ニフルヘイム(5)

 一台のソリが村を離れ、雪深い山中を走ってしばらく。傍から見れば寒々しい白い着物姿の少女が走行中のソリの縁に頬杖をつき、小さな唇をツンと尖らせていた。


「なんで私まで」


 人が乗りやすいよう前部分の座席は大人二人でも余裕の広さがあるというのに、せつなが放り込まれたのは後ろの荷台部分。


 不満気に手綱を引く青年の背中を睨む。


 防寒具は暑さに負けて脱いだ。今更、青年相手に取り繕う必要もない。人肌を刺す雪山の風も、雪に混じってときどき跳ね上がる氷の粒も、せつなにとっては優しく頬を撫でるものに過ぎない。


「お前みたいなモノを村に放置して行けるわけがないだろ」


 うんざりする理由だ。アーベルはまだせつなを魔物だと思っている。


 魔物じゃない。


 と言い切れなくてせつなは頬を膨らませる。


 着物をほどいて、結び直してから自覚した。毛先から爪先まで、内側の隅々に行き渡り、体の表面を覆うように内外に存在する流れ・・。血や空気に等しい存在感だった為に、それが自分の意思で操作できるものだなんて思いも寄らなかった。


 手のひらを広げて息を吹きかける。深く考えず、ちょっと流れを意識して息を吐いただけで親指サイズの氷の塊ができた。これは空気中の水分が固まっただけ。今度は意識して同じことをやると、手のひらサイズの雪だるまに。普通の人間にできることではない。


 雪と氷を操る白い着物姿の女。


 それはまさに、せつなが文化祭で演じようとしていた「雪女」。


 ……いやでも、だとしても妖怪だし。魔物じゃない。中身は人間のままだし。うん、魔物じゃない!


 こじつけたような納得のしかただが、それでも晴れやかに顔を上げたせつなをアーベルは胡散臭そうに見た。


「余所見運転はダメ!」


 両手人差し指を交差させてバツを作る。


 何も言わず彼は前に向き直る。


 剣を突きつけられるよりだいぶマシな対応だ。アーベルの腰には、砕かれた剣の代わりにカールロから借りた鉈のような武器が挿してある。


 村にはアーベルが使っていたような剣はなく、狩猟用の武器ぐらいしかなかった。短いが、と差し出されたそれを彼は「問題ない」と言って借り受けた。


 その武器をどんな風に振るうのだろう。


 剣を持つ姿はかっこよかった。しかしこの鉈のような武器ではがさつになってしまいそうな気がする。横顔を見つめながら、彼に似合いそうな剣を想像する。


 村を出てから初めての休憩をとり、また出発してからずっとトナカイは走り続けた。


 ソリの上で膝を抱えて干し肉を噛んでいたせつなは、再び速度が落ちたのに気づく。


「やっと休憩?」


 ほとんど同じ体勢でいて窮屈に感じていた体を伸ばし、ソリから身を乗り出す。すると目に飛び込んできたのは、氷雪が牙となって吹雪く巨大な渓谷。アーベルが進もうとしているのは、ギリギリ通れるが、下手をすれば谷底へ消えることになる岩壁に沿う狭い道。「本気?」とせつなは青白くなる。


「急いでいるからって無茶な近道をしようとしてるんじゃ――」


「これが正規ルートだ」


 ヘルへ行くのは大変だとは聞いていたが、寒さで厳しいだけと軽く考えていた。


 雪崩に耐え切ったこの身体は、はたして落下にも強くなっているのだろうか。断崖絶壁に恐れ慄いている間にもソリは動く。


「ちょ、ちょっと待って」


 言葉は聞き入られなかった。


 さすがにスピードは出さず、トナカイの足並みも慎重になる。


 絶叫マシンよりもリアルな恐怖に震えつつ、せつなは向かいからソリが来ないことを願う。


 視界がほとんど見えなくなってくると、アーベルは前を向いたまま後ろでにランプをせつなに差し出した。


「おい、火をつけろ」


「え、やだ」


 眉間にシワを刻んだ顔が振り向く。


「無理」


 せつなは髪を振り乱すほど懸命に首を振って強調した。


 彼女にとっては不本意なことに、今は熱に対する苦手意識が強い。火に対しては距離を置けば耐えられるが、自らの手で扱うなど考えるだけでゾッとする。


 寒さを感じないはずの身体に悪寒が走るとは、奇妙な感覚だ。


 アーベルはため息をつき、ソリを止めてマッチでランプに火を入れた。それをソリの先端に引っ掛ける。


 小さな光だが、渓谷の中で十分頼りになる灯り。


 ソリを動かす後ろ姿が「……火が弱点か」とぼそりと呟く。火をつけたときに身体がビクッと反応してのをしっかり見られていた。


 せつなは膝を抱え、氷像のようにじっとする。


 裂け目の奥から渓谷の唸り声が響き渡る。


 ここはまるで化け物の腹の中だ。


 ゆらゆらとう揺れるランプが岩壁の凸凹を照らす。せつなが空を見上げると雪は止み、ギザギザな縁の星空が線を引いていた。


 ソリが止まる。


 壁続きと思われたところに、ソリが丸ごと収まるほどの穴が空いていた。


「ここは?」


「中継地点だ。一晩ここで過ごす」


 ソリに乗せられたまま入った洞穴の中は、中央の天井が少し膨らんだ形をしていて、下には焚き火の跡があった。風も入らないので外に比べると暖かい。


 アーベルが焚き火を起こしている間、せつなはトナカイたちに餌やりをする。


 トナカイたちは、人とは違う気配を纏うせつなに怯えることもなく、自ら鼻先を寄せて餌をねだる。


 パチパチと薪を食らう火の音。せつなと同じように寒さなど感じてないように見えたアーベルだが、彼は人間らしく白い頬を淡く染め、焚き火の前に座っていた。


「ねえ、傷は大丈夫?」


 いつでもすぐに使えるようにと、薬草や包帯などを詰めたポシェットを持たされていたあ、村を発ってからまだ一度も開けていない。


「問題ない」


「ほんとうに?」


 出血を伴う傷だったのだから、痛みぐらいはまだありそうだが、相変わらず無表情のままで返事も素っ気ない。


 あまり見つめ過ぎると、つい心を奪われそうになる。


 ついつい凝視していたせつなは、我に返って頭から煩悩を振り払う。


「じゃあ、ちょっと服捲って。確認するから」


「……なんだと?」


 睨みに対して負けずと胸を張る。


「レーナさんから気をつけるように言われたもの。その気遣いを無駄にする気? 無理矢理剥かれるのと、自分で見せるの、どっちがいい?」


 普通なら小娘が体格差のある男に対して無理矢理など不可能だろうが、せつながただの小娘でないことはアーベルも承知している。一瞬忌々しそうな表情を見せたが、渋々と上着の前を開けて服を捲った。


「あー! 血が滲んでるじゃない!」


 白い胴を覆う包帯に、じわりと赤黒いシミが広がっていた。


「薬塗るよ! あと包帯の交換!」


 ようやく出番のポシェットを開けると、包帯と、ビンやら丸い容器のいくつが入っていた。


「えーっと……どれ?」


 せつなが首を傾げると、ため息をつきながらアーベルが「見せろ」と言って手を伸ばす。ポシェットごと渡すと、彼は一瞥しただけで容器に入った止血薬を迷わずと取り出した。レーナからあらかじめ説明を受けていたらしい。


 そのときに手渡されそうになって断ったのを、レーナはせつなに持たせたのだ。


 アーベルは自分で薬を塗り、新しい包帯を巻こうとした。しかし締めようとすると緩んで、何度もやり直す。


「貸して」


「おい」


 素直に渡してくれるとは思っていないので、せつなは半ば無理矢理包帯を奪い取り、アーベルの胴に巻きつける。小さな体と短い腕では、どうしても抱きつくように肌が触れてしまう。ほんの一瞬でも触れるアーベルの体温は熱く、せつなを焦らす。


 アーベルの方はせつなの体が冷たく感じるのか、微弱に震えながら体を強張らせていた。


 最後に結び、しっかりと固定された包帯にせつなはドヤ顔。


 ちゃんとやったというのにアーベルはじとりと睨む。


「俺を凍らせる気はないんだよな」


「…………もちろん」


 いつもよりも返答が遅れたせいか、目つきがキツくなる。服を整えるアーベルからさっさと離れても警戒の色は消えない。


 焚き火からも遠のいて、せつなは苦笑を浮かべる。


 ほんの少し。


 ほんの少しだけ。身体を震わせながら顔色を変えず、弱味など見せまいとする気丈な目を、そのまま固めてしまいたい、と思ったとは言えない。

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