ニフルヘイム(6)
夕食は固い保存食に
「ねえ、それだけで足りる? やっぱりもうちょっと食べたら?」
「そういうお前は肉を食い尽くす気か」
「むっ」
干し肉だけ齧っていたせつなは言葉を詰まらせる。道中もついつい小腹が空いてつまんでしまい、食べ過ぎている自覚はあった。干し肉は味が続いて長く噛んでいられるので、小腹を満たすのに最適だった。
「食べ尽くしてないよ。いる?」
まだ箱の中に三分の二ほど残っている。
「いやいい、お前が食べろ」
「へ?」
「空腹で襲われても面倒だ」
「あのねぇ」
優しさかと思えば直後の裏切りに頬が引き攣る。
吹雪く渓谷の中腹で、風の唸りに少女の喚きがしばらく混じった。
夜が明けても、日差しはまだ渓谷に届かない。火を入れたランプをぶら下げ、二人はソリに乗って洞窟を発つ。
せつなはちらちらとアーベルの後ろ姿を不安そうに窺う。というのも、火の番で彼は一睡もしていないからだ。まだ信用されていないんだな、と寂しさを感じなら大きな欠伸をする。彼女もあまり眠れていなかった。眠気は何度も訪れたが、自分でも意外に緊張していたようで、すぐに目が冴えてしまった。
そんなわけで、なんともないような顔で運転するアーベルに少しの不安を抱きつつ、せつなはソリの縁に頬杖をつき、少し荒い揺れに身を預けた。
「あ」
前方の気配に気づいて身を起こしたせつなは、アーベルの方へ前のめりになる。
「ねえ! 前から人が来てるけど大丈夫なの?」
その場で迂回することも、すれ違うこともできない幅の狭い道。渓谷に入る際の心配を蘇らせたせつなに、ソリを止めてアーベルは訝しげな表情で振り返る。
「人だと? ……見えるのか」
一度首を傾げたせつなだが、ああそうか、と察する。
せつなが感知した対象との距離は、通常人間では視認することができない。せつなも対象の周囲はぼんやりとしか見えず、複数の生き物の気配を捉えただけで、視力が格段に上がったわけではなかった。
「少し見える」
それを聞いて前方に目を向けて凝らすアーベル。その顔つきがいささか険しくなる。
道は真っ直ぐ伸びているわけじゃない。波のように緩やかにうねり、岸壁の出っ張った部分が邪魔をして全貌は見えない。さらに道沿いは影になっていて、人の目では見通しが悪かった。
急いでいるようだし、こんなところで時間がかかるのがいやなのかな。
「どんな奴だ」
「え?」
「……渓谷では、互いの存在を示し衝突を防ぐためにランプを付ける。それが見えない」
「それって……ええっと」
せつなは目を凝らした。
確かにランプの火はない。はっきりと見えるわけではないが、以前よりも良くなった目は、影の中で立ち止まっている者たちの特徴を捉えた。
「なんか、狼の毛皮を頭から被ってる?」
「『ボァワズルマネス』か!」
吐き捨てるように言ってアーベルはランプの火を消した。
「ぼ、ぼわ?」
「何人だ」
「……二人。トナカイに乗ってる」
自分に剣を突きつけたときと同じ表情に戸惑いながら応える。
「蹴散らして進むか」
「戦うってこと? 怪我人なのに!?」
「騒ぐな。向こうに聞こえる」
傷も治りきっていないのに、何を言っているんだこの男は。
そんな文句を口の中に押し留めて、膨れっ面になるせつな。
アーベルは戦いに慣れているのだろう。傷を負うことも負わせることも。だからせつなならじっとしておくべきだと思う傷も大したことがないなどと言う。
本調子じゃないくせに。剣だって、間に合わせの物なのに。
ここに人外の力があると知っていながら、貸せとも、使えとも言わない。
なんだか、もやもやする。
せつなは周囲を見回した。
狼の毛皮の二人組が立ち塞がっている。
幅の狭いうねる道ではソリを走らせることもできない。
右手は絶壁、左手は底の見えない谷。
二人組の向こう側は真っ直ぐな道で、すり抜ければ走ることができそう。
その二人をどうやって躱すかが問題なのだけど。
「ん?」
後ろから生き物の気配を感じて振り返る。姿は見えないが、こちらに向かって動いているのを微かに感じる。
ソリを降りようとするアーベルのコートの裾を掴む。
文句を口にしかけたアーベルは、相手が自分を見ておらず後ろを注視しているのに気づいて口を閉ざす。
前方の二人とは関係ない、第三者であればいいとせつなは思った。しかし後方の気配は奇妙なことに急に動きを早めた。そろそろ視認できる距離に入ったというのに崖沿いの道を辿ってくる者は現れない。もう少し気配に集中して、せつなはハッと断崖絶壁を見上げる。
「上にも二人いる!」
狼の毛皮を被ったもう一つの二人組。
アーベルの目でも確認できるくらいの距離になると、片方が何かを振り回しているのに気づく。そしてそれをせつなたちに向けて振り切った。
「ふぁっ!?」
肩を掴まれ、思いっきり後ろに引っ張られて転げたせつなの上を、勢いよく何かが通り過ぎてソリの一部を破壊した。
「……は!?」
石だ。なんの変哲もない、手のひらサイズの石ころ。しかし砲弾として放たれたその威力は凄まじく、当たっていたら、とせつなは青褪める。
「待ち伏せに挟み撃ちか」
淡々と状況を確認するアーベルにせつなは慌てた。
「ど、どうするの!?」
「ソリを捨てて――」
話している間にも第二撃が放たれた。二人は寸前のところで避けたが、またもソリの一部が壊された。飛び散った破片がトナカイに刺さり、驚いたトナカイがその場から逃げ出そうと、御者の指示もなしに走り出す。
「くっ」
崩れたかけた体勢を整え、アーベルは手綱に手を伸ばす。しかし細長い綱はひらひらと風に巻かれて届かない。
暴走するソリ。先にはうねる道。はたして曲がりきれるか。トナカイが道に沿っても、この勢いではソリごと谷に投げ出されてしまいそうだ。
「――ぅあああああもう!!」
「おい、何をっ」
せつなはソリの横から身を乗り出し、左手を伸ばしてぎりぎりまで地面に近づける。
やけくそだ。だって試してる暇なんてない。
追い詰められて浮かんだ、策というには杜撰な、こうなったらいいな、という希望的な未熟案。
それでも。何もせずに死ぬよりも、足掻いてやる方が数倍もマシだから。
前方に狙いを定め、せつなは己に取り巻く流れを意識する。手のひらに収まる小さなものではなく、もっと大きく、もっと強く。この渓谷の深い裂け目を圧倒するほどの。
小さな手のひらに光の粒が煌めく。渦を巻き、光は霞に、周囲の氷雪を巻き込みながら地表を凍らせ、氷の道を作り出す。ソリの速度よりも早く、トナカイの足元を抜け、さらにその先へ。
段々と分厚くなりながら伸びていく青い道。一歩先という寸前で作られていくその上を、二頭のトナカイは怯むことなく突き進む。
氷の道は真っ直ぐと、本来の道なりからは外れ、足場のない宙へ。
せつなは必死だった。
少しでも集中が切れたら氷の道は途中で止まり、ソリは底へ真っ逆さま。歯を食いしばり、ソリの縁を掴んで身体を支えている右手に力を入れ、道を伸ばし続ける。
溝を越え、前方に立ち塞がっていた二人組の頭上を越え、狼の被り物をした連中を振り払っても止めない。
「もうすぐだ。渓谷を抜けるぞ」
その声に、もう一踏ん張りと気合を込める。
谷間を駆け抜け、日差したっぷりの光の中へと飛び込んだ。
ようやく本物の地面に辿り着いてソリは止まる。いつの間にかアーベルがしっかりと手綱を握り、トナカイたちを制していた。
せつなはくたりとソリの縁に寄りかかり、長距離を全力疾走したように息は荒い。背後で役目を終えた氷の道が砕け散って消える。
しばらくして息が整ってくると、せつなは顔を上げ、目にした光景に驚いた。
それは巨大な王冠。
山の窪地に切り立った岩壁が輪のように並び、岩壁を覆うように積もった雪と氷が陽光に反射して輝く。要塞というにはあまりに美しい造形。
奥の方には城があった。まるで壁から掘り出した彫刻のように壁際に。遠くから見ても透き通るような水色の氷の城。
城下には広大な湖かと思えば、それは光を反射する水面のようにキラキラと輝く町であった。
見た者の心を奪う、美しき王冠の中の町。
これが、ニフルヘイムの主都――ヘル。
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