第19話 憂鬱と願い事

 

 ──出会いの話をいたしましょう。

 あたしとつるぎさんの、なんでもない出会いの話を。


 あたしが硝子さんに出会うずっと前。


 あたしが乙浦先輩に出会うもっと前。




 あたしは昔から体が弱い子供でした。


 けれどその弱さは中途半端なもので、生きることそのものに問題を抱えるほどではありませんでした。


 半端に『みんなと一緒』ができて、半端に『みんなと一緒』ができない。

 あたしが、周りの何もかもをいやになるのは必然だったのだと思います。


 熱が下がって久々に行った教室の空気を。

 朝まではなんともなかったのに同級生にランドセルを持ってきてもらうのを待つ早退前の保健室の空気を。

 運動場の端で着替えないまま座って見ているあたしの様子を伺う教師の目を。

 どうして好きになれたでしょうか?



 あたしは腫れ物のように扱われるのがどうやら世間的に正しくて。

 なのにあたし自身の認識自体はそれを間違いだと主張する。

 その齟齬に耐えずに済むようになるのはただ一箇所。

 病院のベッドでした。


 あそこは、あたしの安息の地で、それは『これより下はもうない』という認識のもとに成り立つものでした。

 入院患者に貼られる『病人である』というレッテルは強力で、逆らいようはありません。

 それでいて病院にいる人間は「誰もが当然であり普遍でしかないもの」になるのです。


 全てが腫れ物になってしまえば、誰がただ一つを腫れ物扱いできるでしょうか。


 あの場所では、鳥肌の立つような手慣れていない「優しさもどき」、みたいなものに晒されることは。絶対にないのです。




 つるぎさんとの出会いのきっかけは『ついていない』ことでした。

 隣の小学校の、強いられたボランティア活動。

 生徒を派遣して入院している子供たちと話をする、いえ話をさせられるだけの活動。


 どうしてあたしが、あなたたちの『教育』なんかに付き合ってあげなければならないのでしょう?

 健康で何不自由ない人たちの身勝手な、教育。

 清潔で隔絶された白い病院に、どろりと重たくうっとおしい学校なんてものを持ち込むことが、どれだけ不愉快なことなのか、あなたたちにはわかりはしないのです。

 そんなふうに悪態をつきたい気持ちでいっぱいでした。


 ──もちろん、これはあたしが捻くれているだけだと、重々承知していました。本当に、嫌な子供だったのです。


 だから黙りこくってやり過ごし、とっとと退院してしまおうと固く誓うだけでした。

 根気強く冷たくあしらえば、奉仕精神溢れる年上たちもあたしに構うことはありませんでした。


 つまらないつまらない、本当につまらない時間でした。


 連れてこられた年上たちの中に、つるぎさんを見つけるまでは。




 部屋の中で孤立したのは小学生の頃のあたしだけではなく、小学生の頃のつるぎさんも同じだったのです。

 ぼんやりと曖昧に、なのにどこか不機嫌そうな顔で威圧的に立ち尽くす。

 ぼさぼさの黒髪のひょろりと背の高い女の子。


 陸に打ち上げられた魚のような女の子でした。

 途方に暮れているようにも見えて、でも本当はなんだってどうだっていいと思っているようでもありました。


 あまりものとあまりものが、大人の手で結びつけられてしまうのは時間の問題でした。

 厄介ごとはまとめて箱にしまうのがセオリーです。

 おとなしく仕舞われておくのもまた子供の甲斐性ですから。

 そんなふうに、あたしとつるぎさんは一緒に捨て置かれたのでした。




『何か話をしなくちゃいけない』


 そんなふうにつるぎさんが言い出した気がします。


『そういう決まりだから』


 あたしはきっと、『話すことなんてありません』とでも答えたのでしょう。


『じゃあ、その本の内容とか』

『本、読むんですか?』

『ううん。きみが、話すだけ』


『……なるほど。「話した」という事実さえあれば構わないというわけですね』



 お互いが必要としたのは、この茶番をやり過ごすための妥協と、共犯者でした。


 そして、あたしは本の内容を反芻し、自分のためだけに語ります。

 つるぎさんは黙って聞いているだけでした。

 相槌すらも真っ当に打つことなく、耳を傾けているかすら不確かなまま、じっとそこにいました。

 驚くほどにつまらなさそうな人でした。


 つるぎさんは一切の媚び方を知らず。

 あたしを分かろうなんてせず。

 あたしに興味があるふりどころか興味を抱くことだってありはしないのだと。


 この人の世界には、きっと、なんにも、ないままなのだと。


 そう感づいて。


 あたしはつるぎさんのことをなんとなく好きになりました。






 話のタネが尽きて、つるぎさんは問います。


『……物語は好き?』


 と。当たり障りのない間をつなぐだけの言葉を。


 物語は良いものです。

 物語の世界は現実のあたしに、何も強いることはありません。

 あたしは物語の世界に触れられず、物語はあたしの世界を脅かしません。

 隔絶された虚構はただ、慎ましく側に寄り添うだけなのです。


『好きです。物語は、なににもなりませんから』


 ──今まで。

 あたしがそう言うと誰もがそれを否定しました。

 あたしがそれを言うことを誰もが許しませんでした。

 「それは違うよ」と。あたしの好きなものの価値を、わかりやすく声高に語りました。

 「物語は人生を豊かにしてくれる」とか「楽しい時間を作ってくれる」だとか「明日への希望を抱かせてくれる」とかとかとか綺麗な綺麗な綺麗なだけの言葉。

 あたしが、「無価値なもの」を好きであることを、誰も許してはくれませんでした。



『違いますか?』



 問い詰めたのです。

「この人はそんなことを言わないでくれるだろう」と、身勝手な期待を寄せて。



『きみがそういうのなら、そうなんだと思う』



 つるぎさんはあいもかわらずなんでもないように言うだけでした。

 その期待以上の、毒にも薬にもならない淡白なだけの肯定に。

 どれだけあたしが喜ばしく思ったかなんて。

 ……どれだけ救われたか、なんて。


 きっと誰にもわかりはしないでしょう。





 同じだったのです。

 つるぎさんにはなにもかもがどうでもよくて。

 あたしはなにもかもが気に入らなくて。


 きっと、ずっと、世界から取り残されていく。


 そんな弱い女の子として、おんなじで。

 それでいてなにひとつ分かり合えない。


 分かり合えないことに、分かり合えると思ったのです。


 あたしをわかろうとしないこの人が、この人ならば、あたしをわかってくれると──信じたその瞬間につるぎさんは『あたしをわかってくれた人』になったのです。






 退院するまでの三日間。

 お互い、名前は聞きませんでした。

 なにもかもがくだらない茶番の中で、つるぎさんだけが確かなものでした。


 あたしたちは、あたしたちが周りから受け入れられないことを知っていて、それをずっと諦めて時々文句を言って逃げ出して。

 そのままなんとなく生きていかなければならない子供でした。


 いつかはわからないいつかに、大人になれることを信じて。

 それまでをなんとかやり過ごしていくことしか、きっとできはしないのです。

 弱さ。弱いことが、嫌いで。けれど弱い子供にできるのは、ただ恨みがましく膝を抱えることだけで。

 あまりに弱すぎると、弱音も吐けないのでした。





 中学に上がってつるぎさんを見つけて。

 変わり果てた見た目と拒絶を身に纏っていることに気付いた時に、ざわりと肌が粟立ったのは、一体どうしてだったのかはわかりません。


 ぎらぎらと眩しい金髪と、ぼさぼさの長い前髪、どこも見ていないような暗い目と、風に吹かれて折れてしまいそうな高い背。


 ──ああ、あたしはやっぱりまだこの人のことがとても好ましいのだと。

 あの全てを拒絶する背中を見たときに思い知ったのです。

 でも、その『全て』にはあたし自身も含まれいて。

 あたしは、つるぎさんには近づけませんでした。



 だから。

 あたしはあの無神経にもほどがある先輩を、普通に善良で普通に不愉快な、乙浦先輩を利用することを選んだのでした。

 つるぎさんのおかげで、「もしかして好きになれる人は意外にいるんじゃないか」と思ったあたしが見つけた、結構だいぶマシなあの先輩に頼るくらいのことしかできませんでした。


 あたしは、弱いですから。

 「普通」の強さを持つ先輩に、運命なんてものを託したのです。



 奇跡でもなんでもない再会すらも本当ならば手に入らないものでした。


 つるぎさんはそれをけして望んだりしないから。


 でも、あたしは望んだのです。




 あの日の続きを。

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