氷城の領主(6)
「――――――い、おい!」
「っ!?」
気づくとヴィルヘルムに抱き上げられていた。抱擁というには力強く、体が軋むほど圧迫されている。わけがわからなくて視線を彷徨わせると、ぽかんと口を開けて立ち尽くしているメニアとまるで彼女を庇うように片腕を広げて店主が立っていた。
ヴィルヘルムの体に触れていた手のひらを引くと、ぱらぱらと薄い氷が剥がれ落ちた。よく見ると彼の上着や髪の毛に霜が張り付いていて、落ちたものが床に染み込んで水滴の跡をつける。
燃えるように暑かった部屋の中が湿気を含み、生ぬるく重みを増している。
「私……」
何かやらかしたような気がした。
無意識に何をやったのかも、なんと言ったらよいのかもわからず、不安から逃げるように横にあった硬い胸に顔を押しつけて伏せる。
「……悪いが今日はもう帰らせてもらう」
「あ、ああ。その嬢ちゃん大丈夫か? なんなら上の部屋で休ませてもいいが」
「大丈夫だ」
ヴィルヘルムはせつなを抱えたまま店の外に連れ出した。
せつなの肩を雪が撫でた。
足を止めて空を見上げる人、自分の体に当たるそれに見向きもしない人。それぞれの反応を見せる人々の間をヴィルヘルムはせつなを抱えて歩く。はたから見ればそれは、歩き疲れた子どもをあやしているようにも見えただろう。
その足は、城には向かわず広場の教会を目指していた。
街中の雑然とした空気から一転。人の気配が遠のき、静粛に包まれてせつなは顔を上げる。
高く広い天井。内部の広さに対して足りていない蝋燭、しかし建物そのものが淡く光っているようで、陽の下の浅い水の中のような明るさがあった。天井の中央には大きな丸い天窓があり、雪の影が室内を舞う。
せつなたち以外には誰もいない。
ここにある静寂は、城のものとよく似ている。宗教らしいことといったら初詣に行くくらいで、信心などたいして持ち合わせていないけれど、せつなの心が安らいでいく。
教会の奥、神を模した像なりシンボルなりが置かれていそうな場所には、祭壇といった物はなく、ただ天井から床に届くほどの大きなタペストリーが飾られていた。
紺色をベースに水色の飾り枠。その中に白い丸が散らばり、真ん中には女が立っている。幾十もの糸で輝く様まで繊細に表現された靡く銀髪。ドレスの膨らみや女性的な丸みを帯びた輪郭もよく糸だけで描けたものだ。
「この人は?」
「ニフルヘイムの祖王だ」
「あの雪玉みたいなのは、模様?」
指の爪まで描く細やかさの中に、女を囲む模様にしては大振りの白丸の存在が気になった。
ヴィルヘルムはせつなの顔を見て間を置いたあとにその名を告げた。
「フウィートゥルヴ」
「フウィー……あれ? どこかで聞いたような……」
「これはニフルヘイムの建国図だ。昔、この地に立った女王は、雪精たちを従え、城を建てて国を創った」
白く長い人差し指が飾り枠の模様をなぞるように宙に円を描く。
よくよく見れば枠の上部分は城のように見えた。左右には森や人、建物も。
女王の髪もそうだが彼女の瞳もヴィルヘルムと同じ色をしている。
あれよりも近くにある氷よりも硬そうな白銀を見つめていると、光が瞬いて「それで」と下にある口が動いた。
「落ち着いたか」
せつなは目をぱちぱちとさせて、一瞬彼がなんのことを言っているのかわからなかったけれど、先ほどまで波立っていた心が静かになっていることに気づき、小さく頷く。
「そうか」
「あ……」
床に降ろされて思わず声が出た。なんだ、と見下ろす瞳に躊躇いながら、上目遣いで手を伸ばす。
「手を……握らせて、欲しい」
予想外にも彼は何も言わず左手を差し出した。その小指をおそるおそる掴む。
ヴィルヘルムはしばらくは白い帽子の天辺を見下ろして佇んでいたが、せつなが手を離しそうにないとわかるとそのまま歩き出した。
振り解かれなかったことに、せつなはほっと息をつく。握り返されることはないけれど、拒みもしない手から決して離れないようにと強く握りしめた。
繋ぎたい、と言っていたらこのあたたかい手は包んでくれただろうか。
手の甲にあたる空気にぼんやりとそんなことを思って、首を横に振る。その身に触れることを許してくれるようになっただけで満足するべきなのだ。
どうしてこの身体は熱を厭うのに、この人のぬくもりを求めずにはいられないんだろう。
教会を出て街の雑踏に戻る。雪が降っていてもなお変わらない賑やかさを、少し前にある男の横顔を見上げながら適当に聞き流していたのだが、ある言葉が耳についた。
「領主が変わるって、本当かしら?」
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