第20話 茨姫の失望

 

 俺は泡井と、部室(仮)で茨城が来るのを待つ。


「おそいね」

「探しに行ってもいいけど、三年がまだ試験中だからなぁ」


 あまりうろちょろするのはよくないだろう。


「……なんで?」

「ん、三年だけ試験続行のことか? そりゃ、受験生だからだろ」


 それを聞いて、泡井がなんとなく嫌そうな顔をした気がした。


「受験って。やっぱり、勉強は必要だよね……」


 泡井の口からその単語が出ることに驚いた。


「俺なんも考えてないわ。受かるところ受ければいいや、みたいな。まあ公立がいいけどさ。私立高いし。泡井は?」


「…………美術の高校に、行きたいな……って」



 最後の方はかすれていたけれど、確かにそう言った。

 ……ほんの少し前まで、泡井にとって絵はそういうものじゃなかったはずなのに。


「……なぁ、泡井。美術部入りなって。俺、そういうのに詳しくないけどさ独学じゃきつそうだってことぐらいわかるよ」


 泡井の中で何かが変わって。

 たぶん、状況も変わったんだ。

 それはきっと、喜ばしいことだ。


 泡井は困ったように続けた。


「……でも、約束が」


 課外活動部の部員になるという約束。

 企画すら曖昧になった今も、律儀な泡井は守るつもりでいたのだ。


「あんな約束より大事だって!」


 やりたいことがあるということが、どれだけすごいことなのか。

 やりたいことなんてひとつもわからない俺は知ってるんだ。


 たぶんそういうのを、『夢』とか言って、もしかしてもしかすると人が最も大切にすべきものだっていう人間がいることだってわかるんだ。


 自分が持たないものに憧れるのは普通のことだろう。


「なんだ、その。応援したいんだ」


 ストレートに言うとちょっと照れるな。


「……ありがと」


 それは泡井も同じだったみたいだ。






 ◇





「…………」


 あたしは二人がいる部屋の扉の前で立ち尽くしていました。

 二人の話を、聞いていました。



 あたしには何一つ、何かを変えることなど出来ません。

 乙浦先輩とつるぎさんが一緒に部活をしてくれるなら、あたし自身は部員になれないままでも中へと入っていける。

 そんな、都合のいいことを考えていました。


 この学校は兼部ができません。

 つるぎさんは乙浦先輩の部活には入らないと決めてしまいました。


 ──つるぎさんはもうここには、こない。


 どくどくとうるさい心臓を押えます。

 

 あたしは、こうなることを微塵も考えてなかったのです。




 ──弱いものはいつだって、許されやしなくって。

 そしてあたしたちはずっとこのまま、許されないまま弱いのだと、信じていました。



『あの子には未来が見えているもの。あなたには未来が見えていないもの』



 あの日の硝子さんの言葉が頭の中を回って、回って、回って。


 硝子さんが言ってたのはこのことだったのだと。

 あの人にはこれがわかっていたのだと。

 今、思い知るのです。



 あたしは踵を返しました。

 逃げ出したかった。

 逃げ出さねばならなかったのです。



 扉の向こうで二人が動く気配がしました。



 ぐるぐると回る頭を抱えて。

 少し歩を早めただけて息切れする碌でもない身体を抱えて。

 あたしは校門まで駆けていきました。


 荷物は保健室に置きっ放しで、靴は上履きのままで、迎えはまだ来なくて。

 あたしは一人で帰ることを一人で出歩くことを体質的に許されていなくて……ここからどうしたらいいのかと途方にくれました。


 どこに行けばいいのでしょう。

 どこに逃げればいいのでしょう。


 ……何から、逃げればいいのでしょう?




 そしてあたしは、いるはずのない人の姿を見つけたのです。

 校門の前に、青いスカーフのセーラー服を着た硝子さんが。

 目の前に立っていました。


「どうして」


 平日の昼間、こんなところにいるはずのない硝子さんは悲しげに呟きました。



「コイト。私にもあなたにも……逃げ場なんてどこにもないのよ」



 その意味を、問い詰める間もなく。

 硝子さんの声と姿が悪夢のようにぐんにゃりと歪んで、あたしの意識はかすれ始めていきました。

 睡魔、睡魔、睡魔です。

 硝子さんの腕があたしを柔らかく抱きとめたのを確認して、目を閉じました。




 ……ああ、また。






 ◇





 ──あたしは勉強が嫌いではありませんでした。


 勉強は大人になるためにするものだと信じていました。

 いつか大人になれると無条件に信じられることだけが救いでした。


 でも、そのいつかはいつ来るのか保証なんてされていませんでした。



 ──あたしは何もわかっていなかったのです。


 人魚姫が恋をしたのは王子様などではなくて、きっと『外の世界』だったのです。

 人魚姫は大人になって外の世界に恋をして、未来を見て。

 いばら姫は大人になれず百年の眠りにつく。


 見るのは何にもならない無意味な夢。

 それはけして、未来などではないのです。


 人魚姫。それはつるぎさんで。

 いばら姫。それは、あたしのこと。




 あたし以外の何もかもが、あたしと同じではない何もかもが、普通でいられる無数の誰か達が嫌いでした。


 あなたたちは真っ当に大人になっていく。

 何かに躓くことなく、世の中に置いていかれることもなく流されていって生きてしまえる。


 その優しさにコーティングされた憐憫を向けることができるのは、あたしが、あたしはきっと絶対にあなたたちと足並みを揃えて大人になることなんてできやしないからだなんてことにも。


 ──どうせ、気づいてはいないくせに。




 あたしの弱さはすべて、恨み言でできていました。







 ◇






 目を開ければ見慣れた保健室の天井が広がっていました。

 そして隣には、つるぎさん一人が座っていました。


 ……先程のは、なんということはない、いつもの睡眠障害の発作です。

 発症したのは中学に上がる前で、いくら検査をしてもどうにもならないということしかわかりませんでした。


 検査入院は嫌いです。

 まだ病人のレッテルが貼られてきっていない身は宙ぶらりんで、諦めが悪すぎるから。

 まだ健康、そう言われたがっている心が、じたばたと足掻いて疲れてしまうから。



 結局、少し自由を手に入れるはずだった中学生活の代わりに手に入ったのは。

 今まで以上に、それでいて正当性を増してしまった『過保護』で、まるで成長ではなく退行のようでもありました。


 抵抗できない睡魔。

 喘息よりも熱よりも、あたしはこれが嫌いでした。


 眠ってしまえば、置いていかれることにも気づけないのです。

 自分で選べない眠りは目を覚ました後の世界が百年後でない保証などないのです。


 あたしは、『中学生』にすらなり損なったのに。

 どうしてその先を思い浮かべられるというのでしょう?






「起きた……?」


 心配そうにつるぎさんがあたしの顔を覗き込みます。


「先生を呼んでくる。親御さんには、連絡したって」


 そう言って立ち上がりました。

 あたしはそれを引き止めます。


「行かないでください」


 どうしてそんなことを言ったのかもわからないまま。


「……わかった」


 つるぎさんは、椅子に掛け直しました。







 しっとりと重たい沈黙が、保健室に降り積もります。


「どうして、にげたの」


 責める調子は少しもない、淡白な疑問を投げかけました。

 あたしは答えませんでした。


「どうして、引きとめたの?」


 続けての疑問。


 あたしは、答えてしまいました。


「言ってもいいんですか?」


 つるぎさんは静かに頷きました。


 あたしは天井を見つめます。

 何を言えばいいのでしょう。

 何を言ってはいけないのでしょう。


 わからないまま、決められないまま、口をついて出た言葉に身を任せました。


 それがどうしようもなく、本当の思いだったから。



「……つるぎさんには、もう、未来が見えているんですね」



 未来が見えていないのは、あたしだけ。



「つるぎさんは、あたしとおんなじだと思っていたんです」



 あたしが好きだったのは、あたしが描いた都合の良いつるぎさんの像でしかなかったのです。




 本物のつるぎさんはもっともっと、特別で。

 あたしの隣にいていいような人ではなかったのです。


 最初から、そうだったことをどうしてどうして今の今まで自分にごまかしてきたのでしょう。


 わかりませんでした。

 なにも、なにも。

 わかりたくはありませんでした。


「つるぎさんは、どこかに行けてしまうんですね」


 感情の、量が違うのに。

 質が違うのに。

 こんなこと、言って、困らせるだけなのに。


 口を閉じれば代わりに涙が溢れ出してしまいそうで止まれませんでした。


「あたし、多分。もしかして。つるぎさんに追いつきたかったのかもしれません。もしかしたら、あたしは、本当は、あたしとつるぎさんが同じではないことわかっていたのかもしれません。……でも、もうおそいんです。つるぎさんはあたしを置いて先に行ってしまえるから。そんなの、当たり前なのに。あたしにとって特別だったつるぎさんが、あたしとおんなじなんかであるはずがないのに……いえ……ごめんなさい、あたし寝ぼけてるんです。夢見が悪かったんです。今の全部全部なかったことにしてください。何も聞かなかったことにしてください……」


 つるぎさんはいつかのように、黙って聞いているだけでした。




「こいとの言っていること、ちゃんと分かってる自信はない……けど。わたしが最近、考えていたこと、言ってもいい?」


 いいえ。

 ──『いつかのつるぎさん』なんてものは、もうどこにもいなかったのでした。


 「どうぞ」と、かすれた声で促します。


 言葉を探して、視線を彷徨わせるつるぎさんをあたしは初めて見ました。

 言葉が見つからないまま、何かを妥協したように口を開きます。


「たぶん……なにもかもが、『普通』なんだ。生まれとか、育ちとか、好きとか、きらいとか、悩みとか……全部。探せばなんだっておなじようなものはどうせすぐにみつかる。『特別』なんてきっと、どこにもない」


 それは、聞いたこともないほど優しい口調で。

 認めがたいほどにひどい……とても、ひどい言葉でした。


 「普通」になれないものは「特別」ですらなかったのだ、なんて。

 それは、それはあまりにも弱いものを拒絶する言葉です。


 その鋭さはいっそ笑ってしまいたいほどで、否定しなければ耐えられそうにありませんでした。


 否定を口走ろうと、言葉を遮ろうとあたしは。

 つるぎさんを見て。

 つるぎさんが、あたしを真っ直ぐに見ていたことに気がつきました。




「……だからわたしが、君を置いていくような『特別』になることもないよ」




「なんですか、それ……」


 言葉の意味を噛み砕いて噛み砕いて、つるぎさんの意図を救い上げようとしました。

 つるぎさんの言葉は硝子さんの言葉よりシンプルで、だからこそ頭がこんがらがっていきそうで。

 困った顔のつるぎさんと困った顔のあたしでしばらくの間、ずっと黙り込んでいました。

 理解は喉につっかえていたものがするりと通ってしまったかのように、腑に落っこちてきました。


「ああ、なんだ……」


 ただあなたは。

 あたしを「特別」にすることもなく。


 それだけではなく。

 あたしが、あなたを「特別」にすることも、許しはしないというのですね。


「ずるいです」


 なんてことでしょう。

 笑ってしまうほどにひどい人でした。

 

 あたしの好きだったあたしの中のあたしだけのつるぎさんはもうどこにもいなくなってしまったけれど。


 あたしはきっと、このつるぎさんのことも好きになるのでしょう。




「……つるぎさん、あたしと。普通のお友達になってくれますか」

「もう友達だと思ってた」



 ええ、生身のつるぎさんは、そんなことを言えてしまう人だったのです。

 そんなふうに、強くてひどい人。

 あたしとは違って、あたしとは一緒に弱いままでいてくれなくて、あたしを置いていくこともない。

 ただ、初めから別世界で息を吸っている人なのです。


 けれど。


 そんなひどさが、もうとっくに、あたしは嫌いではなかったのでした。

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