第一章 ニフルヘイム
ニフルヘイム(1)
白い。
いつの間にか横たわっていた体を起こし、睫毛に引っかかっていたそれを首を振って落とす。
空からしんしんと積もる雪。手のひらで受け止めても溶けることなく、風にさらりと攫われた。見渡す限りの銀世界に瞬き一つで同化して、雪花のひとひらなどすぐに見失う。
ああ、これは夢か。
でなければ、着物姿で雪山に立ち尽くしている理由が説明できない。
景色は寒々しいものだけれど、触れた雪は冷たくなく、溶けないので柔らかいだけで着物や足元が濡れることもなかった。
雪女役になったからこんな夢を見ているのだろうか。首を傾げ、ぼんやりとする頭を抱える。とにかく動かなければならない。夢から覚める為に。
履き慣れないはずの真っ白な草履は、不思議と雪の上でも歩き易く、普段通りの足取りで斜面を下る。
空は雪雲に覆われ、所持品はない。時間を確認できる物がないので正確ではないが、体感で三十分ほどは歩いただろう。自分がいたのが麓からかなり離れた山の上だったことに気づく。歩けど歩けど白一面。一度崖から見下ろした先に雪を被りながらも黒く際立つ森を見つけたが、さらに先にある下部の方は白で霞んでよく見えなかった。
「もしかして麓なんてない?」
山を歩き続ける夢なのだろうか。寒さも疲れも感じないからといって、目的地もわからず代わり映えのない景色の中をただ歩き続けるというのは苦行に等しい。
「ん?」
何かが聞こえた気がして足を止める。
雪山は基本静寂の世界。それでも口笛のような風の音や、木に積もった雪が枝から滑り落ちる音。そんな山の息遣いの中に紛れた異質な音。
「あっち、かな……」
僅かな変化に期待を抱き、音の出所を探す。
林の間を通り抜け、ひらけた場所に出るとそれはあった。——いや、いた。
踏み荒らされた雪の中に沈み込んでいる人。自分以外の登場人物を目にしてせつなは躊躇なく近づく。
「う、わ」
まとまらず崩れた声がこぼれる。見開いた
白に溶け込まず輝く銀髪。額を覆う前髪の下に僅かに見える眉毛や、目元を縁取る睫毛も同色で儚い印象を抱かせる。彫りが深く、すっと通った鼻筋に陶器のような白い肌。
せつな自身も友人から白くて綺麗と肌を褒められることがあるが、思わず自分の手を隠してしまうほどに、彼は質が違う。こんなところに野晒しにしていいものではない。美術館に納め適切な管理をするべき芸術品だ。ファンタジー映画の少し洒落た旅人のような衣装のせいか、物語の挿絵を見ているような気分にもなる。
赤い雪が彼の美しさを際立たせて——赤?
青年は赤い雪の上に横たわっていた。しかし雪が赤いはずがない。
目を凝らしせつなは、雪に触れて初めて湿りを感じた。指先に移った色を見て驚く。
「これ、血!?」
整った造形に触れるのに躊躇していたのを忘れ、確認すると服の脇腹部分が裂けて赤黒く濡れていた。
「救急車っ、いや救助、ああっ電話がない!」
待て、これは夢だ。
慌てる必要はないと理性的な思考が囁く。一旦冷静に、と深呼吸をすると地面が揺れていた。
「今度は何?」
不穏な轟音に上を見ると、全てを一掃せんとする勢いの白い波が向かって来ていた。
これはやばい。
いや、でもこれは夢。
このままだとこの人が巻き込まれる。
夢……。
考える。けれど時間がない。何も思いつかない。
思考停止してもせつなの身体は動いた。青年に覆い被さり、身を挺して守ろうとしていた。それでなんとかなるとは思っていない。ただの条件反射。ただの気休め。
我に返っても離れる気にならず、口を開いた雪崩を目前にギュッと目を閉じて、彼の身体を力一杯抱きしめた。
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