訪ねても扉越しに「いらない」と断られてしまったとラルフは肩を落とす。
気にし過ぎじゃないか、と言いかけてヴィルヘルムは窓の外を見て口を閉じる。見た目通りの普通の少女であればもう少し気楽でいられただろう。
「これも、あれの仕業だと思うか」
その言葉にラルフも外を見る。
朝にゆったりと降り出した雪は、今は風を伴って激しく吹き荒れていた。外に出ればたちまち視界は白く染め上げられ身動きを封じられる。多少の降雪はものともしない住民もさすがに出歩かない。
祖王の加護によって影響が緩和されているヘルだからこの程度で済んでいる。町の外は息をするのも厳しい豪雪になっていた。
雪が降る事態は日常だが、今この城には彼女がいる。
精霊は気分で天候に影響を与えるという。魔法であれば魔力の動きで感知できるが、精霊が気まぐれで起こす暴風や洪水はあくまで自然現象の範疇であり、人間にはそれが精霊によるものかそうでないかが判別できない。
この吹雪もいつも通りのそれなのか、はたまた彼女の憂いに引きずられてなのか、ヴィルヘルムはわからなかった。
思わず出てしまう深いため息を、抱えた枕に顔を埋めて押し殺す。だらりと体を横たえ、シーツのシワを眺めて無駄に時間を消費していた。
どうせこの天気では外にも出れない。
「……ああでも、今の私なら平気か」
雨雲のようにどんよりとした声は、諦めのようなものが滲んでいた。
今の私。じゃあかつての私はどうだった?
思い出すのは、ダッフルコートを着て寒さに耐える一人っきりの自分。もっと他にもあったはずなのに、脱力感が思考も蝕んでいるせいでそれ以上は考えられない。思えばこの世界に来てから、元の世界を振り返ることがあまりなかったことに気づく。
城の防音性はたいへん優秀で、いくら雪を叩きつけられようとも窓は微動だにせず、外界の音など一切入らない。いつも通りの静寂に包まれる中、しゃらん、しゃらん、と鈴に似た音が聞こえた。寝そべったまま室内を見回す。部屋の中にそんな音を発する物はない。
どこから……まさか外から?
窓の方を見るが、音のない吹雪が白く覆っているだけ。では廊下の方だろうかと扉の方に顔を向ける。壁ほどではないけれど重厚な扉があんな弱々しい音を通すとは考え難い。けれど再びせつなの耳に、しゃらん、と音が届く。先ほどよりも小さく、遠い。妙に気になるその音に惹かれ、せつなは扉を開けた。
――しゃらん、しゃらん。
廊下に出て音を辿るが特に目につく物はない。
「どこに——」
「なんだ、出てきたのか」
息を呑んで慌てて振り返る。音に気を取られて背後の存在に気づくのが遅れてしまった。
ヴィルヘルムの姿を目にした途端、不思議な音のことなどすっぱり頭から抜け落ちる。
「な、なに?」
「これを」と差し出されたのは、
「……干し肉?」
具材に使用したわけでもなく、上品な皿の上にスライスしただけの黒っぽい肉が綺麗に縁を描いて並んでいた。先日多く食べたからか、見ただけでその塩味が口に蘇る。
「何があったかは知らないが、好物でも食べれば多少は気が休まるだろう」
「…………好物じゃないけど」
「なんだと」
瞠目する様子に頬が緩む。あの短い旅でこればかり口にしていたからそんな風に思い込んだのだろうか。
手をつけず、干し肉を見つめるだけのせつなに「では何が好きなんだ」と問う。
「好きな物……」
瞬きをして目の前の人を凝視する。
幅広い問いかけだが、きっと今は食べ物のことを訊いているのだろう。目を伏せて考える。
——ねえせつな、これ好きだったよね? 一つ食べる?
真冬の帰り道、友人がくれたそれをせつなは一口で頬張った。
「雪大福」
「なんだそれは」
「バニラアイスを大福の皮で包んだやつ」
ヴィルヘルムは大福を知らなかった。そのあともいくつか品名を挙げて、ピンと来ていない顔が最終的には顰めっ面になっていた。それもそうだろう。似た物ならあるかもしれないけれど、まったく同じ物はきっと存在しない。全部、せつなが生まれ育った世界の物だ。
自分はこんなにも食いしん坊だったろうか。食べ物のことばかり思い出して、おかしくて笑ってしまう。伴って思い浮かぶ友人や家族。そこに確かに己はいたのだと胸の奥がぽかぽかと暖かくなる。
干し肉を一枚取って噛み締める。
なんだやっぱり食べるんじゃないか、と言わんばかりの顔に、せっかくのご厚意だものと頬笑み返した。
「ところで、ラルフさんはあそこで何をしてるの?」
ヴィルヘルムの遥か後方の物陰に潜む気配。今度は見逃さなかった。
「あいつ……手が離せないとか言っておいて」
皿をせつなに押し付けて物陰に潜むラルフのもとへ向かった。逃げ出そうとする執事の襟を掴み、落ち着いて見えて威圧しているのが離れててもよくわかる。
どうどうと宥める素振りをしていたラルフと目が合う。彼は笑っていた。やりましたよ、と言うように得意気に。ヴィルヘルムがわざわざ来るなんておかしいとは思っていたが、彼の仕業だったようだ。少し残念である。
「ラルフさん、差し入れありがとうございます」
「いいえ。私は旦那様の命令に従っただけですよ」
「え?」
「お嬢様のお好きな物を用意し、持っていくように指示されたのは旦那様です」
手が離せない状況でしたので、失礼ながら運ぶのもお任せしてしまいました。……白々しい。——そんな主従のやりとりが耳をすり抜ける。
その行動がどれほどの衝撃を与えるのか、ヴィルヘルムは理解しているのだろうか。いいやしていない。内側から湧き出る熱に理性が溶かされて、抱きついてしまいそうなのを必死で堪えているなんて、平然としているこの男は微塵も思っていない。
影は足元を這い、霧が完全に晴れたわけではない。たった一人の手によって、いつでも更なる深みへ簡単に突き落とされるだろう。
けれど、同時にこの銀光はせつなはを照らすものだ。この輝きを見失わない限り、自分は俯かず上を向いていられる。
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