第2話 皇太子カール

 空中要塞・ユグドラシルは7層構造になっており、その第1層、つまり最上部がまるごと皇帝・クヌート3世の住まいであり、第2層には皇太子兼摂政・カール・フォン・ヒンメルブルクの公邸と、その他閣僚たちの執務室が割り当てられている。

 好色で強欲で派手好みな父帝・クヌートと異なり、20代半ばのカールの私生活は至って質素なものであった。カールは、皇帝・クヌート3世の6番目の男子である。5人の兄を差し置いて皇太子兼摂政という地位を掴んだのは、カール自身の才覚と、母の執念のなせる業であった。

 カールの母・マルタは没落した貴族の出身である。彼女の人生の全ては、皇帝の寵姫となって我が子を皇太子となし、家の栄光を取り戻すことに捧げられた。17歳で後宮に入ったマルタは、その美貌とねやでの献身的な奉仕でもって、たちまちのうちに60近くに差し掛かったクヌート皇帝を魅了した。後宮入りして半年も経たぬうちに、マルタはカールを身籠る。こうして生まれた第6皇子は、母親譲りの美貌と、それなりに非凡な知性の持ち主であり、長ずるに及んで、「あなたは皇帝になるのですよ」という母の教え、というより怨念を忠実に遂行した。あらゆる策略をもって兄たちを出し抜き、陥れ、皇太子兼摂政という地位を手にしたのは、カールが22歳のときである。もっとも、この結果はカールとってさほど喜ばしいものではなくなっていた。カールが至上の地位を手にしたとき、誰よりもその日が来るのを待ち望んでいた母・マルタは病に倒れていたからである。

 いずれにせよ、80代を迎えた老帝クヌートは、すでに実務から離れつつあり、政務のほぼ全てをカールに委任、というより丸投げしている。彼の母は彼に皇帝になれとは言ったが、皇帝とはどうあるべきかという哲学を教えはしなかった。したがって、事実上の皇帝代理であり、そう遠くない未来、名実ともに皇帝となることの予定されているカールには、帝国の支配者としてどうありたいかというビジョンは何もない。そういう人物は、国家の創建期の指導者には全く向いていないが、16人目の皇帝としてはさほど悪くない。若き皇太子兼摂政は、彼なりに実直に、己の使命を全うしていると言って良い。

 実際、彼は為政者として、特別慈悲深くも寛大でもなかったが、さほど暴虐でもなかった。例の“裁き”の頻度にしても、父・クヌート皇帝の時代に比べれば、幾分和らいでいる。ユグドラシルの“裁き”は、たとえば“下界”にいるエリックが正しく見抜いたように、全く何の決まりもなく行われていた。カールの場合で言えば、部下から提出された資料の中に現れる地名の中から気の向いた場所を選んで“裁き”を下すというやり方であった。この“裁き”にどういう意味があるのか、カールは知らない。「適当な頻度で“下界”に“裁き”を下すこと。ただし、いつ、どの街に“裁き”を下すかは、皇帝または摂政の地位にある皇族が1人で決めなければならない」というのは、この要塞を作った女帝マルグレーテの遺訓である。20代のうちに、物理学や心理学など、13の博士号を取得したという女帝は、ヒンメルブルク王朝の実質的な開祖であり、その言葉より優先させるべきルールなど、ヒンメルブルク家にあろうはずはない。

 かつて、フレドリク1世という慈悲深い、というより人の良い皇帝がいて、マルグレーテ女帝の遺訓を廃し、“裁き”を取りやめると宣言したことがある。結果はまことに奇妙なものだった。帝国の各地で、「“裁き”を再開せよ」と要求する暴動が発生したのである。“下界”の民は、帝国の秩序は“裁き”によって維持されていると思い込んでいる。その“裁き”を取りやめることは、皇帝の職責を放棄するものであるという主張が大真面目になされた。結局、フレドリク1世は、その甥であるジギスムント2世に帝位を追われ、“裁き”は再開された。各地で頻発していた暴動は呆気なく収束した。

 カールに限らず、ヒンメルブルク家の者は誰でも知っている話だが、カールはこの逸話の意味するところを深く考えたことはない。要するに“下界”の連中はそういう生き物なのだろう。個人としてのカールは、必ずしも冷酷な人物ではないのだが、生まれた時からユグドラシルの住人であった彼に、一度も会ったことのない“下界”の人間の気持ちを推し測れというのも酷な要求であるには違いない。皇太子は無感動に、己の役目を果たしつづけている。

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