第15話

 遙か下のほうでは、大勢の人々の、雄叫びなのか恐怖の声なのか、何とも判別しがたい騒音が所狭しと走り回り、それを追いかけるように、恐らく爆音であろう地響きを伴った轟音が、もうもうと立ちのぼる土埃と混じり合った煙に包まれて鳴り響いている。

 しかし、そんな狂ったような騒音の中にあっても、この西の塔だけは城の正門やら兵士の詰め所やら、いわゆる重要ポイントからはかけ離れていることも手伝って、まるでその空間だけ別の場所にあるような、不思議な静けさに包まれていた。

「――さあ、そろそろ始めようか?」

 ゆっくりとトラッシュに向き合い、剣を構えるアブダラの黒く長いフードの裾が激しくひるがえっている。

 トラッシュもまた、強く激しく吹き荒れる乾いた風に、その漆黒の艶やかな長髪を豊かになびかせながら、ゆっくりと頷いた。

「ああ」

「トラッシュ!」

 ルナシエーラは、ともすれば強風に吹き飛ばされてしまいそうな身体を必死に持ちこたえながら、小さく彼の後ろ姿に呼びかける。

 しかしトラッシュはそんな彼女に僅かな視線を投げかけただけで、アブダラの方へ向き直った。

「これは試合じゃねぇ、命懸けの決闘だ。あんたにゃ悪ぃが、持ってる武具は全部使わせてもらうぜ」

 そう言ってトラッシュは呟く。

「――風よ。世界をその手に抱きし者よ。我が手に集いて形となり、蒼く輝く盾となれ」

 その瞬間、手甲に描かれた六芒星の線が微かに発光した。

「むっ?」

 アブダラが声をあげる間にも、蒼く輝くその光は徐々に秘石に集まって行き、やがて六芒星の中心から淡い蒼色に輝く、二の腕くらいまでを覆う短いスクウェア・シールドが現れる。

 しかしアブダラはさして驚いた様子も見せず、言った。

「……なるほど、ウィスタリア王家に伝わる〈風神の武具(ウィンディア・シリーズ)〉の一つか。もちろん、お前が何を使おうと私は一向に構わんさ。私とて、これが試合であったなら、このような剣、使いはせんだろうしな」

 そう言って、アブダラはふと思い出したように尋ねた。

「ところで、我が親衛隊はどうした?殺したのか?」

「いいや」

 即座にトラッシュは首を振る。

「遭遇しちまった時は、正直、こりゃ、どっちかが死ぬな、とは思ったんだけどよ。幸い半分は相棒が受け持ってくれてね。今頃はウィスタリアの森で気絶してると思うぜ」

 もちろん、嘘である。

 いくら彼らがアブダラに心酔していようと、後悔しなくても、それでも彼らの行動を密告するわけにはいかない。

 彼らは自分を認め、何かの希望を彼に託した。

 その希望がなんなのか、彼にかなえてやれるものなのかはわからないが、少なくとも自分を認めてくれた人間を裏切るわけには行かなかった。

 幾分、後ろめたさを覚えながらトラッシュがそう言うと、アブダラは

「そうか」

 と一言呟いて肩を落とした。

「お?」

 その顔が心なしホッとしたように見えたのは、気のせいだったろうか。

 しかしトラッシュがそれを確かめる間もなくアブダラは顔を上げ、言った。

「では、始めようか」

「!」

 それに応じてトラッシュも再び身構える。

 たちまち、息苦しいほどの緊張感が、二人の間に張り詰めた。

「……」

――二人とも、動かなかった。いや、正確に言うと動かなかったのはアブダラ一人で、トラッシュのほうは動けなかったのだ。

 実戦経験など無いに等しい彼でさえ何故かしら立ち竦んでしまうような何か――威圧感のようなものを、アブダラはその身から強烈に放射していた。

「くっ……」

 トラッシュの頬を汗が伝う。

 この一年の盗賊家業で培った彼の危険回避本能は、いま対峙しているこの男の実力が、ただのはったりなどではなく正真正銘、自分と互角、或いはそれ以上のものであることを告げていた。

「……?」

 しかし、傍から見ているだけのルナシエーラに、その事がわかる筈もない。

 彼女は、いつまでたってもピクリともしない二人の男に首をかしげ、おずおずとトラッシュに声をかけた。

「ねえトラッ――」

 その時だった。

 二人の間で保たれていた均衡が、僅かに崩れた。

「きゃあぁっ!」

 ルナシエーラのあげた悲鳴にトラッシュは我に返り、ハッと振り向く。

 するとそこには、既に眼前まで迫ってきているアブダラの黒い剣があった。

「……くっ――!」

 トラッシュは咄嗟に〈風神の盾(ウィンディア・シールド)〉を差し上げる。

 しかしそれをルナシエーラの声が制した。

「いけないトラッシュ!それに触ってはダメ!」

「えっ!?」

 トラッシュはその言葉に一瞬動きを止めたが、次の瞬間には思いっきり横へと飛びのいている。

「っと――何だよシャル、いきなり?」

 そう言って振り返りかかったトラッシュは、ふと風の気配の微妙な変化に気づいて盾を見た。

「えっ……」

 そう言ったきり、トラッシュは絶句してしまった。

 盾は、剣がかすった部分から半分、綺麗に消滅していたのだ。

 彼の驚きに答えるようにルナシエーラが言う。

「アレは暗黒の剣よ。人がこの世で使ってはいけない禁呪、魔界の〈暗黒〉の力によって作り出された忌まわしき剣。そして魔界を根源とする〈暗黒〉の力は、わたしたちのように自らの属性と同じ精霊だけを使役する精霊使いや、すべての精霊の力を身につけた魔道士たちの使う魔法――この世の万物に宿る精霊力とは絶対的に違う。だから――あの剣は、この世のすべての魔法を無力化する力を秘めているのよ」

「命拾いをしたな、王子よ」

 アブダラが不敵に笑った。

「そのまま受け止めておれば、盾ごと切り裂いてくれたものを――もっとも、どちらにせよ貴様が死ぬことに変わりはないが」

「ちっ」

 小さく舌打ちして、トラッシュは手をブンッと振った。

 半分に欠けた盾は一瞬で姿を消す。

「なるほど、最初から余裕こいてるわけだ。四大精霊の力をすべて無効化する暗黒の剣か……随分と物騒なモン持ってやがる」

「トラッシュ……」

 ルナシエーラが不安そうな顔で見上げている。

 トラッシュは安心させるように軽く微笑んだ。

「大丈夫。約束したろ?お前はオレが守るって――だから、大丈夫。そんな顔すんなよ」

「……はい」

 その絶対的な信頼を感じさせる仕草に、アブダラの顔が一瞬、歪む。

「……愚かなものだな」

「なに!?」

「いや、若いというべきか……圧倒的な劣勢にあってなお、明日を信じるなど、愚の骨頂だ。そんなことをして何になる?先に待つのは変わらぬ未来だと言うのに……」

「だから何だよ」

「!?」

 今度はアブダラが聞き返す番だった。

「先にある未来がなんだってんだよ。オレは、未来になんて期待しちゃいない。今の苦境から逃れるために未来を利用したりしない。未来が変えられるかなんて……そんなの誰にもわかりゃしないさ。だからオレは一瞬一瞬を大事に生きる。たとえ未来に何が待っていようと……今この一瞬を未来に託して、後悔するなんてまっぴらだ」

 寄り添うルナシエーラを離れさせ、アブダラの方へゆっくりと歩きながらトラッシュは言う。

「オレは……オレは決心したんだ。シャルを助けに行こうって思った時……もう二度と、後ろは振り向かないって。そんなことしたって見えるのは変えようのない過去と、介在することの出来ない他人の未来だけだ。……オレはもう振り向かない。オレが誰であろうと、シャルが誰であろうと、オレは今、オレが出来る最前の道を進む。そうすりゃ……未来に待つのが絶望だったとしても……オレは、耐えていける。耐えて……見せる」

「ふん」

 馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげにアブダラは鼻を鳴らす。

「それが愚かだと言っているのだ。耐えるだと?お前は真の絶望がどんなものか知っているのか?一筋の光も射し込まぬ絶対なる闇がどんなものか、お前にわかるのか?所詮、希望など……光など、真の闇を知らぬものの言う戯れ言に過ぎんのだ。それを今――教えてやろう」

 そう言って、アブダラは再び剣を構えた。

 突き刺すような殺気と憎悪がトラッシュの体を包み込む。

「くっ……」

 その気配に圧され、よろめいたトラッシュの耳に、ルナシエーラの秘呪が飛び込んできた。

「すべての命の源よ。白く輝く聖なる光よ。我が手に集いて力となり、聖なる守りを彼の者に」

 背後から、その秘呪と共に白く柔らかな光が彼を包み込んだ。

 途端に、周囲に渦巻いていた禍々しい気配が遠ざかる。

「シャル……」

 トラッシュが驚いたように振り返ると、ルナシエーラは真っ直ぐ彼を見つめ、気丈に微笑んだ。

「頑張って、トラッシュ。――わたしも一緒にいる。一緒に戦うから」

「……ああ」

 そうだ。オレたちは独りじゃない。いつだってオレの後ろにはシャルがいる。

 後ろにいて、オレを信じ、黙ってついてきてくれる。

 オレたちは、一緒に戦っているんだ。

 と、アブダラが鼻を鳴らした。

「情けない奴だ、女に助けられるとは……それでよく姫を守るなどと言える」

 アブダラの見下すようなその言葉に、しかしトラッシュはにやっと笑う。

「……男の嫉妬はみっともないぜ」

「!何だと……」

「へっ、図星かぁ――悪ぃな、思ったことはすぐ口にしちまうタチなもんでよ」

「貴様……!」

 その言葉にカッとなったのかどうか、アブダラが初めて自ら動いた。

「殺してやる!貴様も、姫も、私を蔑み、私を拒んだすべての者を――殺してやる!」

「っ……!!」

 振り下ろされた剣を、トラッシュは己の剣で何とか受け止めた。

 が、矢継ぎ早に続くアブダラの攻撃を防ぐたび、その凄まじい衝撃で腕の力が奪われていく。

 鎧が邪魔をしているとはいえ身の軽さが信条のトラッシュに、ほんの僅かな反撃も許さないほど、アブダラの動きは無駄が無く、その攻撃は重かった。

 ちくしょ……この剣……この暗黒の剣さえ何とかなりゃ……!!

 ガキッ!

 真正面に振り下ろされたアブダラの剣と、横一文字に構えたトラッシュの剣がぶつかり合い、激しい音を立てた。

「ぐっ……」

 体格的に有利なアブダラが、体重に任せて剣を押し下げる。

 両手で塚を握りしめ、必死にそれに抗うトラッシュ。

 しかしジリジリと剣は眼前に迫り、その刃の周囲を包む〈暗黒〉の波動が、トラッシュの肌を灼いた。

「ぐっ……ぁあっ……!!」

 炎のやけどなど比べものにならない程の、激痛。

 灼かれている、というよりは皮膚を剥がされていくような痛みにトラッシュは悲鳴を上げる。

「トラッシュ!」

 ルナシエーラが走り寄ろうとする気配を感じた。

「来るな!」

 痛みにせり上がってくる悲鳴を一瞬せき止め、トラッシュは必死に叫ぶ。

「くっ……そっ……!」

 力に圧され、トラッシュは片膝を付いていた。

 容赦なく押し下げられる剣に背中は反り返り、骨が悲鳴を上げている。

 今この瞬間、声を上げていられることさえ不思議なくらいだった。

「風……よ……」

 トラッシュはくいしばった歯の隙間から、何とか声を絞り出す。

「世界……を、その手に抱きしものよ……秘石に集……いて力と……なり、我が手……によりて……疾風と……なれ……!〈ウィンディア・ブラスト〉……!!」

 その瞬間、トラッシュの手甲から竜巻がわき起こった。

 それはあっと言う間にアブダラの体を包み込む。

「ぐっ!?」

 風の勢いに、一瞬アブダラの動きが止まる。

 視界を遮られ、微かによろめいたその隙を突いて、トラッシュはアブダラの剣を跳ね上げ、一気に斬りかかった。

「だあぁぁっっ!!」

「トラッシュ!だめ!」

 その時、ルナシエーラの制止の声が飛んだ。

「えっ?」

 そうは思ったものの、今更剣は止められない。

 トラッシュはそのまま、真正面からアブダラに剣を振り下ろした。

「……愚かな!」

 刹那、アブダラが剣を一振りした。

 その瞬間、彼の周囲を包んでいた風の秘呪は、跡形もなく消え失せる。

「なっ……!?」

 驚きの声を上げた時は既に、手遅れだった。

 アブダラは余裕の表情を浮かべたまま、トラッシュの剣を思いっきり跳ね上げる。

「うぁ……っ!」

 キィンッと言う金属音が響き、剣が宙を舞った。

「あ……」

 思わずトラッシュは剣を目で追う。

 そしてハッと我に返った時には既に、アブダラの剣は目の前まで迫ってきていた。

「……!!」

 殺られる!

 トラッシュはギュッと目を閉じ、咄嗟に体を庇うように右腕を差し上げる。

 瞬間。

 アブダラの剣が、トラッシュの腕をとらえた。

「トラッシュ……!!」

 ルナシエーラの悲鳴が宙を舞う。

 と、その時だった。

 パアァ――ッッ!!

 トラッシュの右腕に巻かれていた、水晶のペンダントが、視神経を焼き切ってしまうのではないかと言うほど強烈な光を放射した。

「う……わ……っ!?」

「なにっ!?」

 アブダラの驚愕した声に、トラッシュは目を開く。

 とそこには、アブダラの剣を受け止め……いや、その刃にからみつくように輝く水晶の光があった。

「受け……止めた……?」

「馬鹿な……この世に暗黒の剣を受け止める〈光〉などあるわけが……!!」

 アブダラが、あまりの驚愕に一瞬、動きを止める。

 今だ!

 トラッシュはそのスキを逃さず、バックステップしてアブダラの剣を思いっきり蹴り上げた。

「あっ……!!」

 剣はカラン、カラカラ……と音を立てて転がり、さっきのルナシエーラの光の剣と同じように、具現化する力の源を失って塚だけの姿になる。

「くそっ」

 アブダラが剣を取り戻そうと動いた。

 が、トラッシュの動きは更に素早かった。

「シャル!」

 叫んで、トラッシュは転がっている暗黒の剣をルナシエーラの元に蹴飛ばす。

「封印を!」

 呆然と事の成り行きを見守っていたルナシエーラだったが、その言葉にハッとすると、彼女は急いで秘呪を唱えた。

「すべての命の源よ。白く輝く聖なる光よ。我が手に集いて力となり、闇を封じる鍵と成れ!」

 ルナシエーラのマジック・リングが眩い光を放った。

 そしてその掌に直径10㎝くらいの白い光球が現れる。

「我が手に集いし聖なる光よ、仇成す闇を戒めよ!」

 光が、剣の塚を包み込んだ。

 刹那、剣は外界との接点を完全に絶たれ、あっという間に石化する。

「……へっ」

 トラッシュは荒い息をつきながら、笑って見せた。

「これで……やっと……互角、だな」

「……」

 アブダラはトラッシュとルナシエーラを憎々しげに睨みつけていたが、やがてフンと笑う。

「互角だと?私も随分あまく見られたものだ。貴様のような盗賊風情に……私が倒せるものか!」

 叫んで、アブダラは殴りかかってきた。

 右の拳、左の拳。

 鎧を付けているとは思えないほど素早い動きで殴りかかる拳を辛うじてよけ、トラッシュも反撃に出る。

 左拳を右へよけ、アブダラの背後に回り込んで組んだ両手を振り下ろす。

 瞬時に体を反転させたアブダラがその拳を片手で受け止め、片方の拳を腹にたたき込んだ。

 その手を臑で受け止めると、トラッシュはアブダラの胸元を強くつかみ、身を倒しながらぐいっと引き寄せてアブダラの腹を蹴り上げる。

 投げ飛ばされたアブダラは空中で難なく姿勢を変え、いかにもスマートにストッと降り立った。

 トラッシュも即座に跳ね起きると、再び両者は対峙する。

 ……くそぉ……あんなスピードの攻撃……いつものオレならよけるくらいワケないのに……

 アブダラは、その体格が邪魔してか、攻撃のスピード自体はあまり早くなかった。

 今でこそトラッシュはよけるのに必死だが、その攻撃その物はよく見えている。

 それなのに思うように体を動かせず、よけるのに必死になっている、というのは、やはり身の軽さがウリの彼にとってはかなり屈辱的な事だった。

 やっぱ鎧の差だよなあ……まさかアブダラが鎧を持ってるなんて……ただの大臣じゃねぇなんてよ、反則だよ絶対……ちくしょお……。

 しかし、トラッシュは気づいていないようだが、アブダラの表情からも余裕の笑みが消えていた。

 確かにトラッシュは盗賊風情で、剣を持っての戦いには慣れていなかったが、それでも一応、ルーシィやリカルドに鍛えられている。

 その攻撃その物は、アブダラには遠く及ばないほど軽いものだったが、運動量で言えばトラッシュの方が圧倒的に有利だった。

 大体、こんな鎧があるから邪魔なんだよな。オレは元々、盗賊だぜ?こーゆー鎧を着けて戦うのは剣士だとか騎士だとか戦士だと彼の役目じゃねぇかよ。それを……っと……

 あれ?

 その時、トラッシュはごく簡単なことに気が付いた。

 オレ……何で鎧なんか着けて戦ってるんだ?

 家のため?

 バカ言え、オレは家のために戦ってんじゃねぇ、親父やお袋の復讐のために戦ってんじゃねぇ。

 オレが戦ってるのはシャルを助けるためだ。シャルを取り戻すためだ。

 じゃあ……鎧を着けて戦う意味なんか……ないじゃねーか。

「うっわー……オレってバカぁ……」

「ト、トラッシュ!?」

 ルナシエーラは目を疑った。

 トラッシュが、なにやらブツブツ呟いていたトラッシュが、おもむろに鎧を脱ぎだしたのだ。

「な……?」

 驚いたのはアブダラも同じだったようだ。

 それはどう見ても絶好のチャンスなのに、アブダラは思わず律儀にトラッシュが鎧を脱ぎ終わるのを待っている。

「……さて」

 鎧をすべて脱ぎ終え、身軽になったトラッシュが笑った

「これで本来のオレに戻れた。……もう、さっきまでのようにはいかねえぜ」

 その言葉に、アブダラはハッと我に返った。

 トラッシュは既に秘呪を唱えている。

「風よ。世界をその手に抱きしものよ。秘石に集いて力となり、天を貫く竜となれ!〈ドラゴニア・ブラスト〉!」

 そう叫びながら、トラッシュは懐から取り出した一枚のカードを空中に放り投げた。

 それは両面に蒼い竜の絵が描かれ、その中央にオパールの粉が振りかけられた魔法秘具の一つだった。

 そのオパールの粉が振りかけられた部分……竜がくわえる宝玉の絵から、凄まじい竜巻が発生する。

 それはあっと言う間にカードを飲み込み、天を貫く竜のような姿になった。

 すかさずトラッシュは言葉を繋ぐ。

「秘石に集いて竜となりし風の精霊たちよ。息吹を喰らいて力と成せ!〈ドラゴニア・ナルド〉!」

 その瞬間、竜巻が縮小した。

 しかしその風の勢いはドラゴニア・ブラストの比ではなく、時折吸い寄せられ、巻き込まれる小石が、その中で瞬時に砕け、粉になっている。

「行け!」

 トラッシュの声に、竜巻は反応した。

「うあぁ……がっあぁ……!!」

 逃げる間もなくその竜巻に包み込まれたアブダラは悲鳴を上げる。

 激しく風にはためくフードも、マントも、あっと言う間にぼろぼろになっていった。

「ぐっ……う……があぁっ!!」

 しかしアブダラは、そう叫んで腕を大きく振り抜いた。

 アブダラの体を包み、その動きを戒めるように渦を巻いていた竜巻が、ブチブチッと言う音が聞こえそうなほど勢い良く千切れ飛ぶ。

「うそ……」

 トラッシュは驚きに目を見開いて呆然と呟いた。

「はあっ……はあっ」

 大きく息を喘がせるアブダラは、体や頭を覆っていたフードやマントをすべてはぎ取られ、額や首筋に漆黒の髪を張り付かせて立っていた。

 その首には大きな傷跡が露わになり、腕や脚は昔のアブダラを容易に想像させるほど筋肉が盛り上がっている。

 今のアブダラはもう『大臣』ではなく、かつてこの国の娘達があこがれた『騎士』の姿を晒していた。

 トラッシュは一瞬、その首筋の傷に目を見張った。

 何も知らないトラッシュでさえ背筋が寒くなるほど、むごい傷跡。

 しかしトラッシュは何も言わず、再び身構える。

 興味を覚えないわけではなかったが、ルナシエーラがその傷跡を見てハッと息をのみ、哀しげに目をそらしたのを見て、触れてはいけないものなのかもしれない、と思ったのだった。

 必要なら、あとでルナシエーラ自身が話してくれるだろう。

 そう、思った。

「……まさかドラゴニア・ナルドを自力で引きちぎれるやつがいるなんて思わなかったぜ」

「フ……ン。あれしきの……力で、私が倒せるとでも……思っていた……のか……?認識が……甘い、な……」

「の割にゃあ息が上がってるぜ。……本番は、これからだ!」

 そう言って、トラッシュは懐から何本ものダーツを取りだした。

 片手に五本ずつ、計十本のダーツを持ったトラッシュは、それを一斉に投げつける。

 ダーツはすべてがすべて、狙いを違えずアブダラめがけて飛んだ。

「フッ、このようなも……」

 その顔に微かな笑みを浮かべ、アブダラは軽く身をかわそうとした。

 トラッシュも、そうなるだろうと予測していた。

 だからアブダラが避けるのを見越して再びダーツを投げようと……して……

 その時だった。

「ぐっ……あぁっ!?」

 突然、アブダラが苦悶の顔を浮かべて悲鳴を上げた。

「えっ……?」

 その断末魔のような凄まじい悲鳴に、トラッシュは思わず凍り付く。

「な……な……?」

 アブダラは悲鳴を上げ続け……いや、自分が声を出していることさえ気づいていないように苦しみ、のたうち回り、胸をかきむしっている。

「ぐ……ぁあっ……ああぁぁっ……うっ……ぁあっっ……!!」

 その体から、ほんの僅かな黒いオーラが見えた。

 ルナシエーラはハッとする。

「あれは……〈暗黒〉の力……!!」

「シャル?」

 青ざめた顔で呟くルナシエーラを、トラッシュは振り返る。

「どうなってるんだ?」

「あの剣……暗黒の剣のせいだわ、あれが奪われたから……だからアブダラは……!!」

「剣……?おい、一体なんなんだ?わかるように説明してくれよ、シャル」

 トラッシュがイライラしたように言う。

 ルナシエーラははっと我に返った。

「暗黒の剣よ、トラッシュ」

「暗黒の剣?さっきお前が封印したあれか?」

「ええ。――あの剣は魔界の力を具現化する媒体に過ぎないのよ。本来、あんな剣を使うには、魔界の者と契約を交わし、その力を身に受け入れる必要があるの。きっとアブダラは、魔界から暗黒の力を自らの体内に呼び込み、あの剣を使うことによってその力を具現化していたんだわ……でも……!!」

「でも、その剣はオレたちがさっき……」

 トラッシュもやっと、アブダラの身に起きていることを理解したようだった。

「力の……暴走……!!」

 それは、決して暗黒の力に限ったことではなかった。

 何かの媒体を通じて力を具現化する。

 方法としては他の四大精霊や光の力にも同じようなものがある。

 さっきルナシエーラが使った光の剣も、同じ原理を応用しているのだ。

 しかしそれは時として自らの体が耐えきれないほどの力を発揮することがある。

 例えば媒体とした道具が、使う人間の耐えうる以上の力を求めた時。

 逆に、体内のありあまる力が、ハケ口だった媒体を失った時。

 そんな時、その力は暴走する。

 そう……その人間の体を滅ぼしてしまうほどに。

「アブダラは魔界から力を取り込んでいるわ。そしてその契約はまだ失われてはいない。でも力を放出する道具を失ったから……」

「依然として送られ続ける力が、アブダラの体の中で暴れ始めたのか……」

 もう、アブダラが助からないことは、誰の目にも明らかであった。

 トラッシュは少しだけ不服そうに言う。

 それはそうだろう。

 せっかく勢い込んで乗り込んだのに、結局彼はアブダラに勝てなかった。

 アブダラを倒したのは自分ではなく、アブダラ本人なのだ。

「でも、これですべてが終わるなら……」

 そう言って安堵のため息を付くトラッシュ。

 しかしルナシエーラはあっ、と声を上げた。

「ア、アブダラ……?」

 その表情が、少しずつ変化していた。

 苦しみ、のたうち回るアブダラ。

 しかしその表情から、いつの間にか〈狂気〉が失われていく。

 そして代わりに浮かび上がる別の表情……

「あれは……」

 トラッシュも息をのんだ。

 あの顔は、覚えがあった。

 それも最も身近で……そう、あれは……

「あれは、オレと同じ……」

 哀しみ。

 愛する人を失い、その苦しみを持て余し、絶望に必死で耐える……同じ想いを負った顔。

 アブダラの表情が〈狂気〉と〈哀しみ〉の間で揺れる。

「これは……一体……」

 呆然としたトラッシュの呟きに応えて、ルナシエーラは言った。

「あれが……きっとあれが本当の……お母様を愛していたアブダラの姿なのよ……」

「……なんだって?」

 ルナシエーラは、タニアに聞かされ、アブダラに告げられた真実を話して聞かせる。

「そ……うか、それで……」

 トラッシュは、やっと理解した。

 あの時、あの森の中でエドアルドに託された、希望。

『君なら……君にならあの方を……』

 その続きが、今ならわかる。

 オレになら、アブダラを元に戻せるかもしれない。

 オレが託された希望。

 それは、あいつらが心底惚れ込んだ、本当のアブダラを取り戻させること。

 ――すまない……。

 トラッシュはグッと拳を握りしめ、目を閉じた。

 オレはお前らの願いを叶えてやれなかった。

 自分のことだけ考えて……シャルを助ける、それしか考えずに……お前らはオレを信じてくれたのに……。

 その時。

「アブダラ……!!」

 ルナシエーラの言葉にハッと顔を上げると、アブダラがこちらを見つめていた。

 その虚ろな瞳が、まっすぐルナシエーラを見据えている。

「あ……」

 恐怖に後ずさるルナシエーラを庇うように、トラッシュは立ちはだかる。

 しかしアブダラはよろよろと数歩進み、彼女の方へ腕を弱々しく差し上げながら、遂に力つきたように倒れ込んでしまった。

「アブダラ……」

――それが、トラキーア、ウィスタリアを含む多くの国を破滅へと導いていた大臣、アブダラ・マクミールの最期だった……。

 

「どうして……」

 ルナシエーラは立ちすくんだまま、激しく泣きじゃくっていた。

「本当は……本当はみんな、幸せになれるはず……だったのに……どうして……」

「シャル……」

「アブダラは……アブダラは、本当に純粋にお母様を愛してた。今ならわかる。彼がわたしに向けていた瞳の意味……あれは、わたしじゃない、本当はお母様に向けられていたもの。わたしの中に見えるお母様の影……アブダラはお母様を憎みながら、それでも激しく愛してた。だから……だから……!!」

「シャル……もういい。もういいんだ。全部終わったんだから……オレたちは幸せになろう、シャル?アブダラの分まで……今まで苦しみ、死んでいったすべての奴らの分まで……な?」

「トラッシュ……」

「オレ、頑張る。頑張って立派な王様になるからさ。シャルを守って、国を守って行けるような王様になるから……だから、もう泣かないでくれ。お前の笑顔が……オレにとって一番の宝物なんだから」

「……え……」

 ルナシエーラはぽかん、と口を開けた。

 ねえトラッシュ、それって、それってもしかして……

 プロポーズ?

 ルナシエーラはすっかり泣くのを止め、戸惑ったようにトラッシュを見上げる。

「トラッシュ……わたしならいいのよ。王様になってほしいなんて言わない。……自由でいたいでしょ?堅苦しい生活なんて嫌いでしょ?王様なんて窮屈なだけよ、わたし、わたしあなたに無理して欲しくない……」

「ばぁか」

 と、トラッシュは軽くルナシエーラの額を小突いた。

「オレにとって一番の望みは、お前をそばに置いておくことさ。他の何もいらないよ。お前がいてくれるなら……オレは、どんなことだって耐えられる。王様になるくらい、ワケないさ。これでも一応、王子なんだぜ?」

 そう言って胸を張るトラッシュに、ルナシエーラはくすくす笑った。

 そして、その手をすっと差し上げる。

「?」

「これ……」

 その手にはアブダラがはめようとしていた銀のリングが光っていた。

「これは……結婚指輪か?」

「ええ。お母様と、お父様の。お父様の方は教会に置いてきたままだけど……コレ、はめてくれる?トラッシュ。夢じゃないって……今のこの瞬間が夢じゃないって、確かめたいから」

「……」

 トラッシュはフッと笑ってその指輪を受け取った。

「OK」

 そしてルナシエーラの手を取り、指輪をそっとはめる。

 そのまま掌を持ち上げ、そっと口づけたトラッシュは、ルナシエーラの肩を抱き寄せた。

「幸せになろうな……二人で」

「ええ」

 赤く頬を染めながら、ルナシエーラは嬉しそうに頷く。

 そして、ふと思い出したように顔を上げた。

「ねえ、トラッシュ?」

「うん?」

「一つだけ、聞いていい?」

「なんだ?」

 不思議そうなトラッシュに、ルナシエーラはさっきから気になっていたことを口にする。

「この国の正規兵……どうやって味方にしたの?彼らの暗示を解くなんて……」

「解いてねぇよ」

「え?」

「だから、暗示は解いてねぇんだ。正規兵の奴らはこの国の掟に従って、オレたちに味方したんだ」

「どういう……こと?正規兵を動かせるのは、この国の王か、その権限を委ねられた大臣だけよ?」

「だからさ」

 トラッシュはくっくっと笑う。

「だから、それを利用したの。……忘れたのか?この国では王家の女に国を動かす権限はなくて、権限を委ねられた大臣は、王家の女の結婚相手を選ぶ権利はない……って、お前が言ったんだぜ?」

「え……あ!」

「だから、オレは一言、正規兵の奴らに言ってやったんだ。オレが王子だって事と、シャルはオレの物だってこと。王子のオレがお前を望んでるんだ、正規兵の奴らがそれを邪魔するわけねえじゃん?」

「トラッシュったら……」

 悪びれもせず、無邪気に笑うトラッシュに、ルナシエーラは苦笑した。

 彼にとっては、国の掟も慣習も、その程度の物でしかないのだろう。

 今までずっと自由に生きてきた、誰より王子らしくない、王子様。

「トラッシュ」

「ん?」

「大好き」

「えっ……」

 突然の言葉に真っ赤になって慌てふためくトラッシュにくすくす笑いながら、ルナシエーラはそっと寄り添った。

 いいですよね?お父様、お母様。

 トラッシュは、全然王子様らしくない王子様だけど……でも、わたし、幸せになります。

 お父様とお母様の分まで。

 だから、天国で見てて下さいね。ずっと……ずっと。

 そして、ルナシエーラはふと倒れているアブダラに目を向けた。

 お母様……お母様は本当にご存じなかったんですか?

 アブダラが……あなたを愛していたこと。

 神様は、どうして彼にばかり辛い試練をお与えになったのですか?

 彼はただ、一生懸命生きてきただけなのに。

 ずっと、ずっと、ひとりぼっちで生きてきたのに。

 このまま……このまま彼は辛い人生を終えるのですか?

 一度も幸せを感じることなく……ただ、辛いだけだった一生を……そんなの……そんなのってあんまり……むごすぎる……。

 と、その時だった。

「う……うぅ……」

 虫の息で倒れている筈のアブダラが、弱々しい声を上げたかと思うと、まるで何かを探しているかのように、力の入らない手を空中に差し上げた。

「た……たに……タニア……!!」

 その言葉に、ルナシエーラはハッとなった。

 アブダラは最期の力を振り絞るように微かな声を上げ、尚も空に手を彷徨わせている。

 彼の目にうっすらと涙が滲んでいるのを見たルナシエーラは、トラッシュの方を振り返った。

「トラッシュ……」

 ルナシエーラの問いかけるような眼差しに、トラッシュは優しく微笑んで頷く。

「行ってやりなよ。……おふくろさんの代わりに」

「……ありがとう」

 ルナシエーラはそう言ってアブダラの下に走り寄った。

「タニア……タニア……!!」

 尚もそう言って空に彷徨わせ続けるアブダラの手を、ルナシエーラはしっかりと握りしめて囁く。

「わたしはここにいます。……あなたのそばにいます」

「お…お……タニア……!!」

 その瞬間、アブダラの顔が見違えるほど輝いた。

 無邪気な子供のようにあどけない微笑みを浮かべる彼に、ルナシエーラは言葉をつまらせ、微笑む。

 アブダラが言った。

「やっと……やっと会えた、君に……君に、どうしても……伝えたいことが……」

「喋らないで、傷に触るわ」

「ずっと……ずっと言いたかった。たった一言だったのに……何故か足がすくんで……言えなかったんだ。だが……やっと……やっと最期にこうして……言える……」

 血にまみれた頬を、とめどない涙が伝ってゆく。

「ゆ……許して……ほしい。君に……何も言わずに……去ってしまった……ことを……。だが……きっと……きっと再び会いに……来ようと……そう、思って……いたんだ。どうか……臆病な私を……許してくれ……そして……そして、ありがとう……タニア……!!」

 アブダラの瞳が――どこか遠くを見ているように焦点の定まらない瞳が、フッと和らいだ。

 その体から、まるでそのまま闇の中に身を委ねようとしているかのように、ゆっくりと力が抜けていく。

 その瞬間、ルナシエーラは自分でもわからないうちに叫んでいた。

「やめて!しっかりしてアブダラ!お願い、しっかりして!」

「シャル!?」

 トラッシュは驚いて声を上げた。

 何を思ったのか、ルナシエーラが取り乱したように叫び、必死に治癒の呪文を唱えようとしている。

 ……だが、一度悪魔に魂を売り渡し、〈暗黒〉の洗礼を受けてしまった者には自然界の精霊の力は届かない。それどころか、逆に力が吸い取られてしまう危険性すらあるのだ。

「やめろ、シャル!何かんがえてんだよ!」

「しっかりして……お願い、死なないで……お母さまは……お母さまはこんなこと望んではいない……一人のまま……孤独なまま死ぬなんて、そんな酷いこと……お願い、しっかりしてアブダラ!あなたはまだ生きなきゃいけない!罪を償って、そしてまたやり直して!きっと、きっと幸せはあなたにだって……!!」

 ルナシエーラは無心にそう呟いて、アブダラを抱え起こした。純白のドレスが不吉に血で赤く染まったが、そんなことはお構いなしだ。

「……光よ。すべての命を育みし聖なる力、母なる光よ!どうか、どうか〈暗黒〉に見入られしこの者を、大いなる慈悲によって救いたまえ……!」

「シャル!」

 トラッシュが悲痛な声を上げる。

 今や誰の目にも彼女の持つ〈光〉の力がアブダラの身体に取りついた〈暗黒〉の力と戦っていることは明らかであった。

 〈暗黒〉の強大で忌むべき力が、ルナシエーラの聖なる光を浸食していく。

 それにつれて彼女の身体も大きくかしいでいき、もはや一刻の猶予もならない状態であった。

「シャル!やめろシャル!……くそっ、身体が動かねえっ!!」

 〈光〉と〈暗黒〉の力の波動が、周辺一体を完全に支配していた。もはや、いま身体を動かせるのは一人もいないように思われた。

 と、その時だった。

 思いもかけぬところから、ルナシエーラの行動を遮る手が上がった。

「……もう、いいのだ……姫よ」

「……えっ…」

 アブダラが、弱々しい力でルナシエーラの手首を掴んでいる。

 その目が、今まで見たこともないような優しい光を称えて彼女を見つめていた。

「アブ……ダラ……!?」

「もう止すんだ。お前まで……巻き添えになってしまう。これ以上……暗黒の力を引き寄せては……駄目だ」

「あなた……あなた、正気に……!?」

 その目は、もはや幻のタニアを見ているのではなく、しっかりと、確かに目の前にいるルナシエーラを見つめている。

「こんな私を……お前には、辛い仕打ちしか……しなかった私を……命をかけて救うことは……ない。その……馬鹿がつくほど甘い、お前のその気持ち……だけで……その涙だけで、私は十分だ……」

「アブダラ……」

「さあ……もう行きなさい……。私は……助かりはしない。お前まで道連れになる……ことは、ないのだ」

「でも……でも……!!」

「行くんだ!」

 カッと目を見開き、アブダラは言った。

 びくっ、と、ルナシエーラの身体が震える。

 アブダラは優しく言った。

「さあ……あの男にまで、愛する人を失う哀しみを、与えては……ならない。……もう行きなさい。お前たちは、もう十分すぎる……ほどの苦しみを……永い間、背負ってきたのだ」

「アブダラ……」

「不思議な……ものだ。愛する人を奪った男の……憎い男の血を引くお前だと……言うのに……こんなに……安らいだ気持ちになれるとは……。もしかしたら……そう、あの時、わたしがすぐにタニアに会いに行っていたら……お前は……私の娘だったかも知れぬのだな……」

「あ……う……」

 もう、言葉は紡げなかった。

 ルナシエーラは必死に嗚咽を堪え、アブダラの言葉を聞き漏らすまいと耳を傾けている。

 アブダラはそっと彼女の涙を拭った。

 これ以上はないほど優しい仕種で。極上の微笑みと、誰よりも温かく、大きな手で。

「お前は……やはり泣いてくれたな。ずっと……心の底ではそう思っていた。私が死ぬ時、お前はきっと……たとえそれが当然の報いとしても……それでもお前だけは涙を流してくれる……だろうと……。そうだ……私は……私はタニアのそんな優しさを愛したの……だから……」

「アブ……ダラ……」

「だが……悲しむことは……ない。これは……そう、当然の報い……なのだから。私は……弱い人間だった。愛する人の幸せを……喜ぶことが出来なかった。結局……自分のことしか考えられなかったのだ。だから……だから私は悪魔に取りつかれてしまった。愛する人を失った哀しみを……愚かにも憎しみに変えてしまったのだ。こんな……こんな弱い人間の為に……お前が泣くことはない」

「いや……いやよ……死んではダメ!もっと……もっと生きて、アブダラ……!」

「駄目だ。私が……生き残れば……きっと、この国は……滅ぶ。人々の憎しみの対象が消えない……限り。私は……彼らの仇なのだ」

「守ってあげるわ!わたしが、絶対にあなたを守ってみせる!どんなに憎まれても、だれを敵に回したって守ってみせるから!だから死なないで!あなたは……今のあなたはこの国に必要な人なのよ!」

「必要な人間……か。もっと早くにその言葉の意味を悟っていたら……こんなことにはならなかったかもしれん……しかし、もう手遅れだ。私は……私はお前が愛する男の仇でもあるのだぞ」

「……!!」

 ハッとした表情を浮かべたルナシエーラに、アブダラは微かに微笑んだ。

「そうだ。たとえ誰を敵に回そうと、愛する男……だけは、裏切れまい。いや、裏切ってはならんのだ。裏切りは疑いを……うむ。そして、疑いは憎しみを……作りだしてしまう。もう二度と、同じ過ちを繰り返しては……ならん」

「でも……わたしは……あなたを助けたい……のに……」

「だめだ。あの男との幸せを望むのなら、私にはもう……」

「……おい」

 その時、トラッシュが怒ったような声を上げた。

 ルナシエーラはびくっと身を竦ませる。

 しかし、トラッシュはつかつかと歩み寄って来ると、突然ルナシエーラを手伝ってアブダラを抱え起こし、肩に担ぎ上げた。

「な……!?」

 アブダラの呆然とした呟きに答えてトラッシュはそっぽ向きながらぼそっと呟く。

「……フン。人の意見を勝手に決めるなよ。オレは惚れた女の願いも聞き入れられねぇほど小さい男じゃねぇんだ。……第一、顔も覚えてねぇ親父たちの仇なんか、とっくに忘れちまってるよ。オレがここに乗り込んだのはシャルを助け出す為だ。そのシャルがお前を助けたいって言うんなら、反対する理由はねえよ。……それに」

 トラッシュはこちらを振り向くと、苦笑いするように言った。

「オレ、あんたのこと笑えねーんだよな。シャルが国外へ出たって思った時……もう二度と会えないんだって思った時……オレはあんたと同じように喜べなかった。自分のことしか考えられなかったんだ。もしあの時……あの時エイダさんが本当のことを教えてくれなかったら……そしてオレにもっと強大な力があったとしたら……オレはきっと、あんたと同じ道を歩んでただろうよ。だから……だから、オレはあんたを助けたい。シャルと同じように、オレも身体を張ってでもあんたを守ってやるよ」

「王子……」

「それに第一、オレ一人じゃこれから国の再興なんて出来っこねぇしよ。あんたのおかげで目ぼしい人材みんな死んでるかバックレてるかのどちらかだもんなぁ。ちゃんと責任はとってもらうぜ、アブダラ」

「フッ……ならば、まずその言葉づかいを直すこと……だな。それでは……王子どころか……城の兵士にすら……なれぬぞ」

「へん。何しろ野に下って十三年だからな。柄の悪さは筋金入りだぜ。そこらの学者風情じゃオレの教育は無理ってもんだ。ここはやっぱ、実際にチンピラから大臣にまで成り上がった経験者に教わんねーとな」

 口の悪さとは対照的に、その瞳はまっすぐに、理解と寛容の光をたたえてアブダラを見つめている。

 ……結局、私は最初から負けていたということか。

 アブダラはそう考えると、軽く苦笑した。

 国が繁栄し、存続するにはそれなりに理由がある。きっと、この少年ならば荒みきったウィスタリアとトラキーアを元の平和な国へと導くだろう。

 ルナシエーラの言ったとおりだ。

 王とは人を慈しみ、民をいたわる者。

 罪を罪として受け入れ、それでもなお人を赦す寛大な心と、その罪に真っ向から立ち向かおうとする強い精神を持った者こそ、王としての資質を持つ者なのだ。

 人の上に立つのに権力はいらない。

 必要なのは他人に慕われる純粋な心。明るい陽光を思わせる暖かな心。

 王家の者としての経験も記憶もないだろうが、トラッシュにはそのどちらをも凌駕する何か……そう、この者なら、そう思わせるような希望の輝きがあふれていた。

「……フッ」

 アブダラは一瞬、体を蝕む暗黒の力の苦痛も忘れ、笑った。

 この男に必要なのは、心から彼を慕う多くの民と、彼を支える人間だ。

 ……私の出る幕はない。

「アブダラ……」

 その時、不安そうな顔をしながらルナシエーラがそばに寄ってきた。

 ルナシエーラ。タニアの……私に光を与えてくれた少女の、娘。

 この娘なら立派に王子を支えていくだろう。

 時には影となり、時には光となり。タニアが私に与えてくれた何倍もの暖かい光で、愛する男を支えていくだろう。

 民に希望を与え得る若き王と、慈愛に満ちた美しい王妃。

 この二人なら、きっと彼らを慕う民達を守り、導いていける。

 ウィスタリアもトラキーアも、以前のように……いや、それ以上の繁栄を得るだろう。

 だが……私はこれでいいのか?

 このまま死んで……死ぬことで本当に、私の罪はあがなえるのか?

 死ぬことはたやすい。このまま体の中の暗黒にすべてを委ねてしまえばよい。そうすれば私は……私は一人、愛した女(ひと)の娘に見守られながら永遠の眠りにつける。

 しかし……それで本当に罪をあがなったと言えるのだろうか。

 私にとって『死』は『逃げ』ではないのか。

 私を助けようとした姫。私を赦した王子。

 彼らの想いを無にしないことこそ……生きてすべての者の非難に耐え、国の復興のために尽くすことこそ、本当の償いなのではないか。

 アブダラは自分を見上げ、心細そうに腕を取るルナシエーラに、低く呟いた。

「……私の罪は重く、大きい。決して、赦されることではない」

「!いいえ、アブダラ、そんなこと……」

「しかし」

 アブダラは、ルナシエーラの言葉を遮り、言った。

「だからこそ私は……私は……生きようと、思う」

「!」

 ルナシエーラが息を呑んだ。

 アブダラを支えるトラッシュの腕にも、一瞬力がこもる。

「私は……私は決して赦されない罪を犯した。その罪は……死んで償えるほど小さくはない。私には……多くの民を傷つけ、苦しめた私には……死して安らぎを求めることすら赦されないのだ」

「アブダラ……」

「そんな辛そうな顔をするな、姫よ。……やっとわかった。私はまた……逃げようとしていたのだな。暗黒の中へ……あの時と同じように」

 苦しい息をつきながら、アブダラは弱々しくその手を差し上げた。

「……赦されるならば」

 ルナシエーラの頬に手を当て、アブダラは言う。

「もし赦されるならば、このまま生きながらえ、罪と向き合う罰を……私に与えてくれ。私は……この塔の中で一人、生涯を送ろう」

「馬鹿……言ってんじゃ……ねぇよ」

 トラッシュは言葉を詰まらせながら言う。

「そんなこと……出来るわけねぇじゃねーか。自分から進んで罰を与えろなんて、そんなこと……そんなこと出来るわけねーだろ、オレたちに!オレは……オレたちはお前を苦しめるために助けようとしたんじゃねぇ!」

 そう言って、トラッシュはくっ、と横を向いた。

 その目に浮かんだ涙のわけは、哀しみだろうか、怒りだろうか。

 アブダラはフッ、と笑った。

「……ならば、このまま私を……見捨てて行くが……良い。私はそれでも……構わぬ。……選ぶのは、お前達だ。このまま私に『死』の安らぎを与えるか、『生』の罰を与えるか。どちらかだ」

「そんな……そんなのって……」

 まさか、彼を助けることでさらに彼を苦しめる結果になるとは思ってもみなかったのだろう。しかし、だからと言ってこのまま彼を見殺しにすることなどできる筈もない。

 と、アブダラがゆっくり微笑む。

「自分を責める……ことは、ないのだ、王子よ、姫よ。これは、私自身が招いた罪……私が望んだ罰、だ。私はお前達の両親を殺し、苦しみを与え、国を奪った。その私を……お前達は赦して……くれた。それだけで……お前達が流してくれた涙、それだけで、私は十分……だ。それだけで……耐えていくことが出来る」

「でも……!」

「よせ、シャル」

 そっと、しかし有無を言わせぬ口調でトラッシュがルナシエーラを制した。

「アブダラ。それが本当にお前の望みか?お前が望めば、オレ達はお前を遠くへ逃がすこともできる。そうすれば、お前はもっと平穏な生活を手に入れることだって出来るんだぞ」

「そうよ!何も進んで苦しみを受ける事なんてないわ!……誰が悪いワケじゃない。みんな、みんなほんのちょっとの行き違いが原因じゃない!なのに……なのにどうしてあなただけが苦しまなくちゃいけないの!今まで……今までだってずっと……あなたは苦しんできた。十分に苦しんできたじゃない!」

「……自ら招いた、苦しみだ……誰に負わされたわけでもない、自らの弱い、愚かな心が招いた……結果なのだ。罪は償わねば……ならん。逃げ延びることなど……出来ない」

「でも!ここに残れば、あなたはもっと苦しむことになるかもしれないのよ!」

「そうだ。あんたの望み通り塔の中に幽閉することは簡単だ。きっと、トラキーアの奴らもウィスタリアの奴らも納得するだろう。……けど、奴らのあんたに対する憎しみは消えない。城は広い。いくらオレ達があんたを庇おうと……目の届かないことは絶対にある。何が起こるかわからないんだぞ。もしかしたら……あんたを殺そうとする奴だって……いるかもしれない。あんたは……罪の意識に苛まれ、身の危険に脅えながら暮らさなきゃならないんだ。それでもいいって言うのか?」

「もちろんだ」

 ほんの数秒、男たちの間に沈黙が流れた。

 トラッシュはどーっと重く息を吐き、頷く。

「……わかった。望みを叶えよう」

「トラッシュ!」

 ルナシエーラが叫んだ。

「――感謝する」

「やめて!ねえ、お願い、やめてトラッシュ!それじゃ……それじゃアブダラが!」

「シャル」

 トラッシュは胸にすがりつき、涙目で訴えるルナシエーラの肩をつかむ。

「……オレ達に出来るのは、これだけなんだ。アブダラは罪を犯し、それを償いたいと願った。――オレ達は、それを叶えてやらなきゃならない。それが、この国を……トラキーアとウィスタリアを受け継ぐオレ達の役目だ」

「トラッシュ……でも……」

「お前が辛いのはわかる。十三年間も王女だってだけの理由で、トラキーアが荒んでいくのを自分のせいだって責め続けるようなお前だもんな。でも、逃がしたって……アブダラを逃がしたって、こいつは楽になんかなりはしないんだ。むしろ苦しみは募るだけさ。自分が幸せになればなるほど……罪の意識は肥大していく。自分の幸せのために他人を犠牲にする……その苦しみは、オレ達だってよく……いやになるくらいよくわかってる筈だろう?」

 ルナシエーラはハッと顔を上げた。

 何も言わなくても、トラッシュが森での生活のことを言っているのがわかった。

 静かな森の中での、二人きりの生活。

 この上もなく幸せで……苦しかった日々。

 トラッシュと一緒にいたいと願った。それだけで幸せだった。でも……日毎に胸が苦しくなった。

 この幸せの裏側で……愛する人を危険にさらしている自分が居る。

 愛する人の大切な人たちが傷ついている。

 自分のために。自分が幸せになるために、犠牲になっている物、人。

 それを考えるたびに、胸の中の幸せが小さくしぼんで……苦しくなった。

 その苦しみから逃れようと、必死にトラッシュを信じようとして。

 ルナシエーラの表情が、やがて諦めのそれへと変化していく。

 トラッシュは優しく彼女の体を離し、言った。

「わかったな?」

「……はい」

 その言葉に、トラッシュは頷いた。

 大丈夫。お前は、きっと、心の中で納得しても、それでもこれからずっと、自分を責め続けるだろう。

 でも。

 だけど、大丈夫。これからは、お前の哀しみは、全部オレが引き受けてやるから。

 もう二度と、お前を泣かせやしないから。

 おまえは、オレが護る。

 ……あの日、そう誓ったんだから。

「――聞いた通りだ、アブダラ。おまえの望みは叶えてやる。それが願いなら、おまえをこの塔の中に幽閉しよう。……だけど」

 トラッシュは頷きかけたアブダラに、言葉を継いだ。

「だけど、条件がある」

「条件?」

「――これから先、もう二度と自ら死を願うようなことは許さない。お前は、お前自身が望んだように、一生この塔の中でオレたちを見続けるんだ。……絶対に」

 その言葉は、アブダラの胸の中に重く響いた。

 自ら願った罰。その代償に『死』の権利を奪うとは。

 何という辛く……甘い罰だろう。

 アブダラは再び、低く呟いた。

「――感謝する」

 

「……さて」

 重苦しい雰囲気を壊すように、トラッシュはフッと息を吐いた。

「それじゃ取り敢えず、お前のその体、そん中の〈暗黒〉の力を何とかしなきゃだな。と言って、シャルの秘呪を使ったんじゃ、さっきの二の舞だし……。――辛いのか?」

「あ、ああ……いや、たいしたことは……ない。今はまだ…姫の〈光〉の秘呪が……〈暗黒〉の力を抑えている……ようだ」

「どれくらい保つ?」

「長く見ても……三、四〇分が限度だろう。ここは……〈光〉の世界……魔界の力が及ばぬ世界だ。だから……スピードはかなり……弱まってはいるが……しかし、だからと言って……力が、消えたわけでは、ない……」

 一言一句、絞り出すように喋るアブダラ。

 その額には脂汗が浮き出し、どうやらその言葉ほどの余裕はないらしい。

 現に、先ほどと比べると今の彼の顔色はかなり悪い。

「やっぱり、もう一度わたしが……」

 ルナシエーラがアブダラに寄り添い、言葉をかける。

 即座に、男二人は首を振った。

「よせシャル」

「だめだ姫よ」

 ……次の瞬間、二人は顔を見合わせ、フッと吹き出していた。

「……なんだかわたしだけ仲間外れみたい」

 ぷうっと膨れて見せながらも、ルナシエーラの瞳は微笑んでいる。

 彼らの間には、ほんのわずかなわだかまりも感じられなかった。

「暗黒の力、か……。四大精霊すべての力を吸い取り、無効化する禁じられし呪文……確か対抗できるのは光の力だけなんだよな?」

「ええ、光の力は暗黒の力の対極にある秘呪だから……でも所詮、主人級(マスタークラス)のわたしの秘呪なんかじゃ……」

「暗黒の力、に……対抗し得るのは、神々の力〈神聖〉さえも……召喚できるという……〈光〉の最高位〈光の支配者(ホーリー・ルーラー)〉のみ……せめて……せめてオーブでも……あれば……」

「オーブ?」

 トラッシュが聞き返すと、ルナシエーラはあっ、と息をのんだ。

「ルナシエーラ?」

「そうよ、それよトラッシュ!」

「へ?」

「だから、オーブ!」

「オーブがどうしたって?」

 トラッシュには何がなにやら、さっぱり話が見えてこない。

 しかしそれはアブダラも同じだったようで、彼もまた不思議そうな視線をルナシエーラに投げている。

 ルナシエーラは、自分に向けられる二人の表情が全然納得していないことを悟り、トラッシュの腕を指さした。

「それ、その腕に巻いてる水晶よ、トラッシュ!」

「これ……?」

 トラッシュは腕に巻いたままのカルマのペンダントを見やる。

 それは先ほどあれだけの衝撃を受け止めたというのに、傷一つついていない。いや、それどころか暗黒の剣に触れたことによって一層の輝きを放っているかのようだった。

「そう……か、それは……」

 アブダラが苦しい息の下で、納得したように頷く。

「忘れて……いた、そうだ、それは……あの、剣を……受けとめ……て……ごふっ!!」

 その時、アブダラがせき込んだ。

 その口から、赤とも黒とも言えるどろっとした血が飛び散る。

「アブダラ!!」

「大……丈夫、だ……」

 言葉ほど大丈夫ではないことは明らかだった。

 額にしたたるほどの脂汗を浮かべたアブダラの体は、ほんの少し前から微かに震え始めている。

 必死に痛みと戦っているらしいアブダラに顔を曇らせ、トラッシュはルナシエーラを見た。

「よくわかんねぇけど……とにかく、この水晶があればいいんだな?それでアブダラを助けられるのか?――言っとくけど、またお前が危険な目に遭うんなら却下だぞ。いいな」

 自分だけのけ者にされたも同然なのに、トラッシュはスネたり腹を立てたような素振りは見せず、手早く腕に付けていた水晶を取ってルナシエーラに渡す。

 この場の状況を判断し、プライドよりも自分の成すべきことを取る潔い彼の態度に、ルナシエーラは微笑み、力強く頷いてみせた。

「大丈夫。この水晶があれば……このオーブがあればわたしの光の秘呪を一時的に支配者級まで高めることが出来るの」

「オーブ?オーブって……その水晶がか?」

「ええ。これはただの水晶じゃないわ、人が暗黒の力と戦うために作った、光の力を増幅させる聖なる秘具(セイクリッド・アイテム)の一つなの」

「セイクリッド・アイテム……そのペンダントが……」

「さっき、あの暗黒の剣を受け止めた時に気づくべきだったわ。きっとこの水晶に秘められているのは〈神聖〉の魔力……これにわたしの光の力をそそぎ込めば……」

 そう言いながら、ルナシエーラは受け取ったペンダントのトップ部分……六角形にカッティングされた水晶を両手で包み込む。

「……」

 ルナシエーラが精神を統一させるために深呼吸し始めると、トラッシュは苦しげに呻くアブダラの体をゆっくりと地面に横たえた。

「ぐ……う……」

 その顔に苦悶の表情を浮かべ、浅い息を繰り返すアブダラ。

 その意識はすでに体内の痛みしか感じてはいないようで、片手で己の胸を、もう片方はトラッシュが差し出した手を、痛みに耐えるように握りしめている。

「シャル……」

 トラッシュが心配そうに見つめる中、ルナシエーラの意識は次第に手の中の水晶へと集中していった。

 それに従って、秘呪を唱えてもいない彼女の体からうっすらと金色の光が膜のように浮かび上がってくる。

「……光よ……」

 やがて、ルナシエーラが秘呪を唱え始めた。

「すべての命を育みし聖なる力、母なる光よ……どうか、どうかその大いなる慈悲の光を以て、暗黒の力に魅入られしこの者に癒しの力を与えたまえ……」

 手の中の水晶が、淡い光を帯び始めた。

 まるで輝く星の欠片のように瞬くその水晶の柔らかな光は、あっという間に両手を包み込むほど光を増す。

 ルナシエーラは、両手を覆い隠すほどの輝きを放ち始めた水晶を包み込んだまま、横たわるアブダラの体にそれをスッ、と翳した。

「ぐっ……!!」

 途端、アブダラの体がぴくん、と跳ねた。

「アブダラ!?」

「大丈夫。光の力と暗黒の力が反発しあっているだけ。……アブダラを、しっかり抑えていてトラッシュ。これから、彼の体内に取り付く〈暗黒〉の力を追い出します。きっとアブダラには想像を絶するほどの苦しみだと思うわ……だから」

 そう言うルナシエーラの額にも汗が浮かんでいる。

「シャル……本当に大丈夫か?キツいんじゃないのか?」

「……ちょっとだけ」

 ルナシエーラは正直に言って微笑んで見せた。

「でも、これくらい何でもないわ。あなたがそばにいてくれるから……わたし、強くなれる。耐えてみせるわ、だから、心配しないで。わたしを信じて、トラッシュ」

 額に吹き出す玉のような汗を拭おうともせず、秘呪を続けるルナシエーラの言葉に、トラッシュはゆっくり頷いた。

 彼女はオレを信じてくれた。どんなことがあってもついて行く、そう言ってくれた。

 だからオレも信じなきゃいけない。

 シャルが、オレを信じてくれたように。

「……わかった」

 トラッシュの言葉に微笑みで感謝を示すと、ルナシエーラは再びアブダラに視線を戻した。

 手の中の水晶がアブダラの体内の〈暗黒〉の力を探し、手を動かしていく。

 やがて、アブダラの胸の上で止まった水晶から、一筋の眩い光が放たれ、苦痛に呻くアブダラの体を貫いた。

「ぐ……ぁ……あ……!!」

 あまりの苦痛に身を起こしかけるアブダラ。

 トラッシュが慌ててその体を押し戻すと、アブダラはその腕にすがりつくように手を伸ばし、体をのけぞらせた。

 水晶から放たれた光は、アブダラの胸に光の泉を創り出していた。

 直径25㎝ほどの光の泉から、やがて小さな気泡が現れ始める。

 ブクッ、ブクッと間隔を置いて浮いてくるその気泡は真っ黒で、光の表面で弾けるたび異臭が鼻を突く。

 それはアブダラが暗黒の剣を呼び出した時の、あの空間の歪みから漂ってきた邪悪で禍々しい気配と同種の物だった。

「ふ……ぐぅ……ぐぁ……あ……ぁぐ……う……」

 激しく身を震わせ、のけぞらせ、首を打ち振って苦痛に呻くアブダラ。

 そのうめき声を耳にしながら、ルナシエーラは身を切られる思いで一身に水晶に力をそそぎ込んでいた。

 早く……!

 お願い、早く……早くアブダラの体から出ていって……彼をこれ以上苦しめないで……!

 その祈りが通じたのだろうか。

 次第に泉に浮かび上がる気泡の数が増え、その勢いが増してきた。

 まるで沸騰しているかのような勢いで浮かび上がり、弾け、光の泉を波立たせる〈暗黒〉の力。

 それに従ってアブダラの苦痛の声が次第に弱まっていく。

 だが、反比例したようにルナシエーラは荒い息をつき始めた。

 次々に浮かび上がっては弾け、その力を吐き出す〈暗黒〉の気泡に、彼女の光の力が反応しているのだ。

「シャル……!」

 トラッシュは一瞬ためらったものの、おとなしくなったアブダラの体を離し、ルナシエーラの肩を抱きしめた。

「――がんばれ。オレも一緒だからな」

「は……い……」

 息を喘がせながらも頷き、ルナシエーラはさらに力を込める。

 と、その時だった。

 すっかりおとなしく……いや、ぐったりと横たわっていたアブダラが、突然激しくせき込んだ。

「がふっ!!ゲホッゴホッ……」

「ア、アブダラっ!!」

 慌てて、トラッシュは再び彼の体を押さえ込む。

「ぐふっ……あぁっ!!」

 トラッシュの手によって再び仰向けにされたアブダラの口から、彼の叫びとともにドロッとした真っ黒い液体が流れ落ちた。

 それは意志を持っているかのようにズリ、ズリ……と地を這う。

「な……なんだよコレ……!!」

 あまりの薄気味悪さに後ずさろうとしたトラッシュを、ルナシエーラが押しとどめた。

「トラッシュ!それよ!それがアブダラの体に取り付いていた〈暗黒〉の契約の証!早く、早くそれを消滅させて!早く!」

「えっ……で、でもどうやって……」

 トラッシュは慌てて周囲を見回す。

 と、腰に付けていたショート・ソードに手が触れた。

「……」

 ええい、ままよ!

 トラッシュは咄嗟にその剣を鞘から抜き、液体に突き立てる。

 その瞬間、ずぶり、という確かな手応えと共に、液体の震えが伝わってきた。

 やったか!?

 しかし液体は最後の力を振り絞るように、ズルズルッ、と蛇のようにくねりながら、螺旋状に剣の刃を上ってくる。

「う……わ……!!」

「トラッシュ!」

 とルナシエーラが叫んだ。

「すべての命の源よ。白く輝く聖なる光よ!我が手に集いて力となり、闇を封じる鍵と成れ!」

 その瞬間、手の中の水晶が目映い光を発した。

「トラッシュ、この中に剣を!」

 ルナシエーラの言葉にハッと我に返ったトラッシュは、迷うことなく剣を光の中に差し入れた。

 既に液体は塚を上ってトラッシュの拳にまでたどり着こうとしていたのだ。

 迷っているヒマはなかった。

「光に仇成す魔界の力よ……無に還れ!」

 剣が……いや、暗黒の液体が光に触れた瞬間、ジュッという音が響いた。

 やがて液体から暗黒色の煙が立ち上り、それは空に上がって消えていく。

 それでもまだトラッシュの体にとりつこうとくねらせる液体を、トラッシュはとどめとばかりに一気に光に突っ込んだ。

 剣から重みが消えたことを感じたトラッシュは、ゆっくりと光の中から剣を引き抜く。

「……」

 液体は完全に消滅していた。

「ア、アブダラは!?」

 慌てて振り向くと、アブダラは安らかな顔をして横たわっている。

 その首筋に手を当て、確かな脈を感じ取ったトラッシュは、やっと安堵の息をついた。

「トラッシュ……」

 同じように疲れ果てた、という顔をしたルナシエーラが寄り添ってくる。

 横たわるアブダラのそばに腰を下ろし、脚を投げ出しながら、トラッシュは寄り添うルナシエーラの肩を抱き寄せた。

「終わった……な」

 肩に感じる心地よい重み、体に触れる柔らかな肌の感触、暖かな温もり。

 この世で最もかぐわしい、鼻をくすぐる愛しい人の香りを思いっきり吸い込んで、トラッシュは囁く。

「ええ……」

 ルナシエーラもゆっくりと頷いて、トラッシュに身を預けた。

 体を包み込む暖かい温もり、手のひらに感じる確かな鼓動。

 この為に、頑張れた。

 もう一度、この人に会うために。

 この温もりを感じるために。

 この人がいたから、わたしは、強くなった。

 そして、これからも強くいられる。

 この人がそばにいてくれるから。

 怖い物なんて、何もない。

「シャル……?」

 ふと、トラッシュが囁いた。

「ん……?」

 応えて、ルナシエーラがそっと顔を上げる。

 そこには、今まで見たこともないような、熱く切ない光を宿す瞳があった。

「……」

 自然に、瞼が重くなる。

 吐息が、温もりが近づいてくる。

 唇が触れた瞬間、ルナシエーラは一粒だけ、涙を流した。

 これから始まる、幸せを予感して……。

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