三章 白昼茨姫
第16話 試験勉強
「待ちに待ったこの時! そう! テストのシーズンです!」
「テスト期間が近付くと活き活きし出すのはお前ぐらいだよ……」
文化祭の代休という飴の後に待っているのは鞭であり、なんとか平均点は維持したい俺にとって避けることのできないイベントだった。
成績落としたら学校をサボってることに因果関係を見出されてしまうわけで、俺の快適な不登校ライフがかかっている。
というわけで俺よりはるかに授業に出ていないのに俺よりはるかに成績がいい後輩、茨城小糸の主催する勉強会が始まる。参加者は恒例の俺ひとり──に今回はプラスいち。
「よろしく……こいと」
「はい、お任せを! つるぎさんはどーんとあたしを頼っちゃってください!」
泡井である。
茨城のやつ、泡井が参加すると聞いた時からあからさまに上機嫌なんだよな。
本当に真面目かはともかく性格としてはクソ真面目だし、あまり泡井とは相性が良いように見えなかったんだけど……。
ベクトルの違う気難し屋同士でうまいこと噛み合ったんだろうか。
薄暗い部室(不法占拠中)の薄暗い空気(試験前特有)の中、俺はのろのろと数学の問題集を開いた。
……うむ、当然ながら真っ白。
俺と茨城が知り合ったのは去年の校外、というか病院だ。
俺が、骨を折ったのがきっかけだった。
自転車の操作をちょっと誤ったら盛大に転んで、入院までいってしまった。
ブレーキをかけずに急な坂道を下るのはあれ以来やっていない。
ほんの数日の入院だったけど、冬休みなので俺が入院したなんて情報が回るわけないから見舞いは来ないし。
よりにもよってこのタイミングでゲーム機を壊すし。
ケータイはまだスマホじゃなかったし、で恐ろしく暇だった。
そのため唯一の同年代、先に入院していた茨城に構いに構いまくった結果、なんとか相手をしてもらえるようになったのだった。
茨城は変わったやつで、どう変わっているかというと、その時はまだ小学生なのに敬語を使っていた。
地味だけど一大事なんだこれが。
俺なんて部活に入っていないのもあって、実のところ敬語で話せる自信は今でもちっともない。
まあ、話すようになったといっても。
「そんなに暇なら本でも読んでたらどうですか!」
と喧嘩越しに、明らかに嫌がらせな辞書レベルに厚い本を押し付けられただけなんだけど。
暇だと脳がバグるので読んでしまった。
字が小さい訳ではなかったからか意外にいけた。
読みきったら態度が軟化した。
茨城は結構ちょろかった。
あの頃はまだ茨城は小学生だったけど校区的にうちに来ることは決まっていたし、出没箇所が保健室であったためなんとなく交友が続いている。
まともな状態だったら茨城に相手にされる前に根を上げていたので、暇を拗らせた人間は怖いなという話だ。
勉強会をするようになるくらいには俺と茨城は仲がいいし、茨城が泡井に対して威嚇しないくらいには二人の仲も進展していたようだけれど──文化祭前、茨城が部屋に乱入してきて俺が先に帰った日に親睦を深めたらしい。まるで俺より茨城の方がコミュ力があるみたいで悲しい話だ──でも、俺と泡井と茨城の仲が良いかといったら非常に微妙なところなわけで。
こうして三人が試験前に揃うのは、イレギュラーな事態なんだと思う。
今回のきっかけは、なんとなく泡井の表情が読めるようになった俺が、いつも以上に暗い顔をしていた泡井に声をかけたことだ。
それはもう、なんというか。
プリンを一口も食べないまま床にぶちまけてしまったかのような暗い顔だった。
「あんまり成績があれだと……面談するって……」
ああ、とうとうあの生徒に無関心な担任に上からの圧力がかかったか、と思った。
泡井の性質がおとなしいことがどっかでバレたなこれは。
文化祭にしっかり参加してしまったからかな。
「脅された……職権乱用……」
……まあ、そんな顔されたら誘うよな。勉強会。
俺が力になれるとは到底思えないので茨城の機嫌次第だったんだけどどうやらなんとかなるようだ。
なんで先輩が後輩に勉強を教わっているのかとか考えてはいけない。
暇を拗らせることに関して一流なこの後輩は、中学の勉強をひとりで片付けてしまって更に暇を拗らせているのだ。
いや、本人は忙しいって常に言ってるけど。
試験前に面倒を見てくれるとか相当じゃないかなと思いつつ、ありがたい話である。
「ところでもう一人は来ないんですか?」
問題集と初っ端から睨めっこする羽目になっていた俺に、茨城が聞いた。
もう一人って間宵のことか?
……あれ、茨城に間宵のことって話してたっけ。
「ほら、先輩は部活作るつもりだったんでしょう? 先輩が自分でそんな行動的なことするわけないですし、言い出しっぺ的な誰かがいるんじゃないんですか」
なるほどだ。
別に間宵が言い出しっぺというわけではないけれど。
間宵がきっかけであることに変わりはない。
「いや、来ないよ」
茨城は興味なさげに「そうですか」と言った。
発した『こない』という音が、なぜだか喉に絡みついている気がした。
「先輩はいつも通り半端にやる気のない平均目標として。つるぎさんの目標点はどのあたりです?」
「……できれば……三十点以上……」
「……はい。大体わかりました」
誰が「半端にやる気がない」だよ。罵倒感がない単なる事実は時には余計に人を傷つけるんだぞ。
平均維持の大変さは茨城にはわからないだろう。
いかに最低限の勉強量で維持するかなんていう精密作業は。
別に抗議しないけど。会話には割り込まない。大人気ないから。
「数学は多分とれる、けど。英語がだめで……」
逆に数学は大丈夫って相当すごいんじゃないだろうか。
泡井は最近は授業によく出ていたけど、多分出るだけでちゃんと聞いているかというと怪しいタイプだと思うのだ。俺と同じく。
五十分も集中して話を聞くとかそもそも人間には不可能だと思う。
「せんぱーい。うちの学校、赤点とかありましたっけ?」
「ない」
「高校からなんですかね、そういうの」
「意外に中学ってなんもないよな」
漫画とかでよくみるイベントとあまり変わらないのは体育祭くらいじゃないだろうか。うちは春にやるのでとっくに終わっている。
「というわけで、全教科まんべんなく取るよりもサクッと数科目に絞っちゃった方が上げやすいと思うのですよね。時間もないですし。言及されたのって合計点ですよね? なので……」
茨城がすっと講師モードに移行したのを確認し俺は口を閉じた。
今回は茨城が俺に構う暇はなさそうだ。
もともと勉強会って言っても、俺の目的はちゃんと試験期間中に睡眠が取れるように課題を終わらせることだし、茨城に構ってもらえなくてもあまり困らない。
夏休みの宿題は早めに終わらせるタイプだけど、試験の課題は先延ばしにしてしまいがちだった。
だって終わらせたからって遊べたりはしないじゃないか。ちゃきちゃきやるだけ損だと思う。
頭がいいのと教えるのが上手いのは別物だって聞くけど、茨城はどうやら両立しているタイプみたいだった。
「授業は嫌いです」って言うから、教師には向いてないんだろうけど。
手取り足取り、茨城は根気強く泡井につきっきる。
大人びた泡井と幼い見た目の茨城が並ぶ姿はただ単に構図の問題としてもアンバランスで、しかしその不均衡はそれだけじゃない気がした。
沈黙の合間に、泡井は不思議そうに呟いた。
「なんでそんなに、親切に?」
「親切とかではないです。あたしのためです。教えるってとても勉強になるんです。あたしが得してるんです」
「……よくわからない」
顔色ひとつ変えずに茨城はまくし立てる。
泡井は首をかしげるだけだった。
「茨城。そろそろ時間じゃないか」
「あ、本当ですね。じゃああたしはお先に失礼します」
「泡井、俺校門まで送ってくから」
「うん。こいと、ありがとう」
「いいえー。明日も是非、来てくださいね」
玄関口でぼんやりと茨城を待つ。
一年の靴箱は少し離れている。
履き替え終えた茨城は少し大きめのローファーをカポカポと鳴らして慌ただしげにこちらへと向かってくる。
「お待たせしました」というセリフに皮肉みは含まれていなかった。
うん、やっぱり今日の茨城は機嫌がいい。
いい加減、聞くか。あのこと。
「なあ茨城、もしかして俺のこと利用した?」
校門に向かって歩きながら聞いた。
あの時「泡井を誘え」と言ったのは俺への嫌がらせでも善意の提案でもなかったんじゃないだろうか。
「あ、さすがにばれましたか。本当にやってのけるとは思いませんでしたけどね。評価、上方修正です」
特に悪びれる様子もなくさらりと返ってくる肯定。
捻くれてるのか素直なのかわかんないなこいつ。
「なんだ、関わりとかあったのか」
「そうですねー。先輩があたしと話せるのも突き詰めればつるぎさんのおかげなんですよ」
ちっとも知らなかった。
茨城は本の話と俺への中傷しかしないもんだから。
てっきり他の人間に興味がないんじゃないかとまで思っていたのに。
「でもそれにしては、泡井の反応がなんというか……さ?」
言葉を濁す。どう言ったものか。
なんというか二人の距離感が噛み合ってないのだ。
それがアンバランスさの正体だった。
ひどく一方的な好意とでも言おうか。
警戒心の強いはずの茨城の態度はとても柔らかく、しかし泡井は彼女らしくぎこちない冷たい温度のまま。
俺と間宵の最初の距離感に近く、おそらく、より落差は激しい。
俺はなんだかんだ間宵に順応したし、間宵もなんだかんだ『そういう自分』を押し付けることに長けていた。
そういうことを、なんとかオブラートに包んで聞いてみると。
茨城はさらりと答えた。
「そりゃあ、向こうは覚えていないんですもの」
「なんだよそれ。覚えてないって……泡井らしい気がするけど流石に言えば思い出すもんだろ?」
「言ってないですからね」となんでもないことのように言った。
「たしかに私にとっては特別な思い出です」
軽やかに足を弾ませて、茨城は俺の数歩先を行く。
「ですけど。つるぎさんには、私のことを特別な思い出にする人では、いてほしくないんです」
校門の先、彼女を迎えに来た水色の軽自動車の前で茨城は振り返り、日頃のヒステリックさは掻き消えたかのように穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます先輩。あたしをもう一度、あの人に出会わせてくれて」
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