氷城の領主(7)

 大陸にはかつて数多の王がおり、国があった。


 ニフルヘイムもまた尊き女王の手により生まれた国である。


 各地の建国の祖たちが旅立ち長い年月を経た頃、大陸中央にあった小国ソルダグによって急速に諸国統一が始まった。


 国は領地に。王族は支配される身分に下げられ領主へ。こうして数多の国は、大国ソルダグへと変貌したのである。




 広いベッドの上で横になっていた少女の瞼が震え、闇の中に潤う双黒が現れる。


「眠れない」


 教会で見た織物が何故建国・・図なのか。素朴な疑問を解いてくれたラルフの解説を頭の中で復習したり、ヴィルヘルムが同席していたのにお喋りしていいのかわからず静かに過ごした夕食のことを振り返ったり、とにかく頭の中を動かしていればそのうち眠気に誘われるだろうと期待していたのだが、一向に訪れない。


 気分転換に散歩でもしようと思いつき、寝巻きのまま部屋を出る。


 昼も静かな城内は、夜は一層その色が濃い。まるでこの世界には自分一人しか存在していないかのような。


 しかし以前よりもずっと敏感になった感覚がそんな感傷を即座に打ち消す。遠くにある熱、生き物が持つそれを捉えた。昼間であれば気にならなかっただろうが、夜の熱の気配は際立つ。


 こんな夜中に集まって、何してるんだろう?


 好奇心の赴くままに足は向かう。


 部屋の前に辿り着く前に、中から青年が出てきてせつなは立ち止まり、口をへの字に曲げた。


 一度顔を合わせて以来、まったくその姿を見ていなかったのでこの城にはもういないものと思っていた。


 薄暗い影を滲ませた銀の瞳がせつなへ向けられる。


「貴様、そこで何をしている」


 反射的に会釈したせつなを剣呑な眼差しが貫く。


 戸惑うより先に嫌悪感が込み上げた。初対面のときからこのレンナルトという男は不快な存在であったが、今はそのとき以上に目の前の存在が忌々しい。


 本能的な悪感情を理性で抑えて黙り込むせつなに対し、レンナルトは乱暴な言葉をぶつけた。相手を見下し、尊大に。内容に関しては意識的に聞き取らないようにしていたので、喚いている様子でニュアンス的に受け取った。


 反応がないのが癇に障ったらしく、レンナルトは腕を振り上げた。けれど冷ややかな黒を目にして、それ以上近づこうとはせず、舌打ちして立ち去る。


 年下の、それも中身はどうあれ子どもの姿をした己に手をあげようとした時点で、彼に対する評価はますます急落した。




「あの男はやめておいた方がいいと思う」


 勢いよく朝食の席に着くなりそんなことを言い出したせつなに、向かいの席にいたヴィルヘルムとその後ろに控えるラルフは何事かと顔を見合わせる。


「領主を継がせるって話」


 現領主が目を細めた。


「町で聞いたよ。近々あなたが領主をやめて、あの男が次の領主になるって」


 けどあの男はダメ、と不満を塗りたくった顔で首を振る。


「くだらない」


「む」


「ただの噂だ。そんな予定はない」


「……そっか。うん、なら問題ないね」


 いただきます、と言って手を合わせる。


 この国にはない作法に目を向けながら、しかしヴィルヘルムの思考は別の場所に飛んでいるようで、何にも手をつけずぼんやりとしている。


 朝から美しいものを見ながら食事ができるなんて、なんて贅沢だろう。


 不機嫌な顔で登場したせつなは、すっかり笑顔を取り戻していた。


「ところで、朝からそんなことを言うのは、あいつに何かされたからか」


 再び嫌な顔を思い出し、口の中から味が消える。


「大したことじゃないよ。昨夜、散歩してたら遭遇しただけ」


「夜に、散歩?」


「うん。みんな寝てると思ったら人が集まってる気配がして、なんだろーって近づいたら部屋から出てきたところでバッタリ。なんかすごい睨まれた」


「大方、密談でもしていたところにお前が現れたんだろ」


「密談?」


 それはつまり、城主であるヴィルヘルムに隠れて何かしていたということだろうか。いい度胸をしている。ヴィルヘルムは特に問題にしていないようで、せつなは眉尻を下げ首を捻る。


「お前が気にした噂の出所は奴自身だ。俺を引き摺り下ろして領主になるためにいつも色々と企てているんだ」


「それ、放置してていいの?」


「鬱陶しくはあるが、相手にするだけ時間の無駄」


「……ラルフさんがすごく何か言いたそうだけど」


 使用人らしく口を閉じ、端然と佇んでいたラルフが主人の発言に反応してヴィルヘルムを凝視している様が正面にいたせつなにはしっかりと見えていた。


「……なんだ」


「私もそろそろ対策をなされた方がいいかと思います。最近は過激になってきていることですし」


 案じる優しい言葉にヴィルヘルムは無言を返す。


「お嬢様から聞きましたよ。雪山で遭難しかけていたとか。まさかお忘れですか? あと二、三度……いえ、五度同じ目に合わないと動かないおつもりで? さきほど時間の無駄とおっしゃっていましたが対応遅れで仕事に支障をきたす方が面倒かと」


 詰める言葉に、先に息をついたのはヴィルヘルムだった。片手を上げてラルフの言葉を制す。


 疲れた顔の主人。ニコニコ顔の執事。せつなが羨むほど仲の良い主従だ。


「そもそもヴィルヘルムがいなくなったからって、あれに領主になる資格はあるの? 弟と言っても義理なんでしょう?」


 貴族とは、何よりも血筋を重んじるイメージがあった。


「ないわけじゃない。だからあいつは己が領主になることが正当であると主張しているんだ」


「んん?」


「あいつは先代の実子で、俺が養子なんだよ」


 今では銀髪が生まれるのも稀な傍系に銀髪銀眼の子どもが誕生したのは、数百年振りのことであったという。一族の中でも始祖の血が濃い直系のみに受け継がれていたものを持った少年を先代領主が養子に迎え入れた頃は、次期領主は嫡男のレンナルトと思われており、先代が少年を引き取ったのは保護の意味合いが強かった。


 しかし、先代が後継者に選んだのは、実の子よりも才覚に恵まれた少年——ヴィルヘルムであった。


 傍系であるがゆえに、周囲からの反発は少なくなかった。けれど先代の補佐をしていたヴィルヘルム少年の働きは確かなもので、その力量に周りの声は自然と小さくなっていった。そして彼は領主になり、先代の選択は間違っていなかったのだと知らしめたのだ。


 領民からも信頼され、領主としての立ち位置を確固たるものにしたヴィルヘルム。その裏で、自分が手にするはずだったものを奪われたとレンナルトは憎悪を募らせていた。


「恨まれてるってわかってて、なんで追い出さないの」


「追い出したところでやることは変わらない。なら目の届く範囲に置いておいた方がマシだろ」


 同じ屋根の下に敵を置いておくヴィルヘルムの太々しさが理解できなかった。ラルフとの会話から察するに、地位だけでなくその身も危険に晒されることがあるだろうに。


 初めてヴィルヘルムを見つけたあの光景。あのときは倒れている彼の美しさに目を奪われてしまったけれど、そこにあった赤の意味を考えると身の毛がよだつ。なのに本人はまるで子どもの悪戯程度にしか思っていないような態度だから腹立たしい。


 髪の毛一本でも損なわれることは許されないというのに。


 この人に危害を加えるというならいっそうのこと———しまえば————


 皿にぶつかり、テーブルの上に転がされたフォークが食卓で甲高い悲鳴を上げる。けれどヴィルヘルムたちの注意は、転がった食器よりも青褪めた少女の色に向いた。


「どうした」


「っ、ごちそうさま!」


 これまで出された物は綺麗に食べきっていたというのに、皿の上に半分以上も残し、反射的に一言投げてせつなは席を立つ。二人の顔をろくに見もせず、急いでその場を離れた。


 勢いのまま走り出したが目的地などない。どこへ向かうべきかもわからず、ただ道があるがままに走り続ける。そうしていなければ、雪にも氷にも負けないこの体が、内側からくる寒気に凍えてしまいそうな気がした。


 私は、さっき、何を考えた?


「あ!」


 凸凹など一つとない滑らかな廊下で躓いた。顔から落ちて額を強く打ったが痛みはない。大窓に薄らと映り込んだ小さな影と目が合った。身体から落ちた氷の粒が床に散らばる。それまでせつなが作り出した何よりも脆く、瞬く間に砕けて消える。それでも瞼の下から流れる降雹を小さな手で顔を覆って抑えようと試みるが、体が震えるせいで隙間からぽろぽろと零れ落ちる。


 変わらない、と思っていた。


 肉体が縮み、氷雪を纏い、常人離れした何かになろうとも、その心は『白井せつな』のままであると。自分が自分であることに変わりはないのだと。


 けれど、さきほどのは違う。あまりに容易く、平然と、今までの『せつな』が考えたこともない恐ろしいことを思いつき、本気で実行しようとした。あんなにも鋭い感情が自分の中にあるなど知らなかった。あれは、本当に自分のものだろうか。


 一体いつから? いつから私は……。


 小さな体。本来の自分とは異なる姿。


 ここにいる私は、本当に白井せつな

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