第3話 ヴェロニカ
皇太子カールの元には、毎日のように“下界”からの献上品が届けられる。物欲のないカールは、そういったものにさして興味も示さないが、それでも、ある程度の格式の相手から贈られたものであれば、そうそう無視するわけにもいかない。
中東地域に勢力を誇る有力豪族からの献上品というので、カール自身が使者を迎えた。陶芸品だの絵画だのといった品々は、およそカールの趣味に合うようなものではなく、派手好きな父帝にでもくれてやった方が良さそうなものに思われた。
「こちらが最後の品でございます」
使者がそう言って取り出したのは、
言葉を失うカールだったが、使者の方もこの娘のことを知らなかったらしく、ひどく狼狽している。
「お初にお目にかかります。ヴェロニカと申します」
痩せた体型に似合わぬ低い声だった。絨毯にくるまって権力者に近づくというパフォーマンスは、古代エジプトの女王を真似たのだろうか。とてもそんな振る舞いの似合う女とは思われない。艶のない肌。肉付きの良くない肢体。青白く乾燥した唇。醜いとまでは言わないが、あまりにも凡庸な容姿である。皇太子がその気になれば、これよりは遙かに美しい女をいくらでも自由にできるであろう。
「この娘が献上品、ということなのかな?」
カールは使者に尋ねるが、使者はこの娘を知らないので何とも答えようがない。慌てふためく使者を無視して、娘が答える。
「
「では、君は何のためにここに来たのかな?」
皇太子の声は、少し上ずっていた。カール皇太子は普段、あまり口を開かない。公的な場で演説するときなどはそれなりに堂々としているが、それは用意された原稿があってのことで、普段のカールは口下手と言って良い。だからこういう予期しない出来事に直面したときのカールは、内心の動揺をあまり上手に隠すことができない。皇太子兼摂政とはいえ、彼はまだ20代半ばの青年である。
「殿下の望むものを差し上げに参りました」
娘の低い声は良く通る。包容力を感じさせる柔らかい声である。容姿こそ凡庸だけれども、このどこか懐かしい声は悪くない。
「私の望むものを?」
「左様でございます」
娘が顔を上げた。黒く、大きな瞳には見覚えのあるような気がした。
「おかしなことを言うね。私はすでに全てを手に入れた」
皇太子の口調は、少し落ち着きを取り戻していた。真実、カールは全てを持っている。カール自身はそれを喜んではいないというだけである。
「いいえ、殿下は何もお持ちではありません」
娘の声は、皇太子を憐んでいるようにも、蔑んでいるようにも聞こえた。いずれも、皇太子に対して一度も向けられたことのない感情であったに違いない。
ヴェロニカと名乗る、美人とも言えない怪しげな娘(その出自については今日においても確かなことはほとんど何も分かっていない。おそらくは中東地域の貧民街で育った娼婦であろうと推測されているが、物証のようなものは何もない)の、無礼としか言いようのない言葉にも腹を立てなかったのは、カールという男の善良さであったとも言えるだろう。カールは、未だかつて自分に向けられたことのない態度に接して、怒るよりも興味を惹かれてしまった。カールのような純真な男にとって、女に興味を持つこととその女に魅了されることはほとんど同じことである。
ヴェロニカはカールの側女となった。思いがけず不審な娘を宮廷に連れ込んでしまった使者たちは、処罰を免れて胸を撫で下ろしたであろう。
皇太子は、正妻以外にはほとんど女というものを知らない。彼の正妻は母の姪、すなわちカールから見れば従妹にあたる女である。実家の再興を目論む母の意志に沿った政略結婚であり、カールにとっては妻との情事は、世継ぎを作り、母の遺した
ヴェロニカとの夜は、そんな彼にかつてない衝撃を与えた。ヴェロニカの容姿がいかに凡庸であろうと、カールにはあまり大事なことではなかった。そもそも彼はそれまでさほど女を求めていなかったのだから。ヴェロニカの与えた愉悦、それは、カールの拙い行為を悦んでくれるということだった。策謀によって兄たちを出し抜き陥れ、若くして並ぶもののない地位に上り詰めたカールは、誰かに喜んでもらうという快楽を知らない。正妻が愛人を作っているということをカールは知っている。正妻と間男との寝物語で、彼の児戯のようなセックスが笑いの種になっているということも知っている。ただ、そのことについてどのような感情を抱けば良いのかを皇太子は知らなかった。
「遊び慣れた殿方は苦手です」
ヴェロニカのこんな台詞が、カールの世界を変えてしまった。皇太子の
カールのヴェロニカに対する入れ込みようは、瞬く間にユグドラシルの住人の知るところとなった。
彼の父、皇帝・クヌート3世の好色ぶりは“下界”にも知れわたるほどに有名である。クヌートの後宮には500人の美女が囲われている。80を超えた皇帝はその女たちと日夜肉の饗宴に明け暮れている。そんな父帝の放縦と、皇太子の淡白さは好対照をなしている。皇太子は父と比べて真面目だとも、面白味のない男だとも言われる。そんな皇太子がヴェロニカとかいう何処の馬の骨とも知れない、大して魅力的とも思われない娘に心を奪われてしまっている様は物笑いの種にもなったが、一方で皇太子は、ヴェロニカのために政務を疎かにすることも、ましてヴェロニカを政治に関わらせることもしなかった。愛妾のためにしばしば帝権を私物化したクヌート皇帝よりは遥かに誠実な為政者であったろう。
ただ、誠実な男は必ずしも尊敬されない。誠実というなら、ヒンメルブルク王朝の歴史においてカールほど誠実な皇族もそうそういなかったであろう。彼は母の生前、誠実に母の願いを叶えようと努めたし、母の亡き後は、誠実に摂政としての任を果たそうとしたし、ヴェロニカを誠実に愛した。ユグドラシルの高官や大貴族連中は、まさにカールのそういう誠実さゆえに、カールを侮っている。若き皇太子には、この辺りの人間の心の機微がわからない。
カールにとっては、ヴェロニカを知る前と後とでは全てが違っていた。何よりも、日々の仕事が楽しくなった。趣味らしきものの何もないカールは、寝室でヴェロニカに話して聞かせられるのは、日々の政務に関する退屈極まる話題ばかりだ。ヴェロニカは、それを楽しそうに聞いてくれた。つまらないことでも褒めてくれた。カールの身近に、追従を言う人間はいくらでもいたが、彼の話を、つまりは彼の存在を喜んでくれる人間はいない。ヴェロニカと出会う前の自分は何を楽しみに生きていたのだったか。カールは最近そんなことをよく思う。
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