第15話 幕間:瀬戸内冬也、人魚への祝福。
瀬戸内冬也が美術教師になったのは、食っていくためだった。
子供なんて嫌いだ。
教育なんてこれっぽっちも興味がない。
教師とは言っても非常勤だし、別段夢のある仕事でもない。
本当は絵が描ければそれでいいのだ。
けれどそれでは生きていけないのだから、まこと現世は生きづらくて仕方がない。
そんなことを考えながら、三十路に差し掛かろうとしていた。
子供は嫌いだ。
特に、中学生なんてものはたちが悪い。
あいつらは「青い」を通り越して「群青」だ。
どうしてああも自我が曖昧な状態で楽しそうに生きていられるのか、といつだって瀬戸内は中学生を馬鹿にしている。
あいつらは自分のことを子供だと思ってもいないくせに、ちっとも大人じゃないから。
曖昧な狭間にいる生き物の、息遣い、存在の質感は、どうにも生々しい。
まるで古生代に初めて陸上に進出した魚のような、未熟さと初々しさがあって、鰓呼吸で生きていくべきか肺呼吸で生きていくべきか、迷い続けているような気がする。
視界に入るだけで、苦々しい思いだった。
──本当に嫌いなのは、子供だった頃の愚かな自分で。
生徒たちに苛立ちを向けるのは間違っていると承知している。
だから、そんな感情これっぽっちも表に出さないように、へらへらと笑って、毎日給料のために働いているのだ。
非常勤の美術講師は、教える学校を掛け持ちしている。
その上中学全クラスの美術の授業を受け持っているのだから、生徒の名前など覚えているわけがない。
せいぜい、名前を覚えているのは美術部の生徒くらいだ。
少なくとも今の代の美術部の面子は、絵に真面目だし、顧問である瀬戸内のことを敬ってくれるので、名前を覚えてやらんこともないな、と思ったのだ。
……と、いうことを考える度に、瀬戸内はおかしな気分になる。
三十路にもなって彼女もいない、結婚する気もない、子供なんて作る気はもっとない、親戚同中に言わせると「社会不適合者」らしい自分を、絵を描く以外に能がないのに絵では食っていけない自分を、「大人」として扱うのだ。
あいつらは。
それがおかしくて仕方ない。
だが、そう扱われる限りはせいぜい大人の振りをしてやろうと思っている。
それは教師の仕事の範疇で、値札の付く行いだからだ。
──だから、あの金髪の女子生徒の名前も、覚えているわけがなかったのだ。
授業にもろくに来ない不良生徒なのに、美術の授業には必ず参加するのだと知ったのは、彼女が中学二年に上がってからのことだった。
「頼みますよ瀬戸内先生」
そう言って、生徒指導の教師は瀬戸内に、泡井つるぎを押し付けた。
ふざけるな、と思った。
絵を教えるならまだしも、生徒の面倒ごとを背負うなんて死んでもごめんだ。
いや、死にたくはない。
死にたくはないからおまんまを食わねばならない、食わねど高楊枝をできるのは武士だけだ。
社会というのは人間関係を蔑ろにしては死ぬ。
本当に、ふざけるなと思う。
早く解脱したいが、徳が低いので来世もどうせ人間だ。
せめて来世は絵を描かずに生きられる人間になりたかった。
才能、才能さえあれば。
絵のみで生きていけたのだろうか。
そう思わないこともない、が。
瀬戸内は、自分よりもずっと才能があった同期たちが、食えずに折れていくのを幾度となく見てきた。
大人になるとはきっと、才能への信仰を失うということだ。
──才能なんてなくても、食いっぱぐれなければ勝ちだ。
自分に妥協の才能があったというのは、皮肉なことだと思う。
そんな自分に妥協をして、瀬戸内冬也はなんだかんだと「大人」をやっていた。
……だが、泡井つるぎの面倒を見る内に。
瀬戸内の中に、青臭い感情が蘇ってきたのだ。
泡井つるぎという生徒は、不器用な生徒だった。
地上で鰓呼吸をし続けて窒息死しかけているような。
無責任で面倒くさがりで人間に興味がない瀬戸内ですら、慌てるほどの、本物だった。
……学生時代、何度か見てきた。
本当の本当に、社会というものに、向いていない人間を。
この少女は若くして既に、爪弾きにされる側なのだと気付いてしまえば。
同類の先達の「大人」としては、放っておくわけにはいかなかった。
死にかけの魚に与えるバケツ一杯の水が、キャンバスと絵具だった。
向いてなくても死なないためには生きていくしかないから、学校という狭い水槽で、なんとか呼吸を繋ぐ方法を教えようとした。
いつの間に自分は、そんな教師みたいなことをするようになった、と自嘲して。
そういや教師だったな、と思い出した。
まったく、割りに合わない。向いてやしない。
教え導くというのは……あまりにコストパフォーマンスが悪すぎて、短い人生の浪費だとすら思った。
──でも、仕方ないのだ。
なすべきことを見つけてしまっては、仕方がない。
仕方がないから妥協して、瀬戸内は向き合うことにした。
だが彼女の、絵への向き合い方もまた、あまりにも不器用で。
なんなら手先すら本当に不器用だから、才能なんてちっとも感じなかった。
それでも。
彼女は、キャンバスを見つめ続けるから。
「泡音くんはさー。絵、好き?」
なんて。
柄にもない質問をしてしまったのだと思う。
彼女は、不器用な眼差しで、「わかりません」と答えて。
並べられた絵の前にずっと立っていた。
──きっとこの子は、逃げられない。
絵に愛されていないのに、それ以外の道がない人間になるだろう。
同類、こちら側。
それは、決して祝福すべきことじゃないと思う。
けれど。
瀬戸内は頬杖をついて笑うのだった。
それもまたよし、と妥協した。
大丈夫だ。
望む未来に白いキャンバスしか見えないとして。
──意外と生きていけるぜ、大人は。
泡井つるぎが何に爪弾きにされても。
瀬戸内冬也だけは、祝福してやろうと思った。
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