第17話 冬眠


 次の日も勉強会は続行された。


 茨城と泡井が仲むつまじく教え教わっている横で、俺は淡々と提出物を処理していく。


 あまり内容が頭に入っている気はしないけれど、やれと言われたことをきっちりとやるのは、勉強方法としてそうそう間違いではないだろう。

 実際、今まではこれで大体なんとかなっているし。

 なんとかなっている、とは『大目玉を食らわない結果』を意味する。



 なんてほどほどに意識を散漫させていたところ、泡井が机に突っ伏した。

 長い腕が机から盛大にはみ出す。


「もう、むり……」


 頭から今にも煙が出そうだった。

 ノートを覗き込めば小さな字でなにやらたくさん書かれていて、彼女の努力がうかがえる。

 残念ながらお開きの時間にはまだ遠い。


「そうですね。じゃあ、休憩にしましょうか」


 茨城が教科書を閉じてそう言った。






「俺はちょっと外の空気吸ってくる」


 そう言っていち早く部屋を出た。

 集中がぷっつりと切れてしまったのは俺も同じで、もしかしたら泡井よりも深刻だった。


 充電を、充電をしなければならない。

 ここから先になんとなく行きたくないからなんて理由で学校をサボれない日々が待っているなんて、考えるだけで胸焼けだ。

 別にそれだけで、何の支障もないけれど。


 実際にサボるサボらないじゃなくて、いざとなったらサボれるということが大事で。「絶対サボれない」という考えを持ってしまうのが鎖なのだ。



 校門から出て、ひとり道路を渡る。

 突発的ミルクセーキ症候群。つまり甘ったるいものが飲みたくなった。

 甘いものは脳にいい。


 校内に自販機のひとつやふたつ、置いてくれてもいいのにと思う。

 中学校ってもっとなんでもあるって思っていたのに。屋上は立ち入り禁止だし食堂どころか自販機すらない。

 なくったって別にそれほど困っていないから、はっきりとぼやく気もないんだけど。


 ──学校そのものに不満なんて、俺はないのだから。



 大人だったら、ここでついでだからと二人にオレンジジュースでも買っていけるのだろうか。

 大人じゃなくってもアルバイトが許されている高校生ならばできるのだろう。

 百円を侮れないかつかつの中学生にはできないことを。


「あんまりうらやましいとは思わない、な」


 古めかしいパッケージの缶を傾けて、ミルクセーキを飲み干した。

 甘すぎて喉が渇く。


「……戻るか」


 擬似的に学校を抜け出すのも、ひとりじゃもうあまり楽しめなくなっていることにようやく気が付いた。








 仮部室の扉を開けたが、茨城たちはいなかった。

 時計を見れば定めた休憩時間はまだ余っていた。

 ミルクセーキはそれほどゆっくり飲んでいたわけじゃなかったらしい。


 しかし二人はどこに行ったんだろう。

 手持ちぶさたに廊下をうろつき、昇降口ですっかりと見慣れた金髪を見つけた。


 あ、いたいた。


 後ろ姿に声を掛けようとしてやめる。


 泡井は、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。

 視線の先には水槽、校長が飼っている小さな亀。

 絵の邪魔をしちゃ悪いな。


 それに、隣には茨城がいた。

 俺を利用してまで泡井と仲良くなろうとした茨城だ。

 何が目的かは知らないけれど、俺が立ち入ることじゃないのだろう。

 自身が関わりがないことについてのお節介は、余計なものでしかないのだから。


 ここは後輩に配慮して気付かれないうちに撤退だ。


 ──そう思ったのだが。



「知っていますか。亀って冬眠するんですよ」



 つい、二人の話に聞き耳を立ててしまった。






 ◇






「冬眠って不思議な感じがしませんか。絶対に冬を知れないんですよ。眠っている間、周りは確かに冬なのに」


 よく手入れされた水槽は小綺麗で、ガラス玉混じりの砂利の上で小さな緑色の亀はのびのびと首を伸ばしている。

 季節は秋。

 冬眠にはまだはやく、短いながらも過ごしやすい季節だ。


 茨城は水槽に手を当てた。


「一体どんな思いで冬を、ここでひとり眠って過ごしているのでしょうね」


 つぶらな瞳の小さな亀は短い足で水槽を叩いている。

 まるで茨城とガラス越しに手を合わせようとしているみたいに。


 泡井は鉛筆を止め、考え込む。


「わたしは……起きたときには、春って。うらやましいと思う」

「あたしは、ちゃんと冬を知れる生き物が羨ましいですけどね」


 茨城は自身が亀であるかのようにそう答えた。

 曖昧に泡井が頷く。

 納得したような理解しがたいような、そんなふうに。


「冬は嫌い……」

「ええ、あたしも」


 あの冷たくて寂しい季節を好くことができるのはきっとある種の才能だ。

 そのまま茨城は水槽の中をじっと見つめていた。



「水族館」



 突然、泡井がそう言った。


「え?」

「水族館に、行こう」


 二回目。はっきりと泡井は口にする。


「だってこれって、そういう……部活でしょ」


 泡井にとっては突然でもなんでもなく、彼女の理屈と考えがあって出た言葉だったようだ。

 発言の理由は彼女以外にはよくわからないけれど。

 茨城は笑みを作った。


「いいですね。広くて、あまり混んでないところがいいと思います。スケッチのしやすさが大事でしょうから。でも」


 そして横に首を振る。


「あたしは部員じゃないですよ。つるぎさん。なれないし、なりません」

「……そっか」


 泡井は小さく頷くだけだった。




 ◇





「あれ、乙浦……」


 話の切れ目、ふと泡井が俺に気が付いた。


「ん、ああ。そろそろテスト勉強、再開しないか」


 さもさっき来たばかりだ、みたいな顔で取り繕う。


「そうですね」


 茨城は何ひとつ疑いを見せず立ち上がり、先へと行ってしまった。

 少しほっとして後を追う。




 盗み聞きをしてしまった。

 茨城がどうしてあんなことを言ったのかにも気付いてしまった。


 だけど俺は。

 何も、言わなかった。

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