第12話 和魂洋才へのアフリカからの評価
アフリカの知識人が、日本の和魂洋才という言葉を知り、ひどく感銘を受けたという話を、何年か前に聞きました。
今から50年くらい前、
「和魂洋才」
という言葉は、
「相変わらず日本はこの水準から卒業していない」
つまり
「日本は、何時までも表面的な近代化をしているだけで真の近代精神を身に着けていない」
嘆かわしい体質だという非難で教育を受けたものでした。これは、ある程度変化はしても、本質的にそのことは、変化していないと思います。
ところで、アフリカにとっては、伝統的精神、文化を取り戻そう、思い出そうという試みは、近代化が進む中で、それに反発して、或いは独立の苦労の流れで追求されてきました。それが日本では、最初から自分達の伝統的精神、文化を維持することを考えて実行し、近代化を実現しながら、独自の文化、アイデンティティを維持していることに感銘を受けたのだと思います。
日本人は、明治以来、自分達は表面的な近代化で、真の近代精神を自分のものに出来ていないと自己批判してきました。しかし、翻って見て、表面的な近代化、近代精神の欠如を問題視する国、国民は、日本・日本人以外に要るのかと考える必要があります。皆無だと思います。そのような反省なりをしている国を。聴いたことがあるでしょうか?アジアやアフリカで、自分達の近代化が表面的だという国の識者を知っていますか?
勿論、日本が表面的だと欧米では言われることがあります。その根拠、真の近代精神とはというと、基督教です、キリスト教を受け入れていないから、日本人は近代精神を持っていないと言うことなのです。
キリスト教が、近代精神なのでしょうか?少なくとも
「真の近代精神」
とされているものは、具体的には分からないことが多いですが、そうではないように見えます。それでは、イスラム教徒は近代精神をもつことはできないでしょう。そして、間違っても、
「真の近代精神」
を主張する人は、イスラム教徒にそんなことは言わないでしょう。
また、
「ヨーロッパの近代精神」
と
「伝統文化」
の両方にしっかりとして立つことが必要である、ともずっと前に習ったものです。でも、具体的にどういうことか分かりますか?多分、誰もどういうことかわからないのではないでしょうか?
「陶磁器の道」(岩波新書)の中で、
「欧州やイスラムでは、中国陶磁器は美しいと思って珍重するだけで、それを作る人の心を学ぼうなどとは考えない」
旨のことを書いていたのを覚えています。ここでは、イスラムや欧州の態度を肯定していました、日本人は相手の精神から学ぼうという稀有な存在なのかもしれません。
それ故に、自分の側の精神はどうすべきかを考えることになったのかもしれません。
音韻などを重視した古事記、日本書紀から始まり、圧倒的な先進中国文明、仏教文化を前にして、万葉集などの和歌を並立させて発展させたり、源氏物語等にも大和魂という言葉が出てくる(その意味が機知に富んだ思考とかの意味だったとしても)、日本の神々が仏の化身だとする本地垂迹、仏が日本神々の化身とする逆本地垂迹の流れなのかもしれません。
「我々は、心から学ばなければならない!同時に、自分達の精神も守らねばならない!」
というのが、日本人特有な、良きにつけ悪しきにつけ、思想だと思えてなりません。
しかし、
「日本人は表面だけ近代化を取り入れただけだ。」
というのは、戦後強迫観念のように激しくなってきたように思えます。
それは、産業構造も含めた経済構造が、模倣であり、表面的で、欧米のような進化的なものではなく、間違った、奇形的なものであるという考え方と関係しています。これには、敗戦の反省、どうしてこんなことになったのか、どうすれば良かったのか、別の道を歩んでいれば良かったのではないかという反省史観も関係しています。故司馬遼太郎の作品も原点そこでした。
しかし、もう一つの要因があります。それは、共産党テーゼです。元々、社会主義史観でも、明治維新はブルジョア革命とされていましたが、昭和になって、従来の史観を主張する労農派と封建勢力による上からの近代化が明治維新であり、封建制度が温存された遅れた資本主義であるという講座派(どちらも雑誌名)の論争が始まりました。これに対して、社会主義の母国ソ連に、彼らはどちらが正しいか伺いをたてたのです。スターリンのソ連は、講座派の主張を支持、日本は封建勢力に支配され、上からの資本主義化された封建制度が濃厚に残る遅れた資本主義であるが、それだけにより悪質な帝国主義国家である、取り敢えずの主敵は封建勢力であり、ブルジョア進歩主義と協力して打倒するべきである旨命令を下しました。これは、米国の全面支援を受けるようになり、資本主義国から支援を受けながら、資本主義国日本とは戦うことを正当化し、そのための先兵になることを求めたものです。
それは戦後も引き継がれただけでなく、独自に発展してゆきました。日本は、封建制ですらなく、最悪な専制的アジア的生産様式を基調にした、非常に歪んだ封建制度を色濃く残した、上からの、それ故にいびつな資本主義社会であるという理論が出来上がりました。これは、マルクスが封建制度を古代から近代につなぐものとして、高く評価しているため、そのような封建制度等が日本にあり得るはずがないということからきたものです。旧ソ連内でも、そのような見解はとうの昔に忘れ去られていたものなのですが。それは、ちなみに今の日本共産党にも、正統的引き継がれています。
このような考え方は、日本だけの考えなのです。日本は、欧州同様に、欧州以外で唯一、封建制度が確立し、そこから発展して、資本主義社会に発展国家なのだと主張するマルクス主義者もいるくらいです。それは、ほとんど無視されました。無視しないと、日本のマルクス主義歴史家の大部分(全てではありません)が、過去の自分の主張が海外から否定されていると知られてしまいますから。
日本人は、精神のあり方を常に考え、反省します。それは悪いことではないのですが、あまり過剰になり、他国や特定の勢力に利用される、または、良い行動や研究等を否定する、無視する方向に、現在なっていることは問題だと思います。
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