空中要塞・ユグドラシル

垣内玲

第1話 エリック

 時折、“下界”からもユグドラシルの姿が見える。よく晴れた朝、雲ひとつない空の彼方に、小さな黒点を見つけることがあるのだ。滑稽なことに、“下界”の人々はその姿の見えることを瑞兆だと思っている。あれは自然の生み出した神秘などではなく、人間の作ったものだというのに。誰が、いつ、何の目的であれを作ったのか、今現に誰がどのように用いているのか、小学校でも教えているはずだというのに。エリックは、皮肉な表情を浮かべて、空を見上げる。

 エリックが故郷を失ったのは、14歳のときだった。バルト海沿岸の小さな町は、空中要塞・ユグドラシルの発する高圧荷電粒子砲によって跡形もなく消し去られた。ユグドラシルが帝国に君臨するようになって以来、かの要塞は“下界”に対して、“裁き”と称する殺戮ジェノサイドを続けている。何の前触れも警告もなく、“下界”のどこかの街に“裁きの火”が落され、住民は苦しむ間もなく焼き尽くされるのだ。エリックの故郷もそうやって、何の理由もなく地上から姿を消した。エリックが難を逃れたのは、その日たまたま、友人と一緒に街を離れていたからでしかない。帝国政府は今日こんにちに至るまで、“裁き”がどのような理由でなされているのかを一度も説明したことはない。


 21世紀初頭、世界的な感染症の流行に伴って、各国政府はその求心力を著しく低下させた。感染者の増加を防ぐことも、感染症対策のために生じる社会的・経済的混乱を回避することもできない政府に、なぜ我々が従わなければならないのか。そのような考えの持ち主が一定の割合を超えると、もはや政府は政府として機能し得ない。

 政府の威信が低下するにつれて、各地の“自治”が復活した。歴史の教科書では“自治”などという聞こえの良い言葉で説明されているけれども、要するに各地に現れた武装勢力が軍閥化したという話である。このようにして始まった“乱世”はおよそ400年続いた。この戦乱の時代を収束させたのが、ヒンメルブルク王朝である。

 ヒンメルブルク一族の支配する領域は、固有の国号のようなものを持たず、単に「帝国」と呼ばれる。王朝の始祖、ハンス・フォン・ヒンメルブルクはかつて東アジアと呼ばれたあたりの出身と推定される。したがって、「ハンス」だの、まして「フォン」だのという西欧貴族風の名を持っていたはずはないのだが、その男の名として伝わるものが他に無い以上、後世の歴史において、その男はハンス・フォン・ヒンメルブルクであったと記述されるより他にない。いずれにせよ、このどこの誰かもよくわからない男の創った帝国が、200年以上にわたってユーラシア大陸の大半と、アフリカの北半分を領有し、それ以外の地域も表立ってこの帝国に逆らおうとはしないということだけは確かである。


 空中要塞・ユグドラシルを構想したのは、大帝ハンス1世の孫、マルグレーテ女帝である。稀代の政治家にして一流の物理学者でもあった女帝自ら発案した超重力波発生理論を応用して作られたこの直径700メートルの円形要塞は、8,000時間補給を受けることなく、高度30,000メートルの空中に浮かび続けることができる。ヒンメルブルク皇室の一族や、最上級貴族が住まい、彼らの所有物であるところの帝国を、文字通り雲の上から監視している。

 この要塞最大の武器が通称“裁きの火”と呼ばれる高圧荷電粒子砲である。その威力は最大で水素爆弾の20倍とも言われ、その攻撃から身を守る術など無いに等しい。空中要塞・ユグドラシルと、その“裁きの火”は帝国の恐怖政治の象徴であろう。マルグレーテ女帝の生み出したこの要塞の完成が、すなわちヒンメルブルク王朝による統治体制の完成であったと言って良い。ユグドラシルはその力を誇示するかのように、“下界”への無差別な虐殺を繰り返している。何の理由も知らされないまま故郷を奪われたエリックが、帝国を憎むようになるのは当然のことに思われるだろう。


 ユグドラシルは確かに恐るべき破壊兵器ではあるものの、弱点が無いかと言えばそうでもない。というより、冷静に観察すれば弱点だらけであるとさえ言える。そもそも、高度30,000メートルの上空に浮かぶ要塞なるものは、いかにも権威的ではあるにせよ、地政学的に見れば孤立しているということに他ならない。当然のことながら、帝国の実務を担う行政機関のほとんどは“下界”にある。“下界”の主要な拠点を制圧されてしまえば、それを奪還するにはユグドラシルの住人も30,000メートルの高みから“下界”まで降りてくる他ないだろう。“裁きの火”は全てを破壊することができるが、破壊するわけにいかないものはいくらでもあり、それを人質に取ることは決して不可能ではない。しかも、“裁きの火”は、一度発射すればエネルギーの再充填に約39時間を要するということもわかっている(エリックは過去のユグドラシルの動きを詳細に分析して、そのスペックを極めて正確に把握している)。“裁きの火”が発射された後の39時間の間、ユグドラシルに敵襲があれば要塞の駐留艦隊がこれを迎撃することになるが、空中に浮かぶ要塞は360度あらゆる角度からの攻撃を防がねばならないわけで、“裁きの火”を封じられている間、ユグドラシルは丸裸であると言っても言い過ぎではない。エリックなどからすれば、地上の要塞を攻略するよりあるいは容易いのではないかとさえ思われる。

 にもかかわらず、帝国の支配は200年の間、磐石ばんじゃくそのものであった。エリックにはその理由がまるで了解できない。故郷を失ったエリックは、同じく生き残った同郷の友人・リノと共に、反帝国のレジスタンスを組織した。聡明なエリックは、ユグドラシルの恐怖がこけおどしに過ぎないことをすぐに理解した。どの都市にあるどの拠点を制圧すれば、ユグドラシルはどのように動き、いかにしてユグドラシルの主、すなわち皇帝・クヌート3世と、皇太子兼摂政・カール・フォン・ヒンメルブルクを“下界”に誘い出すことができるか、エリックにはその方略はいくらでも思い浮かべることができた。にもかかわらず、エリックの策は一度も成功しなかった。エリックや彼のグループは、それ以外のレジスタンスと同じように、“下界”の住人たちからの協力をほとんど得られなかったからである。エリックの唯一にして最大の誤算は、“下界”の人々が帝国の支配、つまりユグドラシルの“裁き”を概ね支持していたという現実であった。

 200年の間、雲の上から“下界”を見下ろしてきたヒンメルブルク一族を、“下界”の住人には「神」と同義の存在と認識していたのである。

 エリックの目には単に無意味で理不尽な虐殺としか映らない“裁き”を、民衆は“恩寵おんちょう”と呼んでいた。滅ぼされた街々には何らかの罪があったのであろう。我々にはその理由はわからないにせよ、雲の上の存在には十分な理由があって裁きを下したのであろう。“下界”は“裁きの火”をそのように受け取っていた。信じがたいことに、実際に住んでいる街を“裁きの火”に焼かれ、辛うじて命だけは助かったというような人物でさえ、自分たちには“裁き”を受けるような罪があったに違いないと考え、その罪が何であるかを必死に考えようとしているような有様だった。

 エリックは過去50年の間に行われた“裁き”が、いかなる法則性もなく、ただ気まぐれに、何の正当性もなくなされたものであることを実証的なデータによって証明した。滅ぼされた街にどんな共通点もないことは明白であった。治安の悪い街が滅ぼされることがあれば、安全な街が滅びることもあった。裕福な地域も、貧しい地域も、帝国に忠実な都市も不満分子の多い都市も、“裁きの火”を免れるという保証はどこにもなかった。ユグドラシルはただ、気まぐれに暴威を振るってみせることで、人々を萎縮させようとしているに過ぎない。そこには何の正当性もない。そして、この不当な支配者は我々の手で引き摺り下ろすことができる。エリックは何度もそのように力説した。それでも、エリックの言葉は人々の心を少しも動かしはしなかった。人々は、“裁き”が自分たちの理解を超えた正義に基づいた恩寵であると信じている。そのあまりにも自明な前提を否定するエリックこそは、帝国の支配によって安定している社会を乱す異分子に他ならなかった。人々はエリックやその仲間を、自分たちの住処から追い払ったり、テロリストとして通報したりした。

 エリックは途方にくれている。今、彼に従う同志は、800人程度に過ぎない。世界の半分を支配する帝国を打倒するにはあまりにも少ない。しかも、その800人でさえ、鉄の結束を誇っているとは言い難い。帝国の支配は不当であり、かつ、それは打倒できるというエリックの明晰な主張に一度は納得して仲間に加わった者であっても、いつの間にか帝国への恐怖心に駆られて逃げ出したり、帝国側に内通したりするものが後を絶たないのである。

 「正直にいうと、僕も帝国が怖い。君がどれほど理路整然とユグドラシルの弱点を教えてくれても、というより、君が論理的に語れば語るほど、帝国が恐ろしくなるんだ」

 最大の同志であるはずのリノでさえ、エリックと2人きりになったときにこんなことを言う有様である。エリックは苛立ちを禁じ得なかったが、しかし、リノを責める気にもなれなかった。エリック自身の心の内にも、同じような恐怖が芽生えつつあったからである。

 エリックはこのところ、空を見上げるのが恐ろしかった。あの雲の向こうに、ユグドラシルが浮かんでいるのかも知れない。4日ほど前、南欧の小さな村に“裁き”が下された。距離関係からいって、黒海沿岸のこのアジト付近にユグドラシルが接近している可能性は極めて低い。同志たちにそのような説明をしたエリック自身が、何やら自分の論証を嘘くさく感じてしまっている。ユグドラシルの権威など虚妄でしかない。虚妄でしかない権威が、なぜこれほどまでに人を縛るのか、エリックにはまるで納得がいかない。エリックは、不合理なものが単に不合理でしかないことを理解できる。しかし、エリックほど賢くも強くもない大多数の人間にとって、不合理をただ不合理として認識することが極めて困難なことであるという平明な事実を、エリックはまだ知らない。

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