第11話 学校を抜け出して


 落ちた泡井のノートを拾ったあの時、ちらりとページが見えてしまった。


 ノートに書かれて、いや描かれていたのは無数の手の『絵』だったように思う。

 

 すぐに閉じたしすぐに泡井に取り返されてしまったから確証は持てなかったけど、泡井の言葉からおそらくあれは見間違いではなかった。


 泡井は絵を描ける人間なんだな、と落書きを見た時には思った。

 確かに泡井は美術とか音楽とか家庭科とかの、副教科の授業はきっちり出席していた気がする。


 授業中の暇つぶしに落書きはそれなりに有力だという。

 俺は描けない人なのでわからない。


 手なんて訳の分からない形をしたものを好き好んで描くとはまったく暇を拗らせると怖いな、なんて考えていた。

 最初の美術の授業が手の模写だったのが地味にトラウマだった。二度と描くもんか。


 それはともかく。

 あの泡井が、授業をサボって何をしているかってこっそり絵を描いているだなんて。


「……人って見かけによらないもんだな」


 間宵みたいに、さもクラスの中心ですみたいな顔しておいてチグハグな言動しかしないやつもいるし。

 見かけの信用度に盛大なヒビが入りそうだった。

 外見で判断、やめよう。 




 そんなことを考えて、帰りのホームルーム後にぼんやりとしていたら、完全に教室から出遅れてしまった。


 レアな帰宅部かつ交友関係の広くない俺が連れ立って帰る友人なんている訳もなく、今日はまっすぐに下駄箱に向かう。


 だが、下駄箱の側で。

 目立つ彼女が立っていた。

 仕方なしに立ち止まる。


「…………」

「……えっと」


 泡井だった。

 明らかに俺を見ている。


 ……要件があるとしたらあのことしかないよなあ。


 腹はくくってるから、はやく何か言ってくれないだろうか。


 気まずい思いをしながら俺より高い位置から放たれる視線に晒されていると、とうとう泡井が口を開いた。


「いっしょに帰ろう」


 真っ当な感じで誘われた。棒読みだった。

 帰りたい。いや、今から帰るけど。






 人の少ない脇道に逸れ、無言で半端に距離を開けて歩く。


「俺、家はあっちなんだけど。泡井は?」


 泡井は反対方向を指差した。


「じゃあこの先の分かれ道で解散だな」

「…………」

「ええっと、なにか話があるんじゃなかったのか」


 当初泡井に抱いていたイメージは少しばかりずれていて、しかし第二印象からはさほど動かない。


 『気難しい教室の隅の住人』


 泡井の愛想のない鋭い目はもう、心ここにあらずな遠い目にしか見えなかった。


 泡井は、ゆっくりと。


「取引がしたい」


 言葉を探すようにぎこちなく口火を切る。


「きみだけが、わたしの弱みを握っているのは困る。だから、弱味の交換をしたい」


「……ええとつまり、貸し借りを無しにしたいってことだよな?」


 がんばって翻訳する。


「そう、それ」


 その言い方があったか、みたいな顔を素でされると困る。


 いや、声の調子も表情もほとんど変わっていないんだけど、なんとなくわかってしまった。

 俺と間宵と、泡井は人種として遠くないと確信する。


 口を開いた泡井から漏れる中身は、とても柔らかい雰囲気をしていて、鋭角三角形みたいな外面と釣り合わない。

 釣り合わないけど、さほど違和感は感じない。

 まるで最初から泡井つるぎは、俺の認識の中でもこうであったかのように錯覚する。

 生クリーム製の鋭角三角形、ただし冷凍保存とでも言おうか。

 我ながらなんだそれ。

 

「べつに弱みとか隠しごととかじゃなくていい。頼みごととか。ない?」

「頼み、か。無いわけじゃないけど……いいのか?」


 頷く。

 なんとも都合のいい流れになってきた。

 こうなると逆に怖気付くのが俺の悪いクセだ。

 

「じゃあ、俺の頼みを言う前にひとつ質問をさせてくれ」

「なに」

「泡井はさ、美術部とかじゃないんだよな。入らないのか?」

「……わたし、絵を描かないことになってるから」

「そうか」


 『描かないことになっている』つまり、『絵を描いてはいけないと言われている』ということか。

 口止めの理由は俺の想定よりも切実なのかもしれない。

 そう思いながら触れないでおく。


「俺さ、部活を作ろうと思ってるんだ。だけど人数が足りなくて。幽霊部員でもいいから、名前だけでも貸して欲しい」

「なんの部活?」


 素っ気なくはあるが、予想通り悪い手応えではなかった。


「そうだよな、それ説明しないとだよな。といっても途中でなんやかんやあって計画が潰れる可能性が高いんだけど……」

 

 軽く説明を始めようとした時、少し慌てたように泡井が遮った。


「それはこまる」

「なんで?」

「だって、確定じゃないってことは頼みを聞けないかもしれないってことになる。それじゃあ『貸し借り無し』にならない」


 ああそうか。


「俺が求めるのはその『約束』そのものってところでどうだ?」

「どういうこと……」

「つまり、計画が潰れようが、泡井が俺の頼みを聞いたことには変わりないってこと。約束してくれただけで、貸し借り無しだ」


 泡井が小さく頷いた。


「それなら。あとはきみの話次第」


 ざっと課外活動部の表向きのコンセプト(といえば聞こえがよくなるはず)を伝える。

 なんとなくピンと来ていないみたいだけれどそれは仕様だ。

 俺自身、えっほんとに作るの? てか泡井誘うの? みたいな感じだった。えっマジで?


 泡井の反応を窺う。


「それだけ?」


 たった四音。

 そこに本当のところはどうなんだという疑いと威圧感を感じ取る。


 今言ったのはいわゆる『表向き』。

 誘っているのは俺なのに、それはあんまりだった。不誠実だった。


「本音の本音は、学校をサボる言い訳だ」

「なるほど。それはうまくいきそうにない」

 

 真正面から同意されるとそれはそれで悲しいものがあるな……。

 贅沢者だった。


「で、部活ってどこに行くの」

「まあ一日で行って帰ってこれて、それほど遠くない場所なら」

「……どこにでも?」


 泡井の声が、熱を帯びた。


「なら、部員として希望がある」





 ◇





 次の日、授業開始のチャイムと同時に俺は校門前に立っていた。

 校舎に近く、しかし方角の問題であまり使われない校門は日陰に埋もれている。

 その影から明るい色彩が飛び出した。


「手、貸そうか」


 泡井は黙って頷き、俺たちは二人で校門のかんぬきを引いた。


 青緑のペンキが塗られた重たい門を二人でほんの少しだけずらして、泡井はその隙間に薄い体を滑らした。

 間隔を見誤って胸の方が少しつっかえ、抜け出出したはずみでバランスを崩す。

 ぐらついた泡井の肩を、俺は手で押さえた。


 脱走は初めてだ。

 なんとなく顔がにやけてしまう。

 泡井も心なしか、明るい無表情をしている気がした。


「行こう」


 逃げ出すように坂を下った。





 行きたかったところがあるのだと泡井は行った。

 一人では行けないのだともどかしそうに言った。


 スマホの位置情報はいつだって親に筒抜けで、実のところ学校そのものをサボったこともないのだと。


 スマホを学校や家に置いていけば機会はあったかもしれないけれど、泡井には無理だった。


「道が全部同じに見える」


 重度の方向音痴。

 地図アプリの矢印に従って、それでも散々盛大に迷ってなんとか辿り着けるか着けないかという見込みらしい。

 校内ですら未だに迷うとかなんとか。


「遭難する」

「迷子よりもひどい規模だな」


 なんとなくで足を運んでなんとなくで帰ってこれる俺や間宵とは違う生き物だった。





 そんなこんなで、善は急げ悪も急げ、体験入部というわけだ。

 通勤ラッシュ後の落ち着いた電車内、当然会話もあるわけがなく泡井は窓の景色を見つめ、俺もぼうっと広告を眺める。


 紅葉の広告の季節だった。

 毎年いつのまにか散っている紅葉だ。

 今年はもしかしてちゃんと紅葉狩りをするかもしれないなと思う。

 当然、〝部活〟でだ。

 山は時間を潰すのに丁度いい。



 ポケットの中で振動音で我に帰る。

 メールの着信、間宵だ。


 しばらく忙しいから連絡はいらないと聞いていたので今回の件を誘いはしなかったんだけど、なんだろうか。


 しかし不登校児って忙しい生き物なのかな、よくわかんねーな、と思いながら開く。


『どこか行くの?』


 ……えっこわい。メリーさんかな。


 メッセージアプリと違ってメールって妙に白くて殺風景で怖いのだ。


 しかしあいつ、やっぱりなんだか勘が変だ。

 絶妙にタイミングを読む。


 この前、「そういうのなんかわかるのか」と聞くとなんでもないことかのように肯定が返ってきた。

 なけなしの魔女性だ。

 ここのところ本人すらも主張を忘れている。

 そういや未来が見えるって言ってたな。


 タカタカと返信を送ってしまう。


「間宵も来るって」

「まよい……?」

「ああ、部員」


 泡井の反応は相変わらず薄い。


「あまり自信がない」

「自信って、仲良くできるかどうか?」

「そんなかんじ」

「大丈夫だろ。あいつ、よく喋るタイプのあまりちゃんと話せるやつじゃないから」

「ちっとも大丈夫じゃない」


 吐き捨てるような調子だったけど、これはため息混じりのセリフに変換するのが正しいんだろうな。


「意外に普通で常識人なんだぜ」

「そう……」


 泡井のテンポを掴んできたみたいだったけど、流石になんの『そう』なのかはわからなかった。






 やっと辿り着いた目的地で、ふう、と息をつく。


「……迷ったな」

「迷ったね」


 道は大丈夫だったんだが路線に翻弄された。

 かなり間違えた。俺もなんだかんだ、自転車圏内しか行かないからな。


 さほど遠いわけではなかったけど、乗り換えとか特急とかでミスをかましたのが痛かった。経路がしっちゃかめっちゃかだった。


 まあ早めに着いても、開館時間ではなかっただろうし、いいか。そういうこともある。

 


 

 泡井が行きたいと言ったのはとある西洋の画家の作品が集められた小さな美術館だった。

 美術館というからには地図記号みたいな、しっかりとした綺麗な建物をどこかで思い浮かべてたけど、辿り着いたのはシンプルな入り口だ。

 駅前にある、ただの店、みたいな入り口。


 受付のおばさんが朝からこんなところにくる中学生を、特に美術館なんて無縁そうな見た目をした泡井を胡乱な目で見ながらチケットを切った。

 中学生料金バンザイ。大人になりたくない。


 廊下は静かで薄暗く、白っぽかった。

 時間と立地の問題か。

 客は俺たちだけかもしれない。


 チケットに印刷されている絵を見る。

 

「俺、こういうのよくわからないけど。なんか知ってる気がするな」

「来年、東京で美術展をやるらしい」

「ああ、だから聞いたことあるのかも」


 もしかしたらオマージュとかでいろんなところにモチーフに使われてるのかもしれないな。元ネタは知らないけど、ってやつだ。


「好きな画家なのか」

「ぜんぜん」


 低く冷たい否定に一瞬びくりとする。


「わたしも、こういうの。なにも、なんにも知らないから。好きも嫌いもなにもない」


 泡井の顔を見ようとして、被さった照明の光に目を細める。


「東京も、外国も、この小さな美術館も。全部同じ。遠いことには変わりないし。遠ければ、それで十分」


 金色を不安定に揺らして、彼女は入り口の方へと消えていった。






 俺と泡井はばらばらに絵を見て回る。

 文字の解説ばかりを読んでしまう俺と順序なんてなしにふらふらと動く泡井とではペースが合うはずもなく、合わせる気もない。


 ……間宵となら示し合わせたわけでもないのに同じペースになるんだろうな。

 ちなみに来ると言った間宵はプチ音信不通だ。

 よくあることなので気長に連絡を待つ。

 あいつも電車で遭難したかな。

 路線図とにらめっこする間宵はなんだか絵面的に面白そうだ。



 くだらないことを考えながら説明の文章を流し読みして、次のパネルに移る。

 柔らかいけどパリっとした印象の絵だなと適当な感想を抱く。

 驚いたのはいちいちぺたぺたと絵筆で塗った油絵じゃなくてほとんどが演劇やらの宣伝ポスターだったってところだ。

 美術館にあるはキャンバスのとか彫刻とかなんかかっちりしたいかにも教科書っぽいものだと思い込んでいたから。


 興味はさほどないといっても、意外に退屈はしなかった。

 何を描いているのかよくわからないような、とっつきにくい絵ではなかったからかもしれない。

 なんとなく綺麗なことしかわからないけど。


 結局、絵よりも画家の生い立ちが書かれた文章のパネルの方を楽しんでしまった。

 知らない人の人生は劇的で面白い。


 別に古い絵ってわけでもないのが意外で、画家ってなんとなく、遠い昔の生き物か気がしていたから、百年やそこらの人の絵だというのが新鮮な気がした。





 まだ見てない絵はいくつかあるが、いつのまにか泡井が見当たらなくなっていたのが気になった。

 迷子になりやすいという自己申告だったし。

 なんせ今の泡井には連絡手段がないのだ。

 まあ、こんなところで迷いようがないとも言うけれど。


 通路の先へと進む。

 ああ、いたいた。


 一瞬、声をかけようかと思ってすぐにその気は失せてしまった。

 泡井が見ていた絵を、俺も見たからだ。


 驚いた。


 今まで見てきたような紙面上のぱりりとした絵ではなく、雰囲気のがらりと変わった壁一面の大きな油絵だったから。


 キャンバスが四角ではなく、上の方が僅かに切り取られた大きな円だったから。


 ──絵の真ん中に、つるりとした真円の鏡があったから。



 逆なのだろうか。鏡に、絵がついていると言うべきなのだろうか。


 だけど俺にはその二つが分かたれたものには思えなかった。

 自分が絵を見ているのか、鏡を見ているのかわからなくなる。


 薄暗いのに明るくて柔らかいのに重たい、きっと幻想的なんて評されるんだろう絵に縁取られて、円の中に無機質な白い壁と俺と泡井が映っている。


 その絵鏡の中の泡井は、現実よりもずっと生身の人間のような気がした。




「早く大人になりたい」


 鏡の中の泡井が口を開く。

 一音一句が現実よりもくっきりと輪郭を持つ。


「大人になれば、大人にさえなればきっと」


 しかし虚像の泡井を読み取ることはできなくて、実像の泡井の方に目を向けた。


 鏡の中よりもずっとずっと曖昧に見えた。


 は、っと我に帰るように泡井が身動ぎする。

 鏡の中に一緒に写っているのに、まるで今この瞬間俺の存在に気がついたように。



「……なんでもない」



 泡井は小さく首を振った。



 泡井の言葉の意味を、考えて。

 ろくな大人になる自信のない俺は、何も言えなかった。

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