ニフルヘイム(2)

 目を開くと知らない木造の天井だった。


 そんなありきたりな文面を思い浮かべて、せつなは首だけ動かし周囲を見回す。


 ここ、どこ?


 家具はベッドと低い棚だけという慎ましく薄暗い室内。


 体に乗っている毛布の重さが煩わしく、除けようと手を上げる。


「え」


 己の手の小ささに驚いた。慌てて上半身を起こし、両手のひらを広げて見下ろす。


 手、腕、シンプルなワンピースに覆われた真っ直ぐな薄い胸。目立つほど大きかったわけではないけれど、服の上からでもわかるくらいには存在した膨らみが消えている。


 鏡が見当たらないので、ベッドから降りて家具の高さと比べて目測する。昔から平均より低めでかなり小柄になってしまったがおおよそ中学で成長期を迎える前、十二歳前後くらいだろう。ただし、当時は胸の辺りまであった髪が縮む前と同様のおかっぱなのを考えると、若返ったというよりは現在のせつながそのまま縮んだと思われる。


「……あ、まだ夢か」


 このわけのわからない状況を説明するにはそれが妥当に思えた。


 近づいて来る足音に気づき、ベッドに戻るのをやめてドアの方に顔を向ける。


 ドアを開けて入ってきた女は、立っているせつなを見て驚いていた。


「よかった。目を覚ましたのね」


 後ろに緩くまとめられたブロンドに西洋系の容貌。手入れはされているが使い込まれているのがわかるエプロンと足首まで隠すワンピース。まるで村人の装いだ。部屋の雰囲気も相俟って洋画の世界に入り込んだような、しかし染み付いた生活臭が現実だと訴える。


「ちょっと、大丈夫?」


「え、あ、はいっ」


 しゃがんで視線を合わせて心配そうに顔を覗き込んでくる女に頷く。


 彼女はせつなの額に手をあてると「冷えてるわね」と眉を顰め、棚からストールを取り出してせつなの肩に掛けた。子どもの体には大きく、マントのように膝下まで体を覆う。


「ありがとうございます」


 ちょっと暑いと思いながら、親切は無下にできないと受け入れる。


「そうそう。あなたのお兄さんは隣の部屋で寝ているから安心してね」


「……はい?」


 せつなは一人っ子である。


 では兄とは誰のことかと首を傾げれば、なんと雪山で見つけた青年のことだった。


 どういうわけで私とこの人を兄妹と勘違いできたんだろう。


 横になっているだけで古びたベッドを芸術作品の一部にした銀髪の美青年。


 介抱してくれた女——レーナは、食事の支度をしてくると一階に降りた。青年が寝かされた部屋に来たせつなは、ベッドの脇に立って最初に見たときよりも血色が良くなっている顔を見下ろした。


 怪我を負い、雪崩にも巻き込まれたが幸い命に別状ないと聞き、とりあえず安心した。


 雪崩に巻き込まれたせつなたちは、村の近くまで流されて、被害を確認しに見回っていた村人たちに発見された。そのとき一度、青年は目を覚ましたようだが、村人と二言ほど言葉を交えて、名乗る前に再び気を失ってしまったらしい。二人を見つけた場にはレーナの夫が居合わせ、二人はそのまま彼の住宅であるこの家に運び込まれたのだ。


 破れていた服は着替えさせられ、質の良い物だからと血の汚れだけ落として剣と一緒に枕元に置かれている。


 剣。日本においては銃刀法違反の代物。こんな風に置いていていいのかと問うと、この辺りでは獣や魔物から身を守る為に武器を持つのは当たり前のことだと、レーナに不思議そうな顔で言われてしまった。


 普通に出てきた「魔物」という単語に、せつなは遠い目をして聞き流した。


 せつなも寝ている間に着替えさせられており、着物は起きた部屋の棚の上に置かれていた。丁寧に畳まれてはいたが、着物の畳み方は知らなかったようだ。こちらにくる前に広げて確認したそれは、今のせつなの体格に合わせて小さくなっていた。文化祭で用意された物とはデザインも質も違う。帯も作り帯ではなかった。知らない間にすり替わっていたのが不気味で、友人に教わった通りに畳み直し、棚の上に戻してある。


 発見されたときにはすでに幼い体で、青年の腕の中にすっぽり収まっていたという。ならば変化したのは、雪崩に巻き込まれたあとだろう。


 それらしいところは見当たらないけれど、この青年にも何か異変が起きているのだろうか。眺めていると、コンコンとドアがノックされ「はい」と応じる。


「セツナ。夕食ができたのだけど、こっちに運ぶ?」


 顔を見せたレーナからは甘い香りが漂っていた。


「いえ、そっちでいただきます」


 部屋を出る前に振り返って、横たわったままの姿をもう一度目に収める。


 早く起きてくれないかな。


 呼びたい名前を知らないことが少し寂しかった。


 一階に降りると暖炉が燃えていた。外は雪が降っているのだから、暖房器具が使われているのは当たり前であるのに、せつなは非常に驚いて足運びが慎重になった。


 大きなテーブルの端に座った。目の前に置かれる野菜と川魚をじっくり煮込んだ白いスープと丸いパン。質素でごめんなさいと出されたが、それほど空腹感を感じていなかったせつなには十分な夕食だ。


 千切ったパンを硬いと感じて、スープに浸けてふやかす。それを口に放り込んだ。


 あっつぅッ!?


 慌てて口から出し、ちらっとレーナと夫のカールロを窺った。せつなの反応に気づかず平然と食事をしている彼らを見て、自分の皿を見る。


 猫舌じゃないはずなんだけど……。


 息を吹きかけ、ある程度冷ましてからおそるおそる口に運ぶ。


「……美味しい」


 けどやっぱり熱い!


 出された物を突き返すこともできず、せつなはゆっくりと、時間をかけて完食した。


 ひと仕事終えたような気分で額の汗を拭いながら、空いた食器を片付けるレーナに手伝いを申し出る。


「あら別にいいのよ。まだゆっくり休んでいて」


「いえ! お世話になっているんですから、これくらいはさせてください」


「まあ」


「けど大丈夫か? 水仕事だぞ」


 感心するレーナの隣でカールロが不安そうに言う。夫婦はせつなを良いところのお嬢様だと思い込んでいるようだった。まっさらに見える指先を水に晒すことに抵抗があるらしい。


「大丈夫です!」


 一般家庭出身のせつなは、カールロの心配を押し退ける勢いで言い切った。


 水の中でもてきぱきと勢いを落とさない手元を見て、「助かるわぁ」とレーナは頬笑む。


 片付けを終えて様子を見に行くと、青年はまだ眠っていた。


 傍に立って顔を見て、ため息が出る。


「やっぱり綺麗だなぁ」


 何度見ても見飽きない美。そしてこれにはまだまだ驚きの余地がある。例えば、瞼の下に隠れた宝石をまだ見ていない。


「どんな色かな」


 薄い皮膚に触れてより一層、その下に隠れた熱を感じる。


 ぐっと指先がぶれたので慌てて手を引っ込める。離した指の下から現れたそれに、せつなの幼い顔が映り込む。


 透き通るような美しさと輝きを持つこれは——


「ダイヤみた、いっ!?」


 世界が回った。


 中途半端に浮かせていた右手を掴まれてベッドに押し付けられる。暗い天井を背景に銀色の輝きが視界を奪う。


「お前、何者だ」


 氷柱から垂れ落ちた雫が水面を打ち鳴らすような涼やかな音。


 聴き入ってしまいそうなせつなを、ツンと首に当てられた剣の刃が正気に戻す。


 いつの間に。動きが早い。いや、私の反応が鈍い?


 思考が落ち着かなくて目が回る。


「あいつらの仲間か」


 当てられた刃が薄皮に食い込む。


「し、知らない! なんのこと!?」


「では何の為に俺に近づいた」


「何の為って……倒れてたから……」


「……俺を喰おうとしたのか」


「…………は?」


「お前、人間ではないだろう」


 何を、言っているんだこの人は。


「人語を解しているあたり、高位の魔物のようだが」


 戸惑うせつなを置いてけぼりに、青年は謎を紐解くように続ける。


「雪山では周囲に同化してほとんど感じなかったが、今ならお前の異質な気配がわかる。この体は……雪か氷で造ったのか?」


「私は——」


人間の子どもその姿は、餌を誑かす為か。実に魔物らしい」


 口調は淡々としているのに、視線は鋭く突き刺さる。


 わかってしまった。この青年は躊躇なく斬る。なんであろうと彼が決めた瞬間にせつなの首は胴から分たれる。青年の動きについていけなかったせつなには、それを防ぐことができない。


 死ぬ。いやだ、死にたくない。ダメッ——


「離してっ!」


「っ何を——」


「怖いからこの剣退けて!!」


 喉に鋭い感覚が走ったがかまわず怒鳴る。


 右手を押さえつける青年の手を左手で外そうと掴み、足をじたばたさせもがく。体格差で抑え込まれ、ますます腹が立った。


 この男は問いかけておきながら、私の話をちっとも聞こうとしない。しかも殺そうとするなんて。


 ふざけるな! 綺麗な顔してるからって、そんなのは許さない!


 皮膚を裂き、わずかに食い込んでいた刃からピキッと音がなり、青白い閃光が迸る。

 青年が虚を衝かれた顔をして、せつなも驚いて不意を突くどころではなかった。


 青年の剣が刺々しい氷の荊に巻きつかれ覆われたのだ。


 咄嗟に離したのか青年の手は無事だった。せつなの首と接している部分だけで支えられているように見えるが、氷は肌の表面にくっついているだけで固定はされておらず不思議な状態であった。


 棘で増した凶悪さに反して、恐ろしさはさっぱりなくなっていた。


 とりあえず首から離そうと、せつなの指が剣を覆う氷の表面に触れた瞬間、弾けた。厚みがあったにも関わらず、粉々に砕け散り、二人の間で煌めきながら空気に溶けて、中身すらも残さず消えた。

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