第12話 わたしのきらいなもの

 思えば、わたしは昔からいろんなものがきらいだった。


 母親のマニキュアの匂いも、かん高い声が響く教室も、はやりの番組も、顔も知らない父親がつけたらしい『つるぎ』という名前も。


 いろんなものをわたしが嫌ったというよりは、わたしが、いろんなものにきらわれていたのだと思う。

 いつだってどこだってなんにだって、わたしはなじめなかった。


 娘としても生徒としても女の子としてもなりそこない。

 図体ばかりが大きくてなんの役にもたちはしない。

 そういうのを『でくのぼう』と言うんだって国語の時間で知った。

 わたしのことだ。

 『そういうものになりたい』なんて、昔の詩人って、本当にわからない。



 わたしが学校をきらったのか、学校がわたしをきらったのか、どちらか先だったのかはわからない。

 わからないけれど、好きになる理由もなかったし好きになってもらう必要も見出せなかった。


 だからわたしは、気がつけば『こう』だった。

 色の抜け落ちた髪をはじめて鏡で見たときの、あの、じんわりとした、感動、みたいな。

 覚えている。

 それがとても正しいことに思えた。


『つまらないグレ方をして』


 母親は鼻で笑った。

 つまらないわたしには、そういうつまらない反抗が似合っているから。

 わたしはそうだね、と頷いた。

 わたしに似ていない母親は不愉快そうに睨みつけて、もうなにも言わなかった。



 『好き』であることに理由はいらないと、どこかのさしてえらくもないような人が言った。

 それなら『きらい』であることにも理由はいらないと全然ちっともえらくはないわたしは言わなかった。


 『好き』の理由も『きらい』の理由もほんとうはきっとぜんぶあるんだろうけど、それを知らなくていいと思う。

 知りたくはない。

 

 どうせつまらないのだし。

 つまらないものは『ある』よりも『ない』ほうが素敵だ。



 そんなふうにいつのまにか教室を抜け出すように、ううんちがう、教室に戻れないまま、わたしはチャイムを聞き流すようになっていた。


 授業中の廊下は水の中みたいだ。

 ぜんぶの音が遠くって、輪郭がぼやけている。


 何度さまよい歩いても、不思議なくらいにわたしの頭は校内の地理をちっとも把握しなかった。

 把握する気が無かった。

 かろうじて、靴箱と教室を行き来できさえすればよかったし、その教室すらもけしてわたしの居場所ではない。


 冷たい廊下に光はとどかなくていつだって薄暗い。

 明るいのは教室だって決まっているから。

 そのせいで廊下は暗くなっているのだと思う。

 世界の半分はいつでも夜のように、この世界に、光の量は決まっているんだと、思う。

 そしてわたしは、いつでも日陰の側だ。


 だから廊下はわたしの仲間だ。

 息を殺してわたしは廊下を泳ぎ続けた。

 きらいだけれど、明るい水槽の教室よりは暗い海の廊下の方がずっとずっとましだと思いながら。


 わたしは息を潜めた。

 ほんものの不良たちはわたしのことを『なりそこない』だとよくわかっていて、わたしのつまらなさを一目で見抜いて話しかけてもこない。

 ほんの少しうっとおしそうな顔をして、見ないふりをされる。

 宇宙人かなにかだと思われているんだろう。

 おなじ見た目でちがう中身。

 そんなの気持ち悪いに決まってる。


 わたしもずっと、みんなに対してそう思ってきたから。

 よくわかるよ、そう頷いた。



 わたしは。

 おそらくは、物心がつくのが遅かった。

 あるいは、物心がつくのが早すぎた。


 気がつけば居場所がなかったのか、居場所がないことに気がついてしまったのか、そんな妄想に囚われてしまったのか、ほんとうのところはどうだったんだろう。


 『ここ』にいたくなかった。

 でも、『どこか』にも行きたくなかった。

 それだけだったはずなのに。


 なのにどうして、こうして、母親にわからないよう絵の具の匂いを消すために、毎日喫煙所に通ってまで、わたしは絵を描いている。

 

 廊下をさまようだけの日々の先に、いつのまにか辿り着いてしまった。

 美術室は、あの埃っぽい準備室はなんの間違いかわたしを迎え入れてしまった。


 こんなはずじゃなかったのに。

 こんなはずじゃ、なかったけれど。

 まちがいというのはある日突然起こるものだから。

 仕方がなかったのだ。



 母親が、絵をきらう理由は知っている。

 名前も知らない父親は、働きもせずずっと上手くもない絵を描いていたという。

 父親に似ているらしいわたしを生んだ女の人は、父親のことがきらいで、絵がきらいで、多分。

 わたしのこともきらいだった。


 それは仕方がないことだ。

 わたしは、よくわからない子だったらしいから。

 もしかしてわたしは人間のふりをした違うなにかなんじゃないか、そう思ったこともあるけれどなにか人間にできないようなことができるわけでもなかったし、みんなができることをちょっとできそこなうだけでしかない。

 特別にすらなれはしない。


 父親は、どうだったんだろう。

 わたしみたいにどうしようもなかったのかな。



 父親という存在はわたしにとって、ずっと空白だった。

 でも、ある日突然、出会ってしまった。


 ある日母親に見せもせず押入れにしまい込んだ小学生時代の図画工作の作品を、いいかげん捨ててしまおうと掘り出して、わたしは、初めて父親に出会った。


 ノートくらいの大きさの、小さなキャンバス。

 埃がはりついて黴くさく、汚れた白の布地には半分くらいどろどろとした色が塗られていて、半分は黒い線の下描きがぐちゃぐちゃ。

 描きかけの絵。

 なにを描いているのか、描こうとしたかちっともわからない。

 空、港、町、たぶん風景。

 

 父親の絵を見るのははじめてだった。

 そしてそれが、形ある父親のすべてだった。


 下手じゃあないんだろうけど、たしかにうまくとは言えないのかもしれない。

 なのにどうしてか、わたしはそれが良いものだと思えた。


 別に絵なんて好きでもなんでもなかったし母親の機嫌が悪くなるし写真と同じようなものだという気がしたし、なんていうんだったか覚えていないけど絵と写真が英語でおんなじだって聞いたし、つまりはそういうことだと思っていたのに。

 どうせ価値なんてなくてつまらないものだと思っていたのに。


 どうしてだろう。

 あの絵は未完成だったから、描きかけで、絵というものがああやって少しずつ作られていくものなんだって感じがしたから。

 だったのかな。

 

『きみも、やってみる?』


 どうでもよさそうにあの、やる気のない美術講師に誘われたとき、断ることができなかった。





 絵を描くようになって、初めて行きたいと思うところができた。

 それが美術館だった。

 ちゃんとした絵を、きっと父親が辿り着けなったんだろう突拍子もない値札のつくような絵を見てみたかった。


 ここを選んだ理由はたまたま偶然目に入ったたまたま覚えた名前で、たまたま近くと言えなくもない距離にあっただけ。

 それだけ。


 わたしにとっての絵はあの描きかけのキャンバスで、それは油絵だった。

 画家の名前がカタカナなら油絵だと思った。

 もちろんのこと、思い込み。

 実際は別にそんなことはなくって、少しがっかりしたりもした。

 よく調べなくちゃいけなかった。


 付き合ってくれた乙浦はいい人だと思う。

 借りを返そうとしてまた借りを作ったわたしはやっぱり馬鹿で、あまりその点に気付いてないらしい乙浦もやっぱりちょっと、あれだと思う。

 いい人は、それはそれできらいだけれど、わるい人よりはきらいではない。



 そして、今。

 都合のいい人に都合のいいように連れてきてもらって、もしや無いかと思った油絵を見ることができたのになぜだか、得られるはずの満足感みたいなものはあまりない。


 絵に縁取られた鏡の中でわたしがわたしを薄暗く睨んでいた。


 ──大人になれば、大人にさえなればいつか『ここ』になる『どこか』が居場所になるのだろうか。


 ──ちゃんと正しく、適切に、何もかもではない特別な何かだけを嫌える人間になるのだろうか。


 ──なるに、決まっている。


 根拠なんてあるわけはないのに。



 喉が乾く。

 鏡から意識を外した。

 絵からも目を背けたくなる。

 描かれている具体的ななにかが、色と色と色に分離する。

 目が悪くなりそうだ。

 どうして……どうして、こんな気持ちになるんだろう。

 わかりそうでわからなくて、なんとなく。

 わかりたくはなかった。





 ◇






 わたしは目を擦った。

 そして、ふと気がつく。


 乙浦はいつのまにかいなくなっていた。

 いつのまにか鏡の中に、乙浦じゃない誰かが写っていた。


 セーラー服の、大人しそうな見た目をした女の子がわたしの斜め後ろに立っている。


 ただでさえ人の気配に気が付くのは苦手だけれど、静かすぎるここで、その女の子はよりずっと静かだった。


「こんにちは」


 凡庸な見た目に凡庸な挨拶。

 なのにそれを聞いた途端、わたしはその女の子のことを『魔女』だと思った。


 がらりと色が変わるような。

 頭のてっぺんからつま先まで。ふしぎであやしくてただしくない液体で満ちているみたいだった。


 わたしの目にはそう見えた。


「前から聞きたかったのだけど」


 まるで昔から知っている仲のように気安く何気無い風に声をかけてくる。

 わたしは何も答えられない。


「どうして、それ・・なの?」

 

 気にも求めずそう続けて、女の子は自分の黒髪を一房つまんでみせた。

 わたしは『それ』を、色の抜けたわたしの癖っ毛を鷲掴む。

 

 ──どうして。


 見知らぬ女の子の問いかけに、きり、と胸がしまった。


 なれなれしさもよそよそしさもどこにもないのに、声はひんやりと冷たかった。

 言葉は熱い手で頬を掴まれているみたいだった。

 目が回る。


 どうして髪を染めたんだったっけ?

 ……逃げるため。


 何から?

 ……何もかもから。


 どうして?


「……きらい、だったから」


 だけど、逃げられはしないから。

 

 きらいなものからちゃんと、きらわれなければならなかったから。


 わたしは、きらわれもののわたしは、わたしだって、


 わたしだってあなたがあなたたちが『きらい』だといいたくてしかたがなかったから、



 ──だから!



 言えはしない。

 わたしの喉はわたしの為にわたしの言葉を吐き出すためには最初から、出来ていなかった。


 目を伏せる。


 けれど意味の通るわけのないなりそこない言葉を、魔女はしっかりと拾い上げた。


「それ、多分割りに合ってないわ」


 二段三段とすっ飛ばした会話が、何も言えないわたしと見透かす魔女のあいだでなりたっていた。


「割りに合う方法なんて私が言う必要はないわよね」


 魔女はこれっぽっちも笑わなかった。




「──だってあなたには、未来が見えているのでしょう」






 ◇





 ぐらぐらと煮詰まった空気を割ったのは、てしっという軽い音。

「うぇっ」と女の子の奇声が遅れて小さく濁ってひびく。

 びくりとして、弾けるように我に返った。

 まるで夢から覚めたみたいだった。


「何やってんだ間宵」


 呆れ顔の乙浦と丸めたパンフレット。

 それで頭をはたいたらしい。


 まよい……名前? 誰だっけ。


「うううひどい。なんで叩いたの」

「なんかすげーイヤな空気が泡音との間にぷんぷんと漂ってたから」

「乙浦クン、空気なんて読む柄じゃないくせに!」

「いやお前、初対面に喧嘩売る癖あるし。またかなって」

「私の何を知ってるっていうのよぅ……」


 ぜんぜん痛くなかっただろうけど大げさに頭を抑える女の子はもう、あんまり魔女には見えなかった。

 魔法が解けた後みたいだった。


「割と色々。お前結構わかりやすいよ」


 乙浦はなにを言っているんだろう。

 その子のこと、ぜんぜん、ちっとも、わかりそうにないのに。


 途方にくれる。

 そんなわたしにまよいが気がついた。


「あっ私、自己紹介してない? してないわね! ごめんなさい! 私、副部長予定の間宵硝子です。『しょうこ』って呼んで。ガラスって書くの!」


 あ、なんかそんなのいた気がする。


 すこしだけ、笑いたくなった。めんどくさいから笑わないけど。

 そういう明るい自己紹介が、びっくりするほど似合ってなかった。


「わかった。硝子、よろしく。わたしは……」

「ツルちゃんね!」

「お前もしかして全員にそのセンスであだ名付けてんのか!?」


 ……さわがしくなってきた。

 こういうのは苦手なんだけどな。




 乙浦はとても普通の人で、とても不思議だ。

 変だ。


 だけど、あんな魔女がどう見ても絶対に普通なんかじゃないこの子が普通の子に見えてる乙浦には、みんな、普通に見えてるのかもしれない。


 そんなことを思って。

 たぶんわたしは乙浦のことも、魔女のことも。

 そんなにきらいにはならないかもしれないと思った。





 ◇





 学校に戻って、美術室に向かう。


 学校をさぼってしまったから今日は描かない。

 命令でも約束でもない『お願い』だけど、お願いは自分勝手な分、命令よりも約束よりも大事だ。

 わたしにお願いをするのは瀬戸内先生だけだったから。



 たくさんの描きかけの絵の前で、じっとわたしは立っていた。

 裏に隠してもらっている、わたしの絵を思い浮かべる。

 頭の中で並べて、比べてみる。


 わかりきっていることだけど、わたしには、当然のように絵の才能なんてない。

 魚が空を飛べないように、空を見上げるだけで息を詰まらせて死んでしまうように。


 わたしはどこまでいってもあの父親の子だ。




「泡音くんはさー。絵、好き?」


 いつのまにか来ていた、だれもかれもを『くん』付けで呼ぶ先生がわたしに聞いた。




「わかりません」


 なにもかもがきらいなはずのわたしは、頷けなかった。 

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