第14話
「な……な……」
思わぬ事態にアブダラが呆然としたのと、大きな爆裂音が響きわたったのとは、ほぼ同時だった。
「うわっ!」
爆発の余波で床が大きく揺れ、うねる。
「――!」
咄嗟に、体が動いていた。
一人ソファに座っていて転ぶことを免れたルナシエーラは、俊敏な動作で兵士たちの間をすり抜け、床に転がっていたナイフを取り上げる。
「……!姫を取り押さえろ!」
アブダラはすぐさまルナシエーラの意図を察し、叫んだが、しかしどの兵士も彼同様、床に無様に転がっていてすぐには立ち直れない。
ルナシエーラは急いでリカルドたちのそばに駆け寄ると、彼らを縛っていた縄をそのナイフで切り、叫んだ。
「逃げて!早く、今のうちに!」
「し、しかしシャルは……」
「わたしなら大丈夫、アブダラはわたしを殺せやしないわ。だから早く!早く逃げて、トラッシュのところへ!――そして伝えて。わたしが待ってるって!」
姫の言葉に、老夫婦はすこしの間ためらっていたが、やがて大きく頷いた。
「わかった!決して早まるんじゃないぞシャル!すぐにぼっちゃんを呼んでくるからな!」
そう言って、老夫婦は未だ揺れのおさまらない部屋を抜け、フラつきながら外へ駆けだして行った。
「おのれルナシエーラ……小賢しい真似を……」
「――お黙りなさいアブダラ・マクミール!今こそ思い知るがいいわ、正義に勝る悪などないことを!」
「黙れ!年寄り二人逃がしたところで何が出来る!反乱が何だ!たかが盗賊風情の集まりではないか!」
次第に床のうねりがおさまっていく。
それに応じて体勢を立て直し、何とか立ち上がることに成功したアブダラは、兵士に向かって怒鳴りつけた。
「正規兵はどうした!志願兵など当てにならん、正規兵を鎮圧に向かわせろ!」
「そ、それが……」
こちらもやっと立ち上がることの出来た兵士たちが、おずおずとアブダラに耳打ちする。
「なんだとぉ……?」
アブダラは信じられない出来事に絶句した。
「正規兵が……正規兵が反乱兵側に寝返っているだと……?」
その言葉には、当のアブダラ本人だけでなくルナシエーラも驚いた。
正規兵にかけられた自己暗示は相当強力なものだ。
それは、非道なことと知りながら、彼らがアブダラの言うままに次々と隣国を攻め滅ぼして行っていることでも証明済だ。
そんな彼らの洗脳からの解放を、王家の血筋を絶やすことなく易々とやってのけるとは、一体トラッシュたちはどんなマジックを使ったのだろう。
「おのれ……おのれ……!」
だが、実際に不利な立場に追い込まれているせいか、それとも四十年という人生経験の賜物か、アブダラはルナシエーラよりも早く立ち直った。
「こうなれば……もはや外聞などどうでも良い!私が大臣だから命令を聞かぬと言うなら、いやでも聞かざるを得んようにするまでだ!」
そして彼は、未だ呆然としているルナシエーラの腕をつかんだ。
「あっ!」
「――来い!お前を我が妻としてしまえば、私は真実この国の王だ!私が正式に国王になれば、正規兵とてイヤとは言えまい!」
「やっ……やだっ……放して!だれがあなたの妻になど……放して!」
ルナシエーラはすぐさま正気を取り戻し、渾身の力でその手をふりほどこうともがいたが、アブダラはそんな彼女の抵抗などまるで歯牙にもかけず、強引に礼拝堂へと引きずって行く。
「司祭!司祭はいるか!」
数人の護衛とともに礼拝堂へ駆け込んできたアブダラは、扉を兵士にかためさせて叫んだ。
「……ア、アブダラ様、これは一体なにごとで……」
顔を青ざめさせ、立っているのもやっとなほど足元をフラつかせた老司祭が奥から姿を現す。しかしアブダラはその言葉を最後まで聞かずわめいた。
「婚儀を始めろ!私と姫の婚儀だ!」
「し、しかし……」
司祭は未だもがいているルナシエーラと、いつもの悠然さが見る影もないアブダラの焦りきった顔を見比べる。
「婚儀とは、かような状況下で成されるものではありません。ここはひとまず混乱が静まるのを待って……」
そう言いかけた司祭の頬を、キラリと光るものが掠めて通った。
「……ひっ」
自分の背後に突き刺さったナイフに、司祭は思わずへたりこむ。
アブダラは再びナイフを手にしながら、ギラギラする目で司祭を睨んだ。
「――命が惜しかったら言うとおりにしろ」
「はっ……はい」
司祭は慌てて頷くと、おどおどした目で二人を見つめた。
「えー……でっ、では、ここに、トラキーア国大臣アブダラ・マクミール様と、トラキーア国王家第一王女ルナシエーラ姫様の婚礼の儀を、謹んで執り行いたいと――」
「前置きはいい、さっさと進めろ!指輪の交換だ!」
アブダラは背後の扉の向こう側から響いてくる喧騒を気にしながら怒鳴る。
「はっ、はい」
司祭は慌てて頷いた。
「では、指輪の交換を行います。――アブダラ・マクミール、汝、新婦ルナシエーラ・トラキーアを妻とし、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、死が二人をわかつまで、終生変わらぬ愛を捧げることを誓いますか」
「ああ、誓う」
アブダラのおざなりの誓いに一瞬まゆを潜めたものの、またナイフを投げつけられては大変と、司祭は黙ってルナシエーラに目を移す。
「――ルナシエーラ・トラキーア。汝、新郎アブダラ・マクミールを夫とし、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、死が二人をわかつまで、終生変わらぬ愛を捧げることを誓いますか」
「……」
しかし、ルナシエーラはただじっと黙って俯いているだけだ。
司祭は口調をやや強め、返事を促すように再び問いかけた。
「ルナシエーラ・トラキーア。愛を誓いますか?」
「……よ……」
と、ルナシエーラがボソッと呟いた。
「ん?何ですか?」
司祭が聞き返す。
ポタポタッ、と床に幾粒かの涙がしたたり落ちた。
「姫さ……」
司祭が言葉をかけようとした、その時。
ルナシエーラはガバッと顔を上げ、身を震わせながら叫んだ。
「わたしが愛しているのはトラッシュだけよ!他の誰の妻にもならないわ!」
刹那、まるで彼女の叫びに呼応するかのように、再び大きな爆発音が轟き渡った。
その震動が礼拝堂まで伝わり、祭壇の上に置かれていた指輪が音を立てて転がり落ちる。
「…くそっ……」
またもや体勢を崩しかけたアブダラだったが、先程よりは震動が小さかったせいか辛うじて踏みとどまり、指輪を拾って姫の手を取る。
「……や……いやっ!」
アブダラがその指輪を無理やりはめようとするのに気づいて、ルナシエーラは思いっきり体を突っぱねる。
しかしアブダラはそんな彼女の抵抗などまるで歯牙にもかけぬ様子で左腕を押さえつけ、強引に指を開かせた。
「やだっ……いやっ……いやあっ」
渾身の力を込めたルナシエーラの必死の抵抗のせいでブルブルと震える指に何とか指輪をはめようと躍起になりながら、アブダラは司祭に命じる。
「こ……この指輪さえはめてしまえばお前は私の妻だ。――司祭!よく見ていろ、そして指輪がはめられた瞬間、姫を私の妻と認めるのだ。いいな!」
「わ、わかりました」
どっしりとした祭壇につかまりながら司祭が頷く。
そして、部屋の震動にふらつきながらもアブダラが指輪をはめようとした瞬間。
「……!」
何を思ったのか、ルナシエーラは不意に突っぱねていた力を逆方向に向け、自分から体をアブダラの方へ突っ込んで行った。
「なにっ……うわっ!」
咄嗟の出来事にアブダラはよろめき、後ろに倒れ込む。
当然、手をつかまれたままのルナシエーラもそれにつられて前に引き倒されたが、彼女は即座に呪文を呟いていた。
「……すべての命の源よ。白く輝く優しき光よ。汝が正義の力、我が手に集い来て、闇を貫く剣と成れ!」
にわかに彼女の体を金色の光が包み込んだ。そしてその光は見る間に凝縮し、彼女の右の掌で密度の高い光球になる。
「っ……!」
と思うと、それは突如大きく姿を変えて光り輝く剣と化し、ルナシエーラはそれを思いっきりアブダラに振り下ろした。
「!」
アブダラは咄嗟に自分にのしかかるルナシエーラの腹を蹴り上げた。
「きゃあっ!」
たまらず数メートルも後ろへ吹っ飛ばされ、礼拝堂の椅子に強く叩きつけられるルナシエーラ。
「うっ……」
痛みと衝撃で一瞬気の遠のきかけた彼女だったが、扉を固めていた兵士たちがバラバラッと駆け寄ってくるのを感じると辛うじて立ち上がり、再び剣を構える。
アブダラがゆっくりと立ち上がりながら言った。
「……無駄な抵抗は止せ。ナイフも満足に扱えぬお前に、魔法の力を借りているとは言え、そのような剣が使いこなせるものか」
しかし、ルナシエーラはジリジリとにじり寄る兵士たちを威嚇するように剣を左右に大きく振り回しながら、気丈に言い返した。
「使いこなせなくても身を守るぐらいは出来ます。……近寄らないで!満足に扱えないからこそ、手加減は出来ません!」
その迫力に圧されたのか、兵士たちの動きがピタリと止まる。
「……」
顔色を伺うようにアブダラを見返した兵士たちだったが、彼がクイッと首をかしげると、頷いて数歩後退した。
――もう少し。もう少し頑張れば、きっとトラッシュが助けにきてくれる。早く来て、トラッシュ……!
ドォーン、ドォーンという花火のような低い地響きと大勢の人間の叫び声を聞きながら、ルナシエーラは心の中で繰り返す。
しかしアブダラは彼女の胸の内の不安を見透かすように軽く笑った。
「……一体いつまでそうしているつもりだ?あの盗賊がどう頑張ったところで、この礼拝堂まではそうそう簡単にはたどり着けんぞ」
諭すようにゆっくりと、脅すように低い口調で言いながら、アブダラは一歩一歩近づいてくる。
それに応じて少しずつ後退しながら、ルナシエーラは首を振った。
「いいえ……いいえ、トラッシュは必ず助けに来てくれます。正規兵が味方についた以上、日頃まともな訓練もしていない直属兵に彼らをくい止められるものですか」
「しかし現に奴らの声は一向に近づいて来ないではないか。いくらお前があがいたところで事態は変わらん。所詮、反乱兵の奴らなど巨象に噛みつく小さな蟻のようなものだ」
「たとえ小さな蟻でも大勢集まり、ともに手を取れば巨大な力になります。それが証拠に、あなたの差し向けた志願兵や親衛隊を彼らは見事に退けたではありませんか」
「……フン、奴らは逃げ出しただけだ、真っ向から挑んだわけではない。いくら大きな力が相手でも、逃げるだけなら悪運に救われることもある」
アブダラは、心の中の不安を振り払おうと躍起になっているルナシエーラの言葉を、あっさりと否定した。
いかに反乱兵が強かろうと、城内の正規兵すべてが反乱兵側に寝返ろうと、彼にはまだ強力な切り札があるのだ。
そう、何といっても反乱兵の目指す姫はまだここにいるのだから。
ヒュンッ。
「…きゃっ!……」
何かが空を切る鋭い音を聞いたのと、ルナシエーラがはっと振り向くのとはほぼ同時だった。
「……!」
真正面から正確に飛んでくる黒い何かを認識する間もなく、ルナシエーラは咄嗟に剣を振り上げる。
だが、その黒い物体は彼女のそんな行動を待ち構えていたかのように剣に絡みつき、驚いて唖然とする彼女の腕から剣をもぎ取った。
「…あっ……!?」
彼女の手から離れた瞬間、実体化するための媒体を持っていなかった光の剣は、エネルギーの供給源を失って消え失せる。
黒い物体――丈夫な皮で編まれた鞭を手にした兵士を呆然と見つめると、ルナシエーラはからくり人形のようにぎこちなく視線をアブダラに戻した。
「どうやら執行台への階段はここで十三段目(おわり)のようだな、ルナシエーラ姫」
さきほどまでの焦りまくっていた表情など見る影もなく不敵な笑みを浮かべながら、アブダラは言い放つ。そして兵士に目配せし、命じた。
「取り押さえろ」
「やっ……いやっ……いやあっ!」
一人の兵士に背後から首を、もう一人に右腕を押さえられたルナシエーラは、床に膝をつき、残りの兵士に押さえられた左腕をむりやりアブダラに突き出される。
拒絶と恐怖と、そして実際に体を走り抜ける鋭い痛みに涙を浮かべながらもがくルナシエーラを嬉しそうに見つめながら、アブダラはゆっくりと指輪を取り出した。
まるで手術用のメスのように、冷たく鈍い光を放つその指輪が、左手の薬指に微かに触れた瞬間。
ルナシエーラはかたく目を閉じ、叫んだ。
「いやあ――っ!!」
と、その時だった。
「そこまでだ、アブダラ!」
まるでその声に応えるかのように絶妙なタイミングで礼拝堂の扉が荒々しく開け放たれ、かすかに肩を上下させながらトラッシュが飛び込んできた。
「なにっ!?」
これで今日何度目かの驚きの声をあげると、アブダラは振り返る。
そして硬直した。
「お、お前は……」
「トラッシュ!?」
この二週間というもの、夢の中でしか聞くことの出来なかった愛しい人の懐かしい声に、ルナシエーラもまた、みしみしと音を立てる骨の痛みも抵抗することも忘れて、扉のほうを見やる。
そして彼女も硬直した。
「トラ……ッシュ……?」
先に声をあげたのは、ルナシエーラであった。
初めて目にするトラッシュの鎧姿……特に家紋の描かれた胸あてに視線を釘付けにしながらルナシエーラは呟く。
「ほんとうに……トラッシュ……なの……?」
彼女が驚くのも無理はなかった。
だが、それはトラッシュが鎧をまとっていたせいではない。いや、多分それも少しはあっただろう。何しろ、今の今まで彼女はトラッシュが鎧を持っていたことなど少しも知らなかったのだ。
しかし、今ルナシエーラを……そしてアブダラをも驚かせ、金縛りにしているのは、その鎧姿の為ではなかった。
「き……さま、貴様……」
アブダラは震える手でトラッシュの鎧の紋章を指しながら呟く。
「……馬鹿な!」
ルナシエーラも改めて信じられない想いでその紋章を見つめた。
「それは……それは王家の紋章ではないか……!!」
そう、今トラッシュが身にまとっている鎧に描かれたその紋章――それは紛れもなく王家の……それも、アブダラがこのトラキーア王家を乗っ取ってます初めに滅ぼした隣国、森と湖の国ウィスタリア王家の紋章であったのだ!
驚く二人に応えるように、トラッシュはこの二、三日ずっと密かに練習していた台詞を言い放った。
「――我こそは、ウィスタリア十二世アルバータ・ヴァン・セイウスが忘れ形見、アルセイス・ヴァン・トーランド!お前に殺された我が父、母、そして今も苦しめられるウィスタリアの民たちのため……いや、何より我が最愛のルナシエーラ姫を救い出すため、大臣アブダラ・マクミール、お前の首、もらい受ける!」
「トラッシュ……え……王…子……?」
紺色のつなぎの服に純白の鎧をまとい、豊かに波うつ漆黒の髪を風になびかせた彼の姿はまさに〈白馬の王子様(プリンス・チャーミング)〉そのものだった。
夢を見ているようなボウッとした表情で呟くルナシエーラに微笑みかけると、トラッシュ……いや、王子は優しく頷く。
「今まで黙ってて悪かったな、シャル。騙すつもりはなかったんだけどよ、言う必要もないと思ったから……それに、今までどおり、トラッシュって呼んでくれていいぜ。オレにとっては、こっちの〈王子〉ってのが仮の姿なんだから」
そう言ってトラッシュは一つウインクし、ふと真剣な――泣きたくなるような優しい表情を浮かべた。
「――よく…頑張ったな」
「トラッシュ……」
「フ……ハハ、ハハハ……!」
と突然、何を思ったのかアブダラが可笑しそうに笑い声をあげた。
「?何がおかしい?気でも触れたか?」
「何を言う、正気でないのは貴様の方だろう。……ウィスタリアの王子だと?フン、既に我がトラキーアに敗北している王家の人間などに何が出来る。第一、姫はまだこちらの手の内だ」
「トラッシュ、わたしのことなら――」
身を乗り出して言いかけたルナシエーラを片手で制し、トラッシュは言う。
「もう二度とお前を犠牲にするつもりはねえ。あんな思いは一度でたくさんだ」
「トラッシュ……」
「大丈夫さ、ウィスタリアが敗北したのはアブダラにじゃない。このトラキーアに古くから仕える忠実な兵士たちにだ。そしてその兵士たちも今はアブダラの敵。勝ち目がねぇのはあんたのほうだぜ、アブダラ」
「ぬっ……」
姫を盾に脅しても一向に怯む様子のないトラッシュに、アブダラはたじろぐ。
「ひっ、姫はこちらの手の内にあるのだぞ。いくら貴様が風の如く疾かろうと、三人もの兵に押さえつけられた姫をどう救い出すつもりだ。手品でも使うか?」
「さあて、そうだなあ……」
トラッシュはわざと考え込むように頭を傾げ、ふとルナシエーラを見つめる。
「指輪でも使うかな」
「ゆ……指輪だと?」
アブダラは一瞬呆気に取られたものの、次の瞬間には吹き出していた。
「ハッハハハ……何を言うかと思ったら指輪だと?剣でも短刀でもなくただの指輪?ハハハ……これはいいことを聞かせてもらった。指輪如きで兵士を倒せるなどと、このような馬鹿げた話、聞いたことがないわ」
「……誰が倒すって言ったよ」
アブダラと兵士たちが笑い転げるのを見ながら、トラッシュは意味ありげに言う。
ルナシエーラがハッとトラッシュを見返すのに応えて微かに頷き返しながら、トラッシュはぽそっと呟いた。
「第一、指輪はオレが使うんじゃねぇよ」
「なに?」
その言葉を聞きとがめて、アブダラはぴたっと笑いを止める。
しかし彼がハッとした表情でルナシエーラのほうを向いた時には既に、彼女は口の中で呪文を永唱していた。
「……すべての命の源よ。白く輝く優しき光よ。秘石(いし)に宿りて聖珠と成れ!」
刹那、ルナシエーラの右薬指にはめられていたマジック・リングが眩い閃光を発した。「ぐわっ!」
突然の出来事に兵士は目を覆う。
それは、この薄暗い礼拝堂を一瞬純白の闇にしてしまうほど強烈な光の放射で、予め目を閉じていたトラッシュでさえ正常な視力を回復するのに数秒かかったほどである。
当然、至近距離でまともにその光を浴びた兵士たちはたまったものではない。
「目が……目が……」
「痛い……目が焼ける……!」
瞬時にして視力のすべてを奪われてしまった兵士たちは、哀れっぽく呻きながらヨロヨロとあとずさる。
それを見計らって、その頃にはすっかり視力を取り戻していたトラッシュが、懐から取り出した細い針を正確に兵士たちの体に打ち込んだ。
「……!」
兵士たちは声もなくくずおれる。
「トラッシュ!」
ありったけの想いをぶつけるかのように飛び込んできたルナシエーラをしっかりと抱きとめ、トラッシュは今の状況などまるで忘れて彼女を力いっぱい抱きしめた。
「シャル……シャル……!」
「けほっ。……く、くるし……トラッシュ……痛い……」
あまりの力に思わず顔をしかめるルナシエーラ。
しかしトラッシュは彼女を抱く腕に更に力をこめ、涙のうっすら浮かぶその顔を彼女の首筋に押しつけて呟いた。
「うるさい、黙ってオレを置いてったりした罰だ。――ずっと、ずっと夢に見ていたんだ。もう一度お前をこの腕に抱く夢を……!」
「トラッシュ……」
微かに震える彼の声に、ルナシエーラは思わず目を閉じた。彼を苦しめてしまったことへの良心の呵責と、それほど強く求められていることへの喜びがごちゃまぜになって胸を圧迫する。
トラッシュはそのまま暫く彼女を抱きしめていたが、やがてゆっくり腕をほどくとアブダラに向き直り、言った。
「――さあ、次はどうする?」
「ぬ……ぐ……」
アブダラは横目でチラッと倒れている兵士を見やり、歯ぎしりをする。
彼自身は反射的に目を閉じたおかげで視神経を焼き切られるようなことはなかったが、礼拝堂にいた他の兵士たちはすべて床に無様に転がっており、どう考えても使えそうにはなかった。
その思考を読み取ったのか、トラッシュが笑う。
「そうそう、そいつらはもう使えねーぜ。〈光の聖珠(ホワイト・オーブ)〉で奪われた視力は、少なくとも二、三日しねーと回復できねぇからな」
「おのれ……役に立たん兵士どもめ」
吐き捨てるようにそう言うと、アブダラは向き直る。
「もう二度と剣など持たぬつもりであったが……止むを得んな」
「なに?」
トラッシュが聞き返した瞬間、アブダラは右手を空に大きく振りかざして叫んだ。
「剣(けん)よ!封印の闇に埋もれし破壊の剣(つるぎ)よ!血と肉の契約に従い、我ここに汝が戒め解き放たん。汝が主、闇よりもなお暗き暗黒の力、遠き時空の彼方より今こそ我が手に集い来て、すべてを滅ぼす刃と成れ!」
刹那、礼拝堂の天井が歪んだ。
「な……なんだ?」
トラッシュが戸惑ったようにそう言うと、ルナシエーラが青い顔をしながら呟く。
「ひ、歪みよ。禍々しい力が集まってきたせいで、空間に歪みが出来ているんだわ」
「おい、大丈夫か?顔色が真っ青だぜ」
「気分が……悪いの。ここに集まっている力は禍々しくて汚らわしい〈暗黒〉の力。魔道士の使う〈闇〉や〈幻〉とは違う――わたしの〈光〉の力とは正反対の力だから……。苦しい。頭が……頭が割れそう……!」
「シャル、おい、シャル!」
頭を抱えて座り込んでしまったルナシエーラを、トラッシュが慌てて抱きかかえた時だ。
バシィィッ。
空気が激しく弾けるような鋭い音が鳴り響いて、天井の歪みから強烈な電撃がアブダラの右手に向けて迸った。
「うわっ!」
その衝撃にトラッシュは思わず目を閉じる。
「きゃあっ!」
ルナシエーラは、身体中を毛虫にはい回られているような、全身を蜂に刺されるようなおぞましく鋭い痛みに悲鳴をあげた。
「シャル!」
その声に、トラッシュがぱっと目を開く。
ルナシエーラはトラッシュの胸にすがりつき、ガタガタと身体を大きく震わせ始めた。「…うっ……」
今度は、トラッシュにもその気配が感じられた。
邪悪で禍々しく、目に見えないオーラがまるで異臭のように鼻をつくイヤな気配。
トラッシュでさえそれが感じ取れるのだ、人一倍〈邪悪〉な気配に敏感な〈光〉の属性を持つルナシエーラには、恐らくそれは想像以上におぞましい気配なのだろう。
トラッシュは他にしてやれることも思いつけぬまま、ただギュッとその肩を抱いてやりながら、静かに顔を上げた。
その視線の先には、フードのついた黒く長いマントの下に漆黒の鎧をまとい、髑髏を象った塚から吹き出す暗黒の霧が刃の姿を成している、明らかにこの世の物ではない邪悪な剣を振りかざしたアブダラが仁王立ちになっていた。
「アブダラぁ……」
トラッシュは怒りを含んだ声で言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
しかし、ルナシエーラを庇うように前に立ち、剣を構えるトラッシュに、アブダラは妙に落ちついた、静かな声で言った。
「待て、ここでは満足に戦えんだろう。場所を変えんか」
「なに?」
訝しげに聞き返すトラッシュに、アブダラはついっ、と顎をしゃくって見せる。
「ここは狭い。椅子や段差がある上に、先程お前たちの起こした爆発のおかげで窓ガラスの破片や壁土があちこち散らばってこのザマだ。どうせなら何の障害物もない広い場所の方がお前も戦いやすいだろう」
「ふ……む」
トラッシュは暫く考え込んだ。
もちろん、一度として正攻法で彼らを攻めようとはしなかった大臣のことである。今度も恐らく何かしら策を講じているに違いないことは、彼自身よくわかっていた。第一、邪悪な気配を漂わす魔剣を持っているとは言え、大臣という役職についていた、言うなれば頭脳労働専門だった男が、トラッシュのような肉体労働を専門にしてきた人間と互角に戦えるわけがない。
しかし、こんな足場の悪い場所では、いくらトラッシュの身が軽かろうと戦いにくいのは確かで、第一、魔剣の気配に苦しむルナシエーラのことを思うと、一刻も早く彼女からあの剣を遠ざけたいのも事実だった。
トラッシュは頷く。
「オーケー、場所を変えよう。……あの西の塔の屋上はどうだ?あそこが広くていい場所なのは、オレも知ってる」
何を企んでいるにせよ、西の塔の屋上なら少なくとも志願兵が突然大挙して押しかけることは出来ないだろう。屋上までの階段は男なら一人通るのがやっとの狭さだ。それに、この礼拝堂へ来る前に西の塔へ行っていたトラッシュは、ここから西の塔までには一人の志願兵もいなかったことを確認していた。
「いいだろう。西の塔だな」
そう言って、アブダラは扉に向かって歩きだす。
彼が自分たちのすぐ脇を通る瞬間、トラッシュはルナシエーラを庇って身構えたが、アブダラは何事もなくスッと通り過ぎた。
トラッシュがホッとした瞬間、アブダラが言う。
「……言っておくが、姫をここに残して行こうなどと思っているのなら、それは止めた方がいい。恐らくお前は姫を救いたい一心で反乱兵たちとは別行動を取ったのだろうが、ここは未だ反乱兵たちからは遠く離れている。ここへ姫を残して行けば、間違いなく姫は志願兵の手に落ちるぞ。――志願兵たちが私の目の届かんところで姫に何をするか、お前たちの方がよほどわかっている筈だ」
「あっ……」
アブダラに指摘されて、トラッシュは思わず黙り込んだ。確かに、アブダラの言う通りである。
彼ら志願兵たちに忠誠心などない。ルナシエーラの身に今まで何事も起こらなかったのは、一重にアブダラの威光……と言うより、アブダラの払う報酬の威光の賜物である。しかし、その報酬の出資者であるアブダラの立場が悪くなった以上、その威光も、もはや殆ど効力のないものであるのに間違いはなく、とすれば、今ルナシエーラを自分の手元から離せば、彼女の身の危険は今より一層高まるというものであろう。
トラッシュはそれでもこのまま彼女の苦しみを長続きさせるのが躊躇われて、彼女自身の意志に任せようとルナシエーラを見た。
「……」
答えを聞かずとも、その意志は明らかであった。
ルナシエーラはその目に強い光を宿し、両手を胸の前でギュッと握りしめて頷く。
「わたしも一緒に行くわ……トラッシュ」
「でも、あいつの剣……」
「大丈夫、少し慣れてきたみたいだから。お願い、わたしも一緒に行かせてトラッシュ。わたし、エイダからあなたがここへ来ようとしているって聞かされた時に決心したの。あなたがわたしの為に危険を犯そうとしてくれるのなら、わたしはきっとそれを見届けようって。どんなことになっても……たとえ、あなたが傷つき、苦しんでも、もう逃げたりしないって。わたし……わたし、あなたを信じてる。信じてるから――だから、あなたのすることに絶対ついていく」
「シャル……」
トラッシュは訴えかけるようなその瞳を真摯な表情で受け止めると、ゆっくり頷く。
「わかった。一緒に行こう。折角また会えたんだ、今さら離れることはねぇよな」
「トラッシュ……ありがとう」
ルナシエーラはほっとしたように頷くと、まだ若干、顔を歪めながら立ち上がる。
よろよろと、今にも倒れそうな彼女の身体を支えるように、その身体に腕を回すと、トラッシュは先に立ったアブダラの後について西の塔へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます