第14話 夜の学校にて


 次の日も同じ感じ……と思ったら茨城が乱入してきて随分と騒がしくなった。かしましくなった。


 茨城はいわゆる直球の慇懃無礼、「ですます」をつけただけの口が悪い女の子、何にでも噛みつくお年頃のチワワなのでハラハラしたりしたのだが、俺はスーパーの特売のために先に撤退することになっていた。


 「大丈夫かな」と思ったけど。

 見た感じ、茨城は余所者の泡井に対して噛み付いている様子はなかった。

 

 そもそも泡井を誘えと俺に言ったのも茨城だったし、理由はなんであれ噛み付くほどの何かはなかったのかもしれない。


 前の日に読んでた本の感想で、「つまんなかった」と茨城に言えばめちゃくちゃ怒られた。

 怒るのに「勧めた本が面白くなかったら言ってください」と要求するのだから納得がいかない。


 泡井はそんな中で黙々と色を塗っていた。

 うるさくして申し訳ない。




 そんなこんなで。




「三日で仕上がるもんだなあ」

「まあ……ね。三日で描けるものを描いただけ。休み時間とか、授業中も描いてたし」


 前日準備を終えた俺が、部屋を覗いたときにはもうほとんど描き終わっていた。


 流石に汚れないために黒のタンクトップやTシャツ一枚になるには寒い季節で、泡井はここ二日、ずんっと重い黒色のパーカーだった。

 袖や所々に絵の具が付きっぱなしだった。



 文化祭の前日はいつもより一層廊下が騒がしくて、部屋の中は対比するように静かだった。

 隣の保健室の栞姉まで出払ってるからかもしれない。


 紙製のキャンバスに、授業で使う普通の絵の具で描いた皿の上の魚の絵。

 なんとなくぬらっとしていて、見ていて少し不安になる。


 皿の上なのに火が通っていない魚みたいな色をしていた。

 今にも動き出しそう、とかじゃないんだけど。


 感想とか、ぬらぬらしているなんて言えるわけないし「すごく魚だな」とかアホみたいなことを言ってしまいそうなので、労うだけにとどめておいた。

 授業で使う絵の具で描いてるのに、授業で描いたような絵にはならないものなんだな。すごい。

 



 そういえば言わなければならないことがあったんだった。


「なぁ、泡井。別に部員にならなくてもいいぞ。まだ開部届け出してないし」

「なぜ」

「同好会っていう制度、どうやらあったみたいなんだ。別に人数集める必要はなかった」


 有名無実だから最近まで知らなかった。

 部費も無いし権限もさほど無いけど。

 小難しい条件とかもなしに、別に一人からでも作れるのだ。


 なんというか部のなりそこないとか劣化版みたいな感じの。

 よその学校の普通の同好会には失礼な言い方だけど、うちの学校ではそんな扱いで、でもそれが俺たちには合っている気がした。

 不登校部あらため課外活動同好会。

 長い。硬い。


「入るよ。わたしは」


 泡井は真っ直ぐに俺を見た。


「約束だし……こういうの、きらいじゃないみたいだから」

「そっか」


 どういうのかよくわからなかったけど。

 俺も嫌いじゃないんだと思う、『こういうの』が。


「帰るか」

「うん、片付ける」


 扉を開ける。

 廊下は特有の薄暗さと西日が混じっていた。

 秋って感じだな。




 ──その時だった。


 ずるりと、上の方から何かが擦れるような音がして振り返る。

 どうやら上の方に積まれた中身のほとんど入ってない段ボールが落ちそうになっているようだ。


「泡井。上、危ないぞ」


 慌てて直そうと近付く。

 が、上ばかり見ていたら絵具の水桶に足がぶつかった。

 蹴倒さないように身体がブレーキをかけてしまう。


 あ、やばい。間に合わない。

 荷物が崩れる。


 その、下には。


 ──さっき完成したばかりの泡井の絵があった。



「……あ」


「げっ」


 落下した段ボールに押しのけられて、キャンバスは床に弾き飛ばされた。


 中に入っていたいくつかの個包装のトイレットペーパーが、ボールみたいに床を跳ねる。


「大丈夫か!?」

「乾くのはやい絵の具だから、多分……あ、やば」


 泡井がものすごく微妙そうな顔をして俺を見た。


 絵を覗き込む。

 さっきの衝撃で、使い回しらしいキャンバスの木枠は元々作りが甘かったのか、古くなっていたのか、外れてしまっていた。


 当然、枠の歪みに紙が耐えられるわけもなく、結構盛大に破けてしまってもいる。



「どうしよう……」



 そして、下校時刻十五分前のチャイムが鳴った。





 ◇





 破けた紙は諦めるとしても、キャンバスを直さなければならない。


 タイムリミットは先生たちが帰ってしまうまで。

 それ以降は確か扉を開けると警備会社に繋がってしまうはずだ。


 次の日に授業がないのだから残業なんてさほどあるはずもない。

 明日の準備が済んだらすぐに帰ってしまうだろう。



 栞姉にも瀬戸内先生にも泣きつけない。

 栞姉は怪我をした生徒の付き添いで病院に行ってしまい、時間が時間で今日は戻ってこないだろう。


 瀬戸内先生は非常勤で、今日の午後は別の学校だ。

 美術室も当然閉まっている。


 忘れてしまいそうになるけれど、俺にとっても泡井にとっても、教師というのは基本的に絶対的に味方じゃなかった。

 俺たちが「問題児」の部類であることからは逃れられない。

 栞姉と瀬戸内先生が、例外なのだ。


 他の教師は、頼れない。

 残る交渉なんてできるものか。


 だから当然直し方どころか、直す道具のある場所すら聞くことも探すこともできなくて、


「持ってきたわ」


 泣きつけるのは間宵くらいしか思いつかなかった。


「硝子、ごめん」

「間宵、ありがとう」


 間宵に持ってきてもらった工具箱を置く。

 校門で俺が受け取るだけでもよかったのに、付き合ってあげるとまで言ってくれた。


「いいのよ。夜の学校は、学校じゃないもの」


 赤いヒールを手にぶら下げて、黄ばんだ蛍光灯の下でうっすらと苦笑した。


 奇しくも間宵の初登校がここに成った。

 ……いいのかなぁ。





 さて、前途多難だ。

 全員、キャンバスの直し方なんて知ってるわけないし、トンカチの音はあまり立てられないし、破けた紙をどうにかこうにか修復するのが難関だったし、間宵の偵察で部屋に先生が近付きそうだとわかったら電気を消さねばならなかった。


 学校に行かないで悪いことをするよりも、学校の中で悪いことをする方がずっと難しい。



 遅々として進まなかったが、終わらないことはないわけで。


「やっと、終わったーっ!」

「あとは……」

「脱走ね!」


 気分は家に帰るまでが遠足です、だ。


 泡井がすっぽりとフードを被った。


「行きはよいよい帰りは怖いって感じだわ!」

「間宵は見つかるとマジでやばいからな」


 制服が違うから、ぱっと見、他校生だ。

 名前がばれてもばれなくても捕まるとしんどい。


「大丈夫、置いて逃げるから。私、自転車だし」

「おう逃げろ逃げろ」


 こっちには怒られ慣れてるなりの諦めがあるしな。




 靴はあらかじめ確保しているから、校舎内で誰かに遭遇する可能性は低い。

 だが、校門までの遮蔽物は少ない。

 三人も、特に背の高い泡井が収まるものはほとんどない。


 そっと慎重に、歩みを進める。

 なんとなくおかしくって笑ってしまいそうになるのを耐えていると、間宵に小突かれた。


 だって夜の学校に忍び込むとかいう一大イベントはこなしてないのに、脱走って面白くないか? 面白くないか。

 ていうか間宵は忍び込んでるしな。




 見つかるのは、まあ、運の問題だった。




「誰だ!」


 案の定ドスの効いた声が遠くから響く。

 よりにもよって体育教師か。

 まずい。割と年がいってるのが救いか。


「走るわよ!」


 当然のように間宵が一番はやく駆け出し、俺は足の早くなさそうな泡井の荷物を奪いとる。

 泡井の長い脚が絡まらないことを祈った。


「ツルちゃん乗って!」


 一足先に出て、自転車を取ってきた間宵が声を張り上げた。

 追いついた泡井はぎこちなく荷台によじ登る。

 間宵の運動神経とは噛み合わないだろうし、落っこちたりしないか不安だが致し方ない。


「乙浦クンは……囮ね!」


「知ってたよ!!」





 ◇





 わたしは二人乗りなんて初めてで、硝子の腰に捕まっているのに必死だった。


 走っている間のことはよく覚えていない。

 硝子の腰は細くて頼りなくて、折れそうで。

 自転車の後ろは怖かった。


 とりあえず、生きている。


「あー、なんとか撒けた」


 信号のあたりでしばらく待っていると、脇道からふらふらと鞄を二つ抱えた乙浦が出てきた。


 ……捕まらなかったんだ。



「信じてたわ」

「……まあ、あの先生、俺のこと知らないみたいだったから追う気なくしたんだろうな。目の敵にしている生徒じゃないって気付いてくれたっぽい」


「地味で良かったわね!」

「うっせ。ていうかヒールで爆走するもんじゃねーよ」


 二人はやいのやいのと言い合っていた。

 元気だ。


 わたしは正直、口を開く気力も残っていない。

 自転車の二人乗りは、かなり、つかれる。




 わたしは校舎の方向を振り返る。

 ただでさえ、絵の出来は悪かった上、最後の最後でさんざんになってしまったけど。

 あまり残念には思っていなかった。


 ──これは、ささやかな反抗だ。



 文化祭に行くと言っていた母親は見るかもしれないし見ないかもしれない。

 わたしの絵に気がつくかもしれないし気がつかないかもしれない。

 でもあの人はきっと、すぐに飽きて帰ってしまうだろう。


 絵を置かせてもらう予定の美術室になんて寄り付くわけがなくて、だからこんな『かもしれない』なんてなんの意味もないのだ。


 でも、無価値なんかじゃない。


 わたしの反抗は、今度こそ無価値なんかじゃないと信じている。




 ──わたしはあなたたちの、あなたの思い通りになんてならない。

 

──だからあなたの、一番きらいなことをする。


 今度はきっと『つまらないグレ方をして』なんてあなたは吐き捨てない。



 ……硝子の言う通り、わたしは割りに合うやり方をずっと前から知っていたのだ。


 電源を切りっぱなしの携帯にはきっと、心配なんてかけらもない着信が積み上がっていて、なのにわたしの気分はわるくない。





「ねえねえ、肉まん、そろそろ肉まんの季節じゃない? 買いに行かない? 私、お腹空いたわ!」

「お前、今から晩飯食いに行くんだろ? そんなの食べてどうすんだ」

「今日はお惣菜とかで済ませるからいいんですー。乙浦クンが買ってくれなくても自分で買うから。絶対なの」

「いや、コンビニ近くにないし。泡井は俺たちと家の方向全然違うぞ。付き合わせるつもりかよ。なあ、泡井」



 急に、話振られた。


 なんて言えばいいんだろう。

 正解はわからなくて、わからなくてもいいかと諦めた。



「……わたし、あんまん派」

「泡井っ!?」



 家に帰りたくない、とこんな明るい気持ちで思ったのは初めてで。


 わたしは多分、ほんの少しだけ笑った。 

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