第13話
それから、数日の時が流れた。
「……」
あの日、城に連れ戻されて以来、二週間と幾日振りに西の塔から連れ出されたルナシエーラは、二十畳ほどの広さの部屋に入れられ、明るい陽光(ひかり)の差し込む出窓の前に立ちながら、誰に話しかけるでもなく、ただ静かに窓の外に広がる美しい青空を眺めていた。
時折舞い込む爽やかな風が、いつだったかトラッシュがそうしたように、優しく彼女の髪をなで、からかうようにヴェールを弄んでいる。
「……」
ガランとした部屋の中に佇みながら、ルナシエーラはただじっと悲しげなその瞳を城の外へと投げていた。
リンゴォーン……リンゴォーン……
トラキーアの澄み渡った美しい青空に、低く荘厳な鐘の音がゆったりと響き、流れていく。
「……あと一時間」
そんな鐘の音を沈み込むような気持ちで聞きながら、ルナシエーラは深く大きなため息をついた。
「あと一時間もすれば、わたしは……」
涙があふれそうになるのを必死に堪えながら、彼女はその瞳を自分の体に向ける。
――彼女は今、純白のウエディング・ドレスに身を包んでいた。
体にうすい膜のようにはりつくシルクの身頃には金糸や銀糸の見事な刺繍がほどこされ、手首やスカートの裾、襟元からのぞくフリルは幾重にもレースがふんだんに使われて、彼女の透き通るような白い肌を清純に彩っている。
その艶やかな長い黒髪は、一分の乱れもないほどきっちりと一房の三つ編みに結い上げられてカチューシャのように頭にまわされ、ヴェールの先についた小さな造花からのびるシルクのリボンが、それにクルクルと絡ませてあって、両方のこめかみ部分にはユリとかすみ草の大きなコサージュがつけられていた。
額にかけられたサークレットはピアスとネックレスとワンセットで作らせた物で、真珠がいくつも連なったサークレットには真ん中の眉間にかかる部分に、しずく型の真珠が下がるピアスには耳たぶのところに数十個の小さなダイアモンドに囲まれて、同じく数十個の真珠が使われた二連のネックレスには、その二本を中央で繋ぐ金の十字架のクロス部分にそれぞれ見事にカッティングされた真っ青なサファイアが使われて、華奢な彼女の体をより一層可憐に見せている。
リンゴォーン……リンゴォーン……
再び、婚儀のはじまりが近づいていることを知らせる鐘が静まり返った部屋に響きわたる。
朝早くに湯浴みを済ませ、仄かに花の香りの立ちのぼるその体を小刻みに震わせながら、ルナシエーラはこらえきれずに瞳を閉じた。
「このままじゃ……このままじゃトラキーアはアブダラの物になってしまう。早く……早く来て、トラッシュ……!」
ルナシエーラは、トラッシュがこの城へ乗り込もうとしていることをほんの数時間前にエイダから知らされたばかりだった。
このことを城に戻った直後に聞かされていたら、彼女はきっと烈火のごとくエイダを責めただろう。
しかしこの二週間、トラッシュのそばにいられないという辛さをいやというほど味わってきた彼女には、もうきれいごとで自分を誤魔化せるような気力は残されていなかった。
そばにいたい。たとえ、その為に他の誰かが犠牲になろうと、塗炭の苦しみを味わうことになろうと構わない。鬼と呼ばれてもいい。悪魔と蔑まれても。それでも、それでもわたしはあの人のそばにいたい。
そんな苛烈な感情が、今の彼女の心を占めていた。
「……」
固く握りしめたてのひらを開き、ルナシエーラはそのピアスを見つめる。
それだけで、心がスーッと穏やかになっていくのがわかった。
目を閉じると、すぐそばにトラッシュの気配が感じられた。
「トラッシュ……」
まるで彼女を包み込むようなその温かい気配に、ルナシエーラは彼に抱かれているような錯覚を覚えながら大きな吐息をついた。
と、その時だった。
「……おぉ、いつもながらに美しいな姫よ」
バタン、とドアの大きく開く音が聞こえ、アブダラが数人の兵士や侍女を伴って部屋に入ってきた。
ルナシエーラはサッとピアスをにぎりしめ、何事もなかったかのように冷たい視線をアブダラに向ける。
しかしアブダラはそんな彼女の表情にはまるで構わず、部屋の中ほどにしつらえられた大きなソファにゆったりと腰をおろすと、侍女の差し出した冷えたシャンパンを受け取り、悠然とすすり始めた。
「……一体なんのご用ですか」
抑揚のない声でルナシエーラが尋ねると、アブダラは笑う。
「おいおい、わたしはお前の夫となる男だ、未来の妻の様子を見にきて何がおかしい?
それにしても、お前は私の想像を遙かに越える美しい花嫁になったな。そのドレス、この日の為にあつらえたかのようにぴったりではないか。まるでありし日のタニアを見ているようだよ」
スッと立ち上がり、アブダラは姫に近づく。
そして彼は、本能的に身を避けようとしたルナシエーラの首を有無を言わせぬ強さでつかまえると、自分の胸にしっかりと抱き寄せた。
「……やっ…」
必死で両腕に力をこめ、自分を突っぱねようとするルナシエーラに軽く笑うと、アブダラは彼女の顎をつかみ、その口許で囁く。
「そうして抗っている様子はまるで子兎のようだな。――こんなにも華奢な体。ちょっと力をこめれば、簡単に折れてしまいそうな細い首。……こんなに弱々しい女という生き物に次代を産みだす力があるとは、まったくもって自然とは不思議なものだ」
「やだっ……放してっ!」
「そんなに嫌がることはあるまい?見かけはどうあれ、私もあの盗賊と同じ〈男〉だ。大方あの男には喜んでその身を投げ出したのだろう?」
「ばっ……」
一瞬、ルナシエーラは抵抗をやめた。
その顔を屈辱で真っ赤にしながら、彼女はアブダラを睨みつける。
「馬鹿にしないで!彼はあなたとは違います、比べることすらできないほどに!第一、わたしはあの人を愛しているのよ。だから……わたしに触れる権利はすべて彼のものよ」
「フン。ならば私はその権利を力で奪い取って見せよう。他人の権利を奪い、その力をねじ伏せることで私の権力はさらに大きなものとなる。……それにしても、女とは実に不可解な生き物だ。こんなにも儚い見かけをしているというのに、ほんの砂粒ほどしかない可能性にしがみつき、周囲の現実を否定しようとする。一体、その強さはどこから来るのだろうな」
アブダラの手がすっと顎を離れ、そのまま首筋をすべり、ゆっくりと臆面もなくルナシエーラの胸を撫でおりて腰をつかむ。
服の下に隠れた意外に逞しい体に更に強く抱き寄せられ、首をつかんでいた大きな手が背中にまわされて、ルナシエーラは身動き一つとれなくなってしまった。
「あっ!?……」
と突然、ルナシエーラの体が糸の切れた操り人形のようにフッと軽くなり、彼女はまるっきり抵抗を止めてしまった。
その顔が戸惑ったようにアブダラの顔を見上げる。
ルナシエーラの不思議そうな、潤んだように美しく輝く黒い瞳と、抵抗をやめてしまった行動に幾らか当惑したものの、アブダラは背中に回していた手を、彼女の小さな顔を包み込むように頬に当て、親指でそっと目の下を愛撫しながら独り言のように呟いた。
「……私の知っているお前は、両親を失い、毎夜その悪夢に怯える無力な少女だった。それが一人の男を愛しただけで、私に毅然と言い返すほどの強さを身につけるとは。……女は魔物だ。その顔にどんなに儚い笑みを浮かべていようと、心の中には、みな強く激しい炎を燃やしている……」
「……」
ルナシエーラは一声も出さなかった。いや、出せなかった。
彼の言葉に気押されたわけでも、抵抗を諦めたわけでもない。
ただ、強く彼に抱き寄せられたあの瞬間、咄嗟に彼を押し返そうとした彼女の意識は、ほんの僅かな……おそらく彼自身でさえ気づいてはいないのであろう優しい、彼女をいたわるかのような優しい仕種を感じ取ったのだ。
考えて見れば、ここまで彼に近寄ったのは初めてのことで、もしかしたら彼はいつもこんな風だったのかも知れない。
ルナシエーラは、嫌がる者を力で従わせようとする彼の傲慢さの影に、どこかしら弱さの滲み出た暗い何かが潜んでいるのを肌で感じ取っていた。
と、その時、部屋の隅で成り行きを見守っていたエイダが口を開いた。
「……それはタニア様のことでございますか?」
「……えっ」
我に返ったようにルナシエーラは何とか首だけエイダのほうを振り向く。
エイダは組んだ両手を胸にあてながら、いつもアブダラを見る厳しい顔ではなく優しく哀しい……不思議な表情を浮かべて彼を見つめていた。
「やっぱり……あなたはまだあの方のことを――」
「だ……黙れ!」
すると、どうしたことかアブダラは急にうろたえたように顔をエイダに向け、彼女の言葉を封じるように怒鳴りつける。
「貴様に何がわかる!……そんな、そんな同情を含んだ目で私を見るな!」
「どういう……こと?お母さまとアブダラが何の……」
「うるさい!お前には関係ない!」
アブダラはさっきまでの彼とはまるで別人のように荒々しく彼女を突き飛ばす。
「きゃっ」
ルナシエーラはそのまま勢い良く床に叩きつけられたが、慌てて駆け寄ってきたエイダの腕をつかむと真っ直ぐ彼女を見据えた。
「教えてエイダ。一体どういうことなの?やっぱりって?あなた何か知っていることがあるの!?」
「姫様……」
「やめろ!」
アブダラは普段の彼からは想像もできないような形相で怒鳴る。
しかしルナシエーラは続けた。
「教えてエイダ、お願い。お母さまに関係していることなら、娘のわたしにだって聞く権利はある筈よ」
「わ……わたしは――わたしの口からは申せませんわ、姫様」
「エイダ!」
「そうだ、余計なことは口にするな。可愛い孫を殺されたくなければな」
「アブダラ!?」
ルナシエーラはアブダラの言葉に驚く。
「どうして?どうして教えてくれないの?どうしてそんなに隠そうとするの?エイダを脅迫してまで……あなた方ふたりは、一体何を知っているの?」
「うるさい!」
「姫様」
エイダは落ちついた声でルナシエーラに言う。
「やっぱり、これはわたくしの口からは申せません。いえ、脅されたからではございませんわ。ただ……これは、これだけは彼自身の口からでなければならないのです。当事者であるアブダラ・マクミールその人からでないと。恐らく……いいえ、間違いなく、このことがあの方をこんなにも変えてしまった本当の理由なのです」
「黙れ!黙らんと本当に――」
アブダラは真っ赤な顔で怒鳴りつけ、そばにいた兵士の剣をとりあげると向かってくる。
しかしルナシエーラはそんな彼を睨み付け、一喝した。
「あなたこそお黙りなさい!」
それは、当のアブダラ本人のみならず、そこにいたすべての人間を金縛りにしてしまうほど強い口調だった。
彼女の中に流れる王家の血が無意識にそうさせたのか、誰に教わったわけでもないのに今の彼女はそこにいるだけで自然と人々を額ずかせ、従わせていた前国王ラフマーンそのままの威厳を漂わせていた。
「――教えてエイダ。変わってしまったって何?あの人を……アブダラのことをあなたは昔から知っているの?」
「彼は……昔のアブダラ様は今のように残忍な方ではありませんでした。国王様がお認めになったアブダラ様は優しく、誠実で誰からも慕われる本当に素晴らしい兵士でした」
「兵士?あなたは最初から大臣として登用されたわけではないの?」
驚いたようにルナシエーラが振り向く。
「ぐっ……」
アブダラは未だ真っ赤な顔をしながら立ちすくんでいたが、やがてとうとう諦めたのか、疲れたように肩を落とすと、ふっと呟いた。
「……ああ。そうだ、私は兵士だった。いや、まだ前がある。最初、私がこの城に入ったのは野菜を城の台所に納める商人の下働きとしてだった。その仕事の一つとして騎兵隊の馬にえさを届けていた私は、やがて馬の扱いを認められ馬屋番となり、その馬に乗る騎士に気に入られて見習い兵士となった。そして私はそれこそ身を削るような激しく辛い精進をし、数年後やっと正規兵として城に仕えることを許されたのだ――」
アブダラは疲れたように言い、手に持った剣を見る。
「今にして思えば、奇跡か神のいたずらとしか思えんよ。私が……私のような男が兵士として城に仕えるようになるとは」
「アブダラ様は本当に優しいお方でした。兵士として登用されてからも暇さえあれば下働きの者を手伝い、重い荷を運び、住み込みの者の子供達と遊んで下さって――そんなアブダラ様に憧れない娘たちはおりませんでした」
「……」
エイダの言葉に、ルナシエーラは信じられない面持ちでアブダラを見つめる。
それは普段の彼の姿からはおよそ想像のつかない話であった。
「けれど、アブダラ様は決してどの娘とも打ち解けようとはなさいませんでした。アブダラ様になら、たとえ戯れでもいい、その微笑みをほんの束の間でも自分に向けてほしいと思っている娘たちは大勢いましたのに……。そんなある頃でございました。アブダラ様には想い人がいらっしゃる。そんな噂がたったのは――」
エイダの口調から、ルナシエーラは察するものがあった。
「それが、タニアお母さまだったのね……?」
真っ直ぐ自分を見つめるルナシエーラの瞳に、アブダラは観念したのか至極あっさりと頷いた。
「ああ、そうだ。――そこまで聞きたいなら教えてやろう。しかし、これだけは言っておく。聞きたがったのはお前だ。知りたいと望んだのはお前なのだ。結果お前の母に対するイメージがどうなっても私は知らんぞ」
そう言って、アブダラは話し始めた。
とおい、遠い昔の話(こと)を――。
「私の生まれた国は貧しくすさんだ国だった。これと言って特産があるわけでもなく、涸れた大地には砂粒ほどの鉱脈も資源も眠ってはいなかった。そんな大地に生きることを余儀なくされた民たちは絶えず飢えに苦しみ、貧困に喘き……そんな毎日の暮らしに疲れ果てた人々は、必然的によりよい暮らしを求め、金と権力に憧れて、初めは幸福を望むささやかな願望でしかなかったものを、どんどん果てしなく肥大させて行った――」
アブダラは遙か遠い彼方にある故郷を想うように視線を彷徨わせる。
「やがて欲望という名の醜い魔物にとりつかれた人々は互いに争うようになり、国は更にすさみ貧しくなって行った。そしてそうなればなるほど人々の争いはエスカレートし、その結果大地はますます荒れ果て、国は貧しくなり……こんなことの繰り返しが、あの国ではもう何十年――いや、既に百年近くは続いていた……」
「ひどい……」
ルナシエーラはその国に住む人々のことを思って我知らずそう呟く。
今のトラキーアは人々の心はすさみ、強盗や人買いなど物騒な輩が横行してはいても、それでもまだ豊かな大地の恵みがあった。人々の心の中には、ほんの僅かでも明日を信じる希望の光が瞬いていた。
そんなトラキーアの状況でさえ心を傷めているルナシエーラである。
彼女は思わず彼に同情を含んだ視線を投げ、しかしハッと体を強張らせた。
「……」
今の彼は同情など望んではいなかった。
それは、まるで何の苦労も――生きるという本当の意味での苦労を知らずに育ってきたルナシエーラには何もわかるまい、そんな風に言っているかのように冷たく近寄りがたい刺のような視線で、ルナシエーラは喉元まで出かかっていた言葉を無理やり飲み下した。
アブダラは続ける。
「そんな中で、私は生まれた。絶えず内乱が続き、平穏な日など一日も訪れることのない国だったから、街中には浮浪者や孤児たちがウジ虫のようにそこら中にあふれていた。そして私は、そんな連中の一人だった――」
その目がふっと陰った。
おそらく彼にとって一番触れたくない、それは忌まわしき記憶なのだろう。
しかしアブダラはそんな自分を嘲るように笑い、首を振る。
「生きる為にはどんな罪(こと)も犯(や)った。強盗、ゆすり、たかり、スリ……良心の呵責などこれぽっちも感じなかった。いや、自分のしていることを省みる余裕さえ、その頃の私にはなかったのだ。その日一日を……一瞬一瞬を何とか生き延びよう、それだけが、あの頃の私の行動のすべてを支えていた。親の顔も生い立ちも知らず、人の温もりすら感じられず、そんなものがあることさえ知り得なかった私は、人を殺める以外のすべての罪を犯して来た。いや、殺人だとて例外ではない。あの頃私がその一線を踏み越えなかったのは、良心が咎めたせいなどというロマンティックなものではなかった。そう、それはただ単に人を殺めるだけの事件が私の周りで起こらなかっただけなのだ。強盗に入った家の人間が抵抗していたら、自分もゆすりやたかりを受けていたら、私は恐らく何のためらいもなく相手の人間を殺していただろう。それが女であっても子供であっても、私にとって周囲の人間はすべて敵だった。欲しいものは何でも力ずくで奪い取る。そうしなければ、私は生きてはこれなかったのだ――!」
過去に犯した許されざる罪の告白。
そう一言で言い切ってしまうには、あまりに悲痛な彼の告白であった。
ルナシエーラはふと思う。
たとえ大臣という高い地位にまで上りつめても、人には言えないのであろう後ろ暗い過去を持っている彼は、今までどんなに息苦しい、身を焦がすような劣等感に苛まれたことだろう。
六才というあまりに幼い頃から十三年もの長い間、幽閉という憂き目を見てきたルナシエーラであったが、それでも彼女は自分の存在を疑ったことはなかった。
トラキーアや他国の人々を救えなかったと自分を責めることはあっても、自分自身が罪を犯していながら大手を振って生きている、そんな後ろめたさに思い悩んだことはなかったのだ。
ルナシエーラのそんな憐憫に満ちた表情に気づいたのだろうか、アブダラはふっとこちらを振り返り、そしてその瞳の中に何か懐かしげな光を宿し、微笑む。
あまりに痛々しく、あまりに苦しげな優しいその光に、ルナシエーラは思わず泣き出しそうになった。
ほんのつい数秒前まで争い、毛嫌いしていた相手にそこまで同情を寄せ、涙してしまうのは一重に彼女の持つ慈愛の深さなのかもしれない。
アブダラは微かに肩を落とし、続けた。
「そんなある日、とうとう私にも運の尽き、というものが巡ってきた。――それまでにも、仲間と思ったことはなかったが、それでも殆どいつも一緒にいた同じ境遇の少年たちが次々に姿を消して行っていた。ある者は女のような顔つきをしているからと男色貴族の愛玩奴隷として売られて行き、またある者はこれもまた貴族の退屈しのぎの為に連れ去られ、彼らの飼っている魔物と戦い、その餌となった。それを思えば私はまだ幸運だったのかもしれない。ある日、私は財布をすろうとした相手に気づかれ、路地裏に引っ張りこまれた。その相手は幾つもの戦役を経験し、何百人もの敵を倒し、その何倍もの罪もない女子供をなぶり、殺してきた悪魔のような男だった……」
そう言って、アブダラは普段決して外すことのなかった長いフードを取りのけた。
その中から現れた彼の首筋には、耳の後ろから喉元にかけて斜めに走る、一本の大きな傷痕があった。
「……ひっ」
ルナシエーラは怯えたように身を竦ませる。
「体のありとあらゆる骨を折り、とどめとばかりにその男は身動きの出来ない私にナイフを突きつけた。そして激痛に叫ぶ私の声を嬉しそうに聞きながら、奴はゆっくりと時間をかけて私の首を切り裂いたのだ。……その場で息絶えなかったのが今でも不思議なくらいだよ。実際、彼女に救い出された時、私は既に虫の息だったそうだ」
アブダラはそう言って、懐かしげにルナシエーラの頬を撫で、その額にかかる前髪をそっとかきあげる。
ルナシエーラは咄嗟にその手を払いのけようとしたが、こちらを見つめる彼の瞳が実際に目の前に立っている自分ではなく、誰か別の女性を見ているのに気づいてハッと立ち竦んだ。
「それがタニアお母さまだったのね……?」
まるで魔法をかけられたようにボウッと彼の瞳を見つめたまま、ルナシエーラは呟く。
アブダラは子供のようにこくん、と頷いた。
「ああ……その時私を救ってくれたのは、たまたま父親に連れられ、あの国に来ていたタニアだった。彼女は昔から神官並みに〈光〉の力が強かったらしく、ふと通りがかった路地の裏手に灯火の消えかかっている命のあることを感じ取ったらしい。危険を承知で彼女は従者とともに路地裏に入って行き、そして私を見つけた。私にとっても彼女にとっても幸いだったのは、その時には既にあの男は立ち去った後で、いつもたむろしているゴロツキどももその時に限って留守にしていたことだ。そうでなければ、いかにも豪華な服を着た少女など、あっという間に裸に剥かれて骨までしゃぶられることになったろうからな。……とにかく、私は彼女に救い出され、治安が悪く商売相手の貴族とも交渉の決裂したらしい父親が一刻も早く国外へ出ようとするのに乗って、あの国を出た。私が意識を取り戻したのは、このトラキーアにある彼女の実家の、客間のベッドの上でだったよ」
「その話なら存じております。タニア様はご幼少のみぎり、お父さまに連れられ立ち寄った国で瀕死の少年を救い、ご自宅に連れ帰ったとか。けれどタニア様は、その少年はやっとベッドから立ち上がれるようになるとすぐ、姿を消してしまったと――」
「ああ、そうだ。私は意識を取り戻すとすぐに脱出を試みた。それも当然だろう、私自身には助けられたことなどまるで記憶がなかったのだ。気づいて見ればそこは貴族のように裕福な家の一室で、私の周囲にはそんな連中に奴隷として売られた人間がごろごろしていた。一度も人の温もりを感じたことのない私が、助けてくれた人間に素直に感謝の出来るわけがなかったのだ」
そう言って、アブダラは微苦笑した。
「しかし今では時々、何故あの時逃げ出したりしたのかと後悔することがあるよ。何しろあの家を逃げ出したあと、私は再び生死の境を彷徨ったのだからな。しかし幸運だったのか悪運が強かったのか、私は辛うじて生き延びることができた。あの頃のトラキーアは私の生まれた国とは比べ物にならんくらい裕福で豊かだったから、わたしはそれまでの生活が嘘のようにアッサリと堅気の職を手に入れ、まともな生活を送れるようになった。そしてその頃になって初めて私は知ったのだ。私を助けてくれたあの少女のことを。――タニアのことを」
ルナシエーラはその時はっきりと感じ取った。
アブダラの母を呼ぶ声に思慕に似た温かい……恋慕の響きがあることを。
「あなたは……お母さまのことを――」
「私は人並みの心を取り戻すとすぐに彼女の家を探し歩いた。何かしようと思っていたわけではなかったが、ただ探さずにいられなかったのだ。そして彼女が富豪の一人娘と知ったわたしは、それからはひたすら、ただひたすら死に物狂いに働いた。その時は一言礼が言いたいだけだったが、今の下働き風情の自分ではなく、助けられた命を大事にしている証にもっと出世して、彼女に見合う人間となって再び会いに行きたかったのだ。――それは思ったより険しく困難な道のりだった。何しろ私はどこの馬の骨ともわからぬ独り者だからな。結局、私が自分に納得できる地位に……城の兵士として仕えた後も更に上りつめ、騎士の称号を先々代国王……つまりお前の祖父にあたる王から授けられることになったのは、それから遙か数年後のことだった」
アブダラの言葉に、エイダは頷いた。
「その頃にはもうアブダラ様に想い人がいらっしゃることは周知の事実となっておりました。しかしどういうわけがその方が誰なのか、一体どういう方なのかまるでわからなくて……一説ではあまりに謎めいたその想い人は、影も形も見えぬゆえに天女ではないか、そういう噂もたったほどでございました」
「天女、か。……うん、それもあながち嘘ではなかった。あの頃のタニアは真実、天女と見紛うほど美しく光り輝いていた。まだあどけない面影を残しながらその中には既に女としての色香を漂わせ、彼女はそこに存在するすべてを照らすような温かい光に満ちあふれていた。私は騎士の称号を手にすると、それに伴って与えられる新家も馬も下男たちも、そんな身の回りの準備すべてもそこそこに彼女の家へと向かった。その頃には私の中の彼女はすっかり大きな存在となっていた。私の望みも一言の礼などではなく、彼女を自分の物にしたい。そんな生々しい欲望にまで育っていた――」
そこまで懐かしそうに昔を語っていたアブダラが、突如その表情を鬼のような凄まじい形相に変えたかと思うと、まるで別の人間が乗り移ったかのように憑かれた口調で叫んだ。
「しかし!しかしあの女は私のことなどすっかり忘れていた!私があの女の為に身を削るような辛い日々を耐え忍んでいる間、彼女は当時まだ王子だったお前の父と逢瀬を重ねていたのだ!」
「アブダラ……」
ルナシエーラは、一途に一人の女性を想い続け、期待に胸踊らせる純粋な瞳をした青年の姿を思い浮かべる。
その頃の彼はまさしく絶頂の時を迎えていたのであろう。
死に物狂いで働き、神の奇跡と偶然のいたずらに助けられて騎士という地位にまで上りつめ、未来には何の不幸も起こらないであろうと信じきって――
その頃の苦悩を思い出したのか、アブダラは更に続ける。
「何故だ?私は何度も神に尋ねた。何故こんなことになった?確かに私は数えきれぬほどの罪を犯してきたが、それは生きる為だ。そうせざるを得ない国に私を誕生させたのは神自身ではないか。なのに何故、私ばかりがこんな役回りを演じさせられねばならぬ?私は神を呪った。己の境遇を恨んだ。そしてトラキーアの王家を……いや、何の苦労もせずぬくぬくと暮らすすべての上流階級を、私のような賤しい人間を生むことになった富める者たちすべてを憎んだ。この世に貧富の差がなければ、王家などというものが存在さえしなければ私はもっと早くに彼女に会いに行けていた筈なのだ。――あの女は私を裏切った。私は身分を釣り合わせる為に必死になっていたのに、あの女はお前の父が最初からそれを持っていたという理由だけで奴を選んだのだ」
「ちょっ、ちょっと待って。お母さまはあなたが会いに来ようとしていることなんて全く知らなかったのよ。だからお父さまと――」
ルナシエーラはアブダラの身に起こったことには同情したものの、反論の言葉を紡いだ。
しかしアブダラは彼女の言葉を最後まで聞かず怒鳴る。
「タニアと知り合ったのは私が先だ!彼女に想いを寄せたのは私が先なのだ!お前の父は、ラフマーンは卑怯にもその地位をタニアの目の前にちらつかせ、彼女を私から奪っていったのだ。そしてその上あいつは私を顎で使った。私の想い人を奪っていっただけではなく、奴はこれみよがしに私を王子という地位によって辱めたのだ!許せなかった。お前の父も、トラキーアの王家も、すべてが許せなかった――!」
それはあまりに一方的な、見当違いの思い込みのように思えたが、それでもルナシエーラはふと思った。
耐えられなかったのだろう。それまでの苦しい生活を耐え抜けたのは一重にタニアへの真剣な想いの為だった。それが後一歩で達せられる――と本人は信じて疑わなかったろうから――そんな時になって突然、彼自身が命を投げ出しても手に入れたかった〈身分〉というものを何の苦労もせずに手に入れたラフマーンという王子が現れ、何より大切な想い人を奪っていったのだ。
それまであまりに真剣に、一途すぎるほど一途に彼女を想いつめていたアブダラは、どうしてもその事実を受け入れられず、彼女がラフマーンを選んだのは自分に〈身分〉がなかったせいだと思い込み、最初は自分を責め、やがてその苦しみに耐えきれなくなった彼は次第にその憎しみを自分から他人へと――周囲のすべてに向けていった。
そしてそれはやがて〈身分〉に惑わされて自分を選ばなかったタニアにも向けられたのだろう。
あまりに一つのことを想いつめ、視野狭窄に陥っていた彼は単なる偶然のいたずらでしかなかったものを彼女の裏切りと思い込み、その凄まじい反動ゆえに今のように昔とは一八〇度違う人格を創り出してしまったのだ。
考えてみれば、生まれた時から貧富の差に苦しめられてきた彼であったからこそ、犯罪に手を染めざるを得なかった少年時代を恥じていたからこそ、もしかしたら余計に彼は選民主義的な思考にとらわれてしまったのかもしれない。
「アブダラ……」
ルナシエーラが差し出した手を、その目に浮かぶ優しげな理解から逃れようとでもするかのように激しく突っぱね、アブダラは次第に狂気そのものになっていく目を彼女に――いや、彼女の中に見え隠れしているのであろうタニアに向けた。
「……だが、それでも私は耐えた。私とて幼い頃、貧しさに喘いでいた頃は金と権力に憧れた。彼女が王子という地位に目を眩ましても仕方がないと思った。だが、いつかは彼女もそんな幼児的な憧れから卒業し、もっと大事なことに気づくと思っていた。彼女を本当に愛する男がここにいることに。金や権力ではない、この世で一番大事なのはどれだけ自分を愛してくれるかということに必ず彼女は気づいてくれる。私はずっと彼女の為だけに働いてきた。貧しく犯罪も厭わなかったあの頃とは違う。今の私は真っ当に生きてきたのだ。そんな私を神がお見捨てになる筈がないではないか。そう、私はずっと信じてきた……だが!」
アブダラは感情の波に尽き動かされるまま叫ぶ。
「だが、神は私を裏切った!あの女はすぐそばにいる私には見向きもせず、まるでおあずけを食っていた犬のように王子の求婚に飛びついたのだ!」
そう言うと、アブダラはその手にまだ剣を持っていたのを思い出し、それを怒りに任せてあさっての方向に投げつける。
「……ひぃっ!」
それはアブダラの斜め後ろに立っていた兵士のこめかみ横、ほんの数センチしか離れていない壁に突き立ち、兵士はへなへなと腰が抜けたようにへたりこんだ。
だがアブダラもルナシエーラもまるでそんなことには目もくれず見つめあっていた。
いや、正確に言うとルナシエーラは動けなかったのだ。体だけではない。視線も、意識も、その心さえも彼のくるおしいまでに激しい何か……不思議な暗い光に縫い止められ、彼女はただ見入られたように立ち尽くしていた。
「……これは復讐なのだよ姫」
これまでとは打って変わった穏やかな口調でアブダラは再度言葉を紡ぐ。
「復讐。何と甘美で魅惑的な言葉だろう。そう、これは純然たる復讐だ。私には金も権力も、そんなものにはまるで興味はない。私が唯一望むこと、それはこの国の滅亡とそこに住むすべての人間の破滅だ。この国も、その隣も、そのまた隣の国も滅ぼしてやる。貧しさを生む富などいらぬ。人々は私と同じように貧困に喘ぎ、犯罪に手を染め、身を滅ぼし……そしてすべての憎しみをこのトラキーア王家に向けるようになるのだ。――私を辱め、弄んだ王と王妃にな!」
そう言って、アブダラは狂ったように笑いころげた。
「王と王妃は殺してやった。我が優秀なるトラキーアの兵士どもは忠実に隣国を滅ぼしてゆく。あとは奴らの子であるお前が苦しみ、のたうちながら生きつづければそれで私の復讐は完成するのだ」
「なんて……ひどい……」
エイダのそんな呟きがどこか遠くで聞こえる気がする。
あまりのショックにルナシエーラの頭は麻痺してしまったかのようだ。
それが彼の告白のせいなのか、それとも彼自身のせいなのかはわからなかったけれど。
ルナシエーラは何故か突然黙っていることに耐えられなくなり、自分で認識する間もなく口を開いた。
「あ……」
しかし、一体何を話せというのだろう。今の彼女には彼の話を受け入れるだけで精一杯だった。この上、反論などどうやって出来よう。
それが決して正しいことでないのはわかっていたけれど、それでも彼女には彼のあまりに自己内完結されてしまっている理論を突き崩せるような手だてはなかった。
その時。
「閣下!」
突然部屋のドアが開いたかと思うと、意気揚々とした兵士が叫びながら飛び込んできた。
「何事だ!」
パッとルナシエーラを放し、アブダラは振り向く。
その顔には明らかに不機嫌そうな表情が浮かんでいるのに、兵士はそんな彼の様子にはまるで気づかない。
「はっ!ただいま反乱兵殲滅に向かっておりました直属兵の内数名が帰還し、反乱の首謀者の身内と見られる老夫婦を連行して参りました!」
「な……馬鹿、余計なことを……」
アブダラは慌てて兵士の口を塞ごうとしたが、手遅れだった。
「な……んですって……?」
呆然としたルナシエーラの呟きが耳に入り、アブダラは振り返る。
そこには、さっきまでのおとなしさなど見る影もなく、みるみる表情を激化させていくルナシエーラがいた。
「反乱兵……殲滅……?老夫婦……ですって……?」
ルナシエーラは柳眉を逆立て、誰の目にも見えるような怒りのオーラを漂わせながらアブダラに詰め寄る。
「――これは一体どういうこと!わたしが城に戻れば森は襲わない約束よ、この……この、卑怯者!」
「何を……」
アブダラが咄嗟に言い返そうとすると、まだ自分の失態を手柄と勘違いしているらしい兵士が彼の言葉を遮り、胸を張る。
「何を言う!先に裏切ったのは貴様の方ではないか!アブダラ様は貴様に約束した通り、盗賊を見逃すおつもりだったのだ。しかし盗賊どもは仲間を集い、武器を手にアブダラ様に歯向かおうとした。身にかかる火の粉を振り払って何が悪い!」
「な――何を証拠に……!」
一瞬、ほんの一瞬ではあったがルナシエーラは動揺し、絶句した。
それを目敏く見抜いたのか、兵士は更に続ける。
「我ら直属兵を甘く見るな!我々は貴様の乳母の行動がおかしいことにいち早く気づき、盗賊どもの偵察に向かったのだ。恨むのなら、消えかかった残り火に油を注いだ自分と乳母を恨むが――」
「もういい、お前は黙っていろ!」
その時、兵士の言葉を遮るようにアブダラが怒鳴った。
彼にとっては思わぬところからの一喝に、兵士はビクッと身をかため、呆然とアブダラを見る。
「ア……アブダラさ……?」
「まったく、余計なことをベラベラとまくしたておって……誰がお前に事の次第を話せと言った。馬鹿者めが」
「し、しかし……」
「もうよい、お前は黙っておれ」
苛立たしげに兵士を下がらせ、アブダラは振り返る。
「――姫よ。しかし、あの者の申したことは本当だ。私は何も最初から森を襲うつもりだったわけではない。だから、お前の乳母があの盗賊とつなぎをとっているらしいと親衛隊長から知らされた時は、少なからず残念だったよ。私は約束を守るつもりだった。いくら私でも約束を違えたことは一度もない。……しかし、こうなった以上、盗賊どもを野放しにしておくわけにはいかん。振りかかる火の粉は払わねば、こちらが燃えてしまう」
「さ……触らないで!」
ルナシエーラはアブダラの差し出した手をはねつけ、ジリジリと後退する。
「よくも……よくもトラッシュたちを……!」
「そう駄々をこねるものではないぞ、姫よ。これもあの兵士の申した通りだ。恨むのなら私ではなく、自分を恨むがいい。お前が余計な真似などしなければ、あの盗賊は今も生きていられたのだ」
「黙りなさい!元はと言えばあなたが……あなたがトラキーアを我が物にしようと思わなければ……邪な欲望を持ちさえしなければ、わたしやトラッシュはもちろん、お父さまもお母さまも死なずに済んだのよ!……わたしは……わたしはトラッシュが生きているからこそどんな屈辱にも耐えようと……あの人を守る為にこの憂き目も甘んじて耐えてきたのに……。あの人が……あの人がいないのなら、わたしだってこの世に生きている意味はないわ!」
「ならばどうする。自ら命を絶つか?やれるものならやってみるがいい。そんなことをすればお前の乳母やその孫たちもただでは済まさん。――お前はこの国の戒律を破った咎で神の呪いを受けた上、自分の親しい者たちまでがお前のせいで犠牲となっていくのに耐えられるのか?所詮、お前の言う正義や人を慈しむ心とはそんな薄っぺらい物だったのか」
「…ぐっ……!!」
ルナシエーラは悔しさに言葉をつまらせた。
明らかに、今のアブダラは、彼女にそんな真似の出来る筈がないと決め込み、余裕を持っている。
そんな彼の言葉に、ルナシエーラはガックリと床に膝を落とした。
「どうやら納得したようだな」
アブダラは満足そうに頷き、ゆっくりとルナシエーラに歩み寄る。
手を伸ばせば姫の体に触れられる、そんな距離まで近づいてきたアブダラは、微かに体を走り抜ける嫌な雰囲気を感じ取った。
「…?……」
首を傾げながらアブダラが立ち止まった瞬間。
ルナシエーラが口を開いた。
「そうね。……確かにそうだわ。今のわたしには一人死んでいくことなんて出来ない。わたしが自害したら、エイダも国民たちもわたしを許してはくれないでしょう。でも、二人なら……」
その手に、キラリと冷たく光る何かが見えた。
そう感じた瞬間、アブダラはそれが何であるかを把握するより早く行動を起こしていた。
「あなたを道連れにすればみんな許してくれる!トラッシュの仇、覚悟なさい!」
そう叫んで突っ込んでくるルナシエーラをかわし、アブダラはその手に持たれたナイフを驚くほど正確に蹴り上げる。
「あっ!」
そして勢いに押されてよろめいた彼女の体をはがい締めにすると、アブダラはその腕をねじ上げ、あっさりとルナシエーラを床に押さえ込んでしまった。
「放して!……放してえっ!」
それでもルナシエーラは猛然ともがく。
その凄まじい勢いに、いつかは自分の腕がふりほどかれてしまうだろうと感じたアブダラは、事の成り行きをただ呆然と見ていた兵士数人を怒鳴りつけ、とらえた老夫婦を連れてくるよう命じた。
「トラッシュの仇……トラッシュの仇!」
まるで傷を負った雌の虎のようにルナシエーラは叫び、もがき続ける。
その、ねじり上げられた腕さえ折らん勢いの抵抗に、ほんの一瞬アブダラの手がゆるんだ。
すかさず彼の手を振り払い、逃げ出そうとしたルナシエーラだったが、即座にアブダラの手が伸び、今度は抱きかかえられてしまう。
「こら、おとなしくしろ、顔に傷でもついたら折角の花嫁姿が……イテッ!」
背後から回されたアブダラの腕に、ルナシエーラは思いっきり噛みついた。
「!…この……!!」
最初は数十分後に控えた婚儀のことを配慮し、彼女の体に傷がつくことを恐れていたアブダラだったが、痛みに思わず我を忘れた。
部屋中に響きわたるほど強く激しく頬を殴られ、ルナシエーラは数メートルは吹っ飛ぶ。
「……!」
声をあげることすらせずに彼女が気を失ってぐったりとしてしまうと、アブダラはハッと我に返り、慌てて姫に駆け寄った。
「ひ、姫……」
少なくとも、その首は折れていない。
アブダラはどーっと安堵の息を吐くと、怯えたように蒼い顔で成り行きを見守っていた侍女に命じ、ルナシエーラをソファに寝かしつけた。
「ん……ん……トラ……ッシュ……」
気付け薬の入った小瓶を姫の鼻先に持っていくと、ルナシエーラはうわ言のようにそう繰り返す。
一瞬ほっとしたような表情を浮かべたアブダラだったが、次の瞬間には憮然としながらルナシエーラの頬を軽く叩いた。
「姫……目を覚ませ、姫……!」
「ん……ふ……ぅ……?」
ルナシエーラが目を覚ましたのと、兵士が老夫婦を連れてきたのとは、ほぼ同時だった。
「シャル!シャルじゃないか!」
まだ霞のかかる頭で激しい頬の痛みを感じながらソファに半身を起こしていたルナシエーラは、その声で我に返ったようにパッと振り向いた。
「……リカルド!カルマ!」
「シャル!」
咄嗟に姫のもとに駆け寄ろうとした老夫婦の前に、アブダラが立ちふさがる。
「!お前は……!」
「森へは一度足を運んでいるが、顔を会わせるのはこれが初めてだな。……そうか、お前たちが姫をかくまった老夫婦か。――フン、物好きもいるものだ。自分とはまるで無関係の人間の為に己の命を危険に晒すとは」
「何を言う、無関係なものか。いいや、それどころかお前には掃いて捨てるほどの恨みがあるんだ」
「なに?」
だが、リカルドはアブダラの言葉を無視して身を乗り出す。
「シャル、シャル、大丈夫か!?どこも怪我はないか?」
「リカルドったら……それはわたしの台詞でしょう。大丈夫、怪我……は、してるけど……でも、大丈夫。たいしたことないわ」
「そうか、それならいいが……。心配したんだぞ、突然森からいなくなるから……」
「ごめんなさい、わたし……」
「わかってるよ、トラッシュの為に身を引いたんだろう?」
カルマが同じように身を乗り出し、微笑む。
「それにしても綺麗だねぇ、シャル。そうしてると本当にお姫様なんだってしみじみ思うよ。森にいた頃のあんたは、全然気取ったところのない普通の女の子だったものねぇ」
「お、お前ら私を無視して勝手に――」
その時、今まで見事なまでに存在を無視されていたアブダラが何とか口を挟んだ。
しかしカルマが即座に一蹴する。
「あんたは黙っておいで、感動の再会なんだから。まったく無粋な坊やだねぇ」
「ぼ、坊や……」
アブダラはあまりの台詞に口をぱくぱくさせる。
カルマは軽く肩を竦めて鼻息をついた。
「そうだよ、あたしら年寄りから見りゃ、あんたなんかまだまだ坊やさ。……いいからちょっとおとなしくしておいで」
「う……ぐ……」
その怖いもの知らずの迫力に気押されたのか、アブダラはうっ、と黙り込んでしまう。
カルマはため息をついて肩を落とすと、続けた。
「お城に戻ってからの二週間、さぞかし辛かったろうねぇシャル。でも、苦しんだのはトラッシュも同じなんだよ」
「!トラッシュ……!」
ルナシエーラはカルマの口から出たその名前に、ハッと身を強張らせた。
知らせなくてはならない。どうやら、自らがとらえられてもなお、彼の無事を信じて疑わないらしい二人に。
「カルマ、あの……」
それは、トラッシュの生存を信じていたい彼女自身にとっても、口にするのを躊躇う言葉だった。
口にしたくない。言葉にすれば、それは絶対的な現実となってしまう。――そう、一かけらの希望も、奇跡も望めない現実に。
しかし、必死の思いで口を開きかけた彼女の言葉は、何も気づかない様子のリカルドにあっさりと阻まれてしまった。
「――その通りだ。あの子と来たら君の残していったメモを真に受けて、酔うわ荒れるわで散々だったんだぞ。普段のんだことのないワインをがぶ飲みしてくだをまくものだから、果てはルーシィと大喧嘩さ。いや、見応えがあったな、あれは」
「リカルド、あの……」
だが、今度はカルマが彼女の言葉を遮って大げさにため息をつく。
「そんな呑気なもんじゃありませんでしたよ。ルーシィが剣を抜いた時なんか、そりゃあもう肝を冷やして……覚悟しておいたほうがいいよシャル。あの子、あんたに会ったら、お小言の一つや二つは言うつもりでいるみたいだからね。二週間分の鬱憤は半端じゃないよ」
「カルマ!リカルド!」
とうとう、ルナシエーラは大声をあげて二人の言葉を遮った。
「ん?」
一気にまくしたてていた老夫婦は、ルナシエーラの思い詰めた声に思わず言葉を切る。「どうしたんだいシャル?そんな泣きそうな顔して」
「カルマ……トラッシュが……トラッシュが……!」
立ち上がり、老夫婦の下に駆け寄ろうとするルナシエーラを部屋に残っていた兵士が押さえつけた。
「トラッシュ?あの子がどうしたって言うんだい?」
「どうしたって……」
ルナシエーラは、二人の不思議そうな、平然とした表情に思わず呆れる。
「だって……だって、襲ったんでしょ、兵士たちが、森を!だからここにいるんでしょ、二人とも!」
「ああ、そうだよ?だから?」
「だったら、トラッシュだって……!」
思い詰めたようにそう叫ぶルナシエーラに、意外にも老夫婦は笑い声をあげた。
「なんだ、そんなこと考えてたのかい、シャル」
「……え?……」
「だぁいじょうぶ、トラッシュならきっと逃げきってるよ。駄目じゃないかシャル、あんたがあの子を信じてやらないと。トラキーアのぼんくら兵どもにやられちまうほど、ヤワな子じゃないだろ、トラッシュは」
「でも、二人は……!」
「確かに、森は襲われたよ。正直言って、最初は動揺したさ。まさか奇襲に気づかれるとは思ってもいなかったからな。……しかし、わしらはバラバラに逃げ出したんだ。追手を中央に引きつけて、森を大きく迂回したのさ。だから、わしらがつかまったからと言って、あの子までがとらえられた証拠にはならんよ。大丈夫さ」
「な、なにを馬鹿な……!」
その時、それまで催眠術にでもかかったかのように黙りこくっていたアブダラが慌てて言葉を差し挟んだ。
「も……森へ向かったのは志願兵だけではない、精鋭の親衛隊も出向いたのだぞ!たかが盗賊の一匹や二匹、六十名もの兵士相手に無事な筈が……」
「いいかい、シャル」
だが、リカルドはそのアブダラを無視し、一言一句ゆっくりと言う。
「トラッシュを信じて待つんだ。必ずあの子は……いや、あの方はこの城にやってくる。だから、絶対に諦めるんじゃない」
「そうだよシャル。諦めちゃいけないよ。ぼっちゃまはきっとあんたを助けにくる。そうさ、ぼっちゃまは――あのお方はこんなことでやられてしまうような、そんな方じゃないんだ」
「な……あの方……?ぼっちゃま……だと?」
トラッシュが鎧を受け継ぐ身分の人間であったことも、リカルドやカルマが彼の肉親ではなく、育ての親であったことも知らないアブダラは、まるで自分より身分の高い人間に対するかのような物言いに眉を潜める。
「お前たち、一体――」
アブダラがそう問い詰めようとした、その時だった。
ドォーンという、どこか遠く……しかしそんなに遙か遠くではない身近な遠くで、何かが強く打ちつけられるような、或いは爆弾の破裂するような低い地響きが轟いた。
「な……何だ……?」
不意の出来事にアブダラが窓際に駆け寄った瞬間、部屋の扉が荒々しく開き、数人の直属兵が慌てたように息せき切って飛び込んできた。
「ア……アブダラ様!」
「どうした、何があった!」
「へ……兵が……反乱兵が……!」
刹那、彼らの言葉を代弁するかのように、城の正門付近から大勢の人間の叫び声と火の手が上がった。
そう、それは図らずもリカルドの言葉が正しかったことを証明する、トラッシュたち反乱兵の狼煙だった…。
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