第12話
「はあっ、はあっ、はあっ……」
走っていた。
周囲に立ち込めるねっとりとした闇と重苦しい静寂が彼を押しつぶすように包み込んでいる。
聞こえるのはただ彼の心臓の鼓動と馬の激しい息づかい、そして土を蹴る蹄の音だけという中で、トラッシュはのしかかってくるような不安を振り払うように頭を振った。
「冗談じゃねぇぜ、たく――他人に追っかけられんのは日常茶飯事じゃねぇか、何をいまさら……しっかりしろトラッシュ。情けねぇぞ」
トラッシュは自分に言い聞かせるように独りごちる。
ジェイクたちと離れて森の中を走り出してから一体どれだけの時が流れたのか、もうとっくの昔に日は沈んでおり、それでなくても普段から鬱蒼としている森の中は微かな月明かりすら差し込まない暗黒に支配されていた。
「……くっ」
緊張の為か興奮の為か、どうしても誰かに追われているという恐怖感を拭えないトラッシュは何とか思考を正気に戻そうと、ルナシエーラの姿を脳裏に思い描いた。
途端に、いつだったか彼女をその腕に抱いた時の、あの柔らかな感触がありありと思い起こされる。
彼は今更ながらに自分の彼女に対する想いの激しさを知り、微かに苦笑した。
「シャル――待ってろよ、必ず……必ずオレが助けだしてやる」
ルナシエーラの体にほんの指先一つでも大臣が触れるのかと思うと、自分でも驚くほどの激しい嫉妬が体を貫いた。
彼女が自分のことをどう思っていようと、未来に何が待ち受けていようと、もうどうでもよかった。
もし今の彼女の思いが幻で、いつかは消えてしまうものであったとしても、それはその時に受け入れればいいのだ。
いつか離れてしまう日が来たとしても――いや、だからこそ、せめて今、この瞬間だけは自分の気持ちに素直でいようと、トラッシュは決意していた。
「――ん?」
やがて、右手の方から朝日が昇ってきた。
トラッシュは馬と自分に着けていた障害物探知用のマジック・アイテム〈暗視眼鏡(セカンド・アイ)〉を外し、懐にしまいこむ。
「朝、か……」
ため息をつくように呟きながら、トラッシュは日の光が森の中を次第に明るく黄金色に染め上げていくのを見つめていた。
「――もう少し頑張ってくれよアレッサ。森の出口まで行ったら、少し休ませてやるからな」
息を切らし大きく血管を浮き上がらせたアレッサの首筋を軽く叩いてやりながら彼がそう呟くと、アレッサは小さくいななく。
トラッシュは微かに微笑んで、更にスピードを早めた。
「……」
それから、一体どれだけの時が流れたのだろう。
やがて前方に、朝日とは違う光の筋が見えはじめる。
トラッシュは出口が近づいて来たのを知ると、周囲を警戒するように馬のスピードをゆるめた。
「……」
馬をちょうど全身が隠れるくらいの茂みに繋ぐと、トラッシュは出来るかぎり息を殺しながらゆっくりと歩みを進める。
いつも彼らが馬で通る為に自然に下草が枯れ、広場のようになっている辺りまで歩いてくると、トラッシュは直属兵たちが待ち伏せしている気配がないのに胸をなで下ろした。「どうやらあいつら完璧に術中にはまったらしいな。――ちょうどいいや、アレッサを少し休ませてやろう。どうせルーシィたちが来るのを待たなきゃなんねぇしな」
そう言って、トラッシュは緊張で凝り固まった体をほぐすように肩をぐるんと回した。
着慣れない鎧の重みで、早くも体の節々が悲鳴を上げはじめていた。彼の両親が彼の姿を見たら嘆くかもしれない。けれど実際、代々受け継がれてきた立派な鎧も、身軽さを信条とするトラッシュにとっては自分の行動を抑制する邪魔な枷でしかなかった。
「大体、ガラじゃねぇんだよな、オレの場合。ルーシィやジェイクは元々が騎士だから気になんねぇだろうけど、オレの場合は根が盗賊だもんな。――アブダラがウィスタリアを滅ぼしたりしなきゃ、オレもあいつらみたいに颯爽と鎧を着こなす人間になってたのかなぁ。――うー、やだやだ」
そう呟きながらトラッシュが身を翻そうとした、その時。
周囲に鬱蒼と立ち並ぶ木々の枝葉がガサガサッと激しく揺れたかと思うと、トラッシュを取り囲むように数体の黒い影が突然飛び下りてきた。
「わっ!?」
そんな気配など今まで微塵も感じていなかったトラッシュは思わず硬直し、激しく舞い散る木の葉から庇うように顔を腕で覆う。
それを狙っていたかのように、黒い影が彼を目がけて突進してきた。
「!!」
頭で考えている暇はなかった。
トラッシュは殆ど防衛本能に促されるまま腰の剣を抜き、真正面から振り下ろされる剣を受け止める。そして息つく間もなく相手の剣をその拳ごと握りしめ、彼は相手の懐に入りながらその手をぐいっと強く引き寄せて体を反転させた。
片腕をつかまれた相手の体がぐるんと回り、トラッシュが今までいた場所に向かって背後から襲いかかろうとしていた数本の剣が寸前で止まる。
その瞬間、トラッシュはつかまえていた相手の腹を強く蹴り押し、自分はその反動を利用して一、二メートルほど後方へ宙返りした。
「……随分と熱烈な歓迎してくれるじゃねーか。一瞬、心臓が止まっちまったぜ」
トラッシュは軽口を叩きながら剣を構えなおし、額を流れる冷や汗をそっと拭った。
それはどう見ても、どこから見ても志願兵(チンピラ)には見えない兵士――いや、騎士たちであった。
身にまとった鎧は、一見シンプルだが丁寧に作られた出来のいいもので、外見の装飾などよりも実用性に重きを置いた実戦的な鎧である。その表面についた幾多の傷はそれを使う人間が多くの戦火をくぐり抜けてきたという紛れもない証であり、トラッシュは豪勢な飾りや大層な造りをした鎧よりも遙かに重苦しくのしかかるような威圧感を彼らから感じ取っていた。
「――お前ら、志願兵……じゃねェな。アブダラの親衛隊か」
トラッシュは言う。
「志願兵の奴らだけ先に進ませといて自分たちは入り口で待ち伏せするたぁ……随分と姑息な手段を使ってくるじゃねェか」
トラッシュが吐き捨てるようにそう言った時、騎士たちの後ろから一人の男が進み出てきた。
「――勘違いしないでもらおうか」
頭部から首の付け根までをスッポリと覆うような兜を小脇に抱え、耳のすぐ下くらいまでの灰色の髪と鼻の下に豊かな髭をたくわえたその男は、部下を手で制して下がらせると微笑み、言う。
「確かに、不意打ちという手段を使った非礼は詫びよう。しかし、それは閣下のご命令に従ったまでのこと。反乱さえ鎮圧できるのなら、誰がそれをなし遂げようと我らは一向に構わん」
「はん、何を今更――」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりのトラッシュの言葉を無視し、彼は続ける。
「……我らがここにいたのは、志願兵が君たちを取り逃がした場合に備えてのことだ。第一、いつ来るのか、来るかどうかすらもわからない相手を待って、最初から茂みに潜むなど誰かするものか。我らは人の気配がしたから身を隠しただけであって、それに気づかなかったのは君のミスだ」
「…ぐっ……」
思わず絶句したトラッシュに更に微笑むと、男は続ける。
「そして、我らは好んで戦いを仕かけるつもりもない。閣下は反乱を鎮圧せよとは仰言ったが、皆殺しにせよとは仰言られなかったのでな。――出来るなら、血を流す人間は最小限に抑えたい。これだけの人数の不意打ちを防いだ君の腕は認めよう。しかし、そう何時までも持ちこたえられるものではないだろう、特に――着慣れない鎧を着ていてはね」
「!?」
悪戯っぽい笑みを浮かべてウインクするその男に、トラッシュも微かに肩を落とし、言う。
「何だ――バレてたのか」
「仮にも精鋭の名を冠する親衛隊の長だ。それくらい訳もないさ。――だから君には諦めて降伏することを勧めよう。その若い命を、こんなところで散らせることもあるまい?」「そうだなあ」
トラッシュは頷く。
「オレだって馬鹿じゃねぇ、こんだけの人数相手にすりゃどんだけ分が悪いかは良くわかってるよ。あんたの言うとおり、オレは鎧を着けるのはこれが初めてだし、実際に剣を交えて闘ったことなんか、一度もねぇ。……無謀な戦いを挑むのは勇気じゃなくただの馬鹿だってのも、よくわかってる」
「結構、ならば私の言うことも――」
「けどなあ」
トラッシュは彼の満足そうな言葉を遮り、笑った。そして不思議そうな彼に叩きつけるように叫ぶ。
「あいにくオレは最初(ハナ)から無謀を承知で戦いを挑んだんだよ!馬鹿でもなんでも取り戻さなきゃなんねぇ女性(ひと)が城にいるんだ、今更あとへなんか引けるか!」
言いざま彼は懐からダーツの矢を取り出し、親衛隊に向かって投げつける。
しかし騎士たちは動じることなくそれをアッサリかわし、或いはその剣で弾き飛ばしてしまった。
男――親衛隊々長はため息をつきながら首を振る。
「聞き分けのない少年だ。私は若い命を無闇に奪いたくないと言っているのに……。だが、君がそれを望むなら仕方ない。――命を落としても後悔するなよ!」
その一声を合図に、騎士たちは一斉に襲いかかってきた。
トラッシュは、呼吸する暇もなく矢継ぎ早にあちこちから襲いかかってくる剣を必死に防ぎ、今の彼に出来うる精一杯の速さで森を駆け抜ける。
元々、身軽さを信条とするトラッシュである。普通ならば、それだけで追手の十人や二十人、簡単にまけてしまう筈であった。
――しかし、如何せん彼には鎧という枷があった。
走るたびにくるぶしにぶつかる剣の鞘に足を取られ、身につけた鎧の重みに阻まれて思うように動けないトラッシュを、彼よりも遙かに鎧に対してのキャリアがある騎士たちは簡単に追い詰めていく。
「くそっ……こんな……こんなトコで……」
振り下ろされ、辛うじて防ぐ剣の激しいスピードと重さに手がしびれて感覚が奪われていく。
鎧の隙間を突いてくる剣が紙一重でそれを避ける彼の腕や腹、脚を容赦なく打ち据え、トラッシュの体はあっという間にボロボロになっていった。
「ぐっ……!!」
それでもトラッシュが何とか反撃に転じようと態勢を立て直し、片足を強く踏み込んだ瞬間。
彼はたまたまそこに繁っていた下草に足を滑らせ、ズルッと態勢を崩した。
「!?」
驚く暇もなく、剣が一斉に降ってくる。
「……っ!」
トラッシュは辛うじて騎士たちの間に見つけた僅かなスペースに滑り込み、体を前回転させて起き上がった。
「っつ……」
唇から、ツーッと一筋の血が流れ、伝う。
トラッシュはそれを乱暴に手の甲で拭うと、口の中の血を地面に吐き捨てた。
「諦めねぇ……。オレは絶対に諦めねぇぞ、あそこには……トラキーアの城にはオレを待ってる女がいるんだ、オレは……オレは絶対に諦めねぇぞ!」
叫んで、トラッシュは自分から騎士たちに突っ込んでいった。
「――ぉおおぉぉっ!」
真っ正面にいた騎士に切りかかり、そのスキに真横から切りかかってきた騎士の剣をその手甲で受け止めると、トラッシュは反対側にいる騎士のほうへ真っ正面の騎士の剣をなぎ払う。
そして手甲で防いだ方の騎士が腰を狙って再び剣を振るうのを跳躍してかわすと、トラッシュはそのままの態勢から相手の喉笛を正確に蹴り抜いた。
「ぐわっ!」
鎧である程度カバーされているとはいえ、クリーンに急所を蹴り抜かれたその騎士は一言呻いてフッ飛び、体を大きく背後の幹に叩きつけられてガクッと崩れ落ちる。
着地した瞬間を狙って背後から切りかかってきた騎士に間発入れず後ろ蹴りを食らわすと、トラッシュは軸足を反転させて彼らに向き直り、厳しい顔をしたまま呟いた。
「……まず一人」
だが騎士たちはその表情をまったく変えず、冷静に彼を取り囲んでいる。
トラッシュは彼らに向かって剣を振り上げたが、何を思いついたのか、突然クルッと身を翻して森の奥へ逃げ出した。
「!?」
騎士たちは彼の突然の行動に戸惑いながらも、慌ててその後を追う。
トラッシュは騎士たちに追いつかれないように時々振り返りながら逃げつづけた。
「何だ……?」
それまで様子を黙って見ていた隊長は首を傾げた。
「こんな森の中、どこへ逃げようと不利なことに変わりはない筈だが――何を企んでいる?それとも……ただ逃げているだけなのか?」
もちろん、トラッシュはただ闇雲に逃げているわけではなかった。
確かに、鎧の扱いと戦闘経験という点では、騎士たちの方が遙かに有利だ。
しかしトラッシュには『地の利』があった。
十三年間もこの森で暮らしていたトラッシュである。
たとえこの森がべらぼうに広大でとてつもなく複雑でも、彼にとってここは自分の家の庭先のような物なのだ。
「……」
騎士達は、殆ど横一列に走っていた自分たちが次第に二列になり、三列になりしていくのに気づいてやっとトラッシュの目論見を悟る。
トラッシュはより一層木々が密集し、狭くなっている場所へと彼らを誘い込もうとしていた。
たとえどんなに大勢の人間が彼を追ってきていようと、狭い場所――そう、彼らがどうしても一列縦隊にならざるを得ないような場所へと誘い込むことが出来れば、人数など不利な要素には成らない。
トラッシュはかつて下町でルナシエーラを襲った、自分よりも40㎝も50㎝も上背のあるチンピラ達を相手にした時、既にそれを証明していた。
残り九名の親衛隊を一度に相手にすれば、いくらトラッシュでも勝ち残る可能性は10%にも満たないだろう。しかし袋小路へと誘い込み、一人ずつを相手に出来れば、その可能性はかなり上昇する。
そして彼自身、袋小路に身を置くことで、自分も後には引けないのだという緊迫感を己に課していた。
大樹や大岩、背の高い茨の茂みなどが複雑に絡み合い、一枚の壁のようになっている場所まで走ってくると、トラッシュはくるりと振り向く。
その自然の壁はちょうどトラッシュの背後を頂点とした二等辺三角形のような形をしていて、騎士達はどう頑張っても一人ずつ斬りかかるしか方法はなかった。
「……」
どうしようか攻めあぐねている様子の騎士に、トラッシュは密かに口の中で秘呪を呟く。
「……風よ。その手に世界を抱きしものよ。秘石(いし)に集いて力となり、蒼く輝く盾となれ」
その瞬間、手甲に描かれた六芒星の線が微かに発光した。
――蒼く輝くその光は徐々に六芒星の頂点に埋め込まれた六つの秘石に集まっていき、やがてそのすべてに光が満ちると、六芒星の中心から淡い青色に輝く、二の腕くらいまでを覆う短いスクウェア・シールドが現れる。
「〈ウィンディア・シールド〉。ショートソードと対になった魔法秘具、この手甲(ガントレット)の本当の使い道だ。……手甲(これ)だけでも剣はそれなりに防げるけど、せっかく受け継いだ立派な鎧だし、あんまり傷つけちゃ親父が泣くだろうからなあ」
――説明臭い台詞、ありがとう。
「さあて」
と、トラッシュはくいくいっと指先で騎士を挑発した。
『訓練された騎士相手の挑発ってのは、相手の判断力を鈍らせる有効な手段(て)なんだぜ』
いつだったか、ルーシィがそんなことを言っていたことがあった。
トラッシュはそれを思い出し、試しに実行してみたのだった。
すると、案の定、一人の騎士が他の騎士の制止を振り切って斬りかかってきた。
「……」
高く跳躍し、一刀両断とばかりにトラッシュめがけて剣を振り下ろす。
もちろん、トラッシュが盾を構えるだろうと予測し、その盾ごと叩き斬るつもりだったのだろう。
しかし、トラッシュはその剣を盾で防ごうとはしなかった。
自分の剣の塚を両手で握りしめ、彼は腕を思いっきり振り上げる。
片手には、短いとはいえスクェア・シールドをつけているのだ。本当なら盾が邪魔をして、思うように腕は上がらない――そう、その筈だった。
だが、不思議なことに剣を握った腕は、何の問題もなく盾を素通りした。
「えっ……!?」
思わず、騎士の剣が僅かにブレる。
その隙をついてトラッシュは彼の剣を横へなぎ払うと、つられて体勢を崩し、自分の方へ倒れ込んできた騎士の顔を剣を握ったまま押さえ、思いっきり膝をたたき込んだ。
「ぐふっ……!」
グシャッ、と何かが潰れる嫌な音がして、血飛沫が散る。
トラッシュが手を離すと、その騎士はヨロッとそのまま前方へ倒れ込み、トラッシュはだめ押しに剣の塚で彼の後頭部を殴りつけた。
「……?……?」
残りの騎士達が不思議そうな顔でトラッシュの盾を見つめている。
トラッシュはそんな彼らの表情が気に入ったのか、にやっと笑いながら言った。
「……確かに、こーゆーシールドってのは大体が片腕に装着して扱うように作られてるから、武器も片手専用の物しか扱えないし、片腕だけの力じゃ大剣や斧みたいにパワーで勝る武器や、さっきみたいに一刀両断に剣を振り下ろされた時はちょっとばかし分が悪いんだけど――」
と言いながら、トラッシュは盾を外側からと内側からと、両方叩いてみせる。
手甲の秘石から放射状に放たれる蒼光のその盾は、外側から叩かれた時は強固な音を、そして内側から叩こうとした時には何の問題もなくその手を素通りさせた。
トラッシュは自慢げに笑う。
「まあ、一応このシールドも家宝と呼ばれるだけあって、そんじょそこらの盾とはひと味違うって事なのさ。外からの干渉ははね返すけど、持ち主の動きを妨げることはないんだよ、この盾はね」
その言葉に、納得したように騎士達は頷き合う。
いつの間にやら和やかな雰囲気になってしまった場に幾らか苦笑しながら、トラッシュはサッと顔を引き締め、呟いた。
「さて……あと八人か」
気絶した騎士の体を持ち上げ、あらよっ、てな感じで仲間の方へ投げながらトラッシュは言う。
その体を受け止め、戦闘の邪魔にならぬよう彼を脇によけた騎士達も、また気を取り直すように視線を交わし合うと、何事か示し合わせたように頷き合って身構えた。
「……」
一人の騎士がトラッシュめがけて猛然とダッシュする。
トラッシュがそれに応じて身構えた瞬間、もう一人の騎士が隠し持っていたダガーをトラッシュの腹部めがけて投げつけた。
「わっ!?」
確実に一人ずつを相手に出来る分、自分の動ける範囲も限られてしまうこの場所では、投げつけられるダガーをかわす術はない。
トラッシュが咄嗟にシールドを下げ、腹部を覆うと、それを待っていたかのように走ってきていたもう一人の騎士が飛び上がった。
キンッ、という金属音が響き、ダガーがはじかれる。
だが次の瞬間には既に、飛び上がっていた騎士の剣はトラッシュの頭からほんの僅かしか離れていない場所まで振り下ろされていた。
盾は間に合わない。
「……クッ」
トラッシュは咄嗟に剣を真一文字に構えたが、全体重プラス落下のスピードが付加されている騎士の剣は、そんな彼の剣ごとトラッシュを切り裂いてしまうだろう。
トラッシュに残された手段はないように思われた。
騎士は己の勝利を確信し、トラッシュの体を切り裂いた時の衝撃に備えながら、にやり、と笑みを浮かべる。
しかし――
「ぐあっ……!?」
――しかし、実際に悲鳴を上げたのは彼の方であった。
「……」
トラッシュは辛うじて死を免れた安堵感に息をついたが、攻撃を防いだという満足感とは無縁な……気の毒そうな表情を浮かべて言う。
「……悪ぃな。こっちも命がかかってるもんでよ」
その膝頭が、綺麗に騎士の股間に命中していた。
トラッシュは勢いを増した騎士の剣が振り下ろされる瞬間、後ろへは引かずに逆に前に出て、殆ど無意識のうちに膝を突きだした。
そして彼は、その脚につっかえ棒をされた形の騎士が思わず痛みに乱れたほんの一瞬の隙をついて盾をかざし、騎士の剣を辛うじて防いでいたのだった。
上半身がトラッシュの盾で支えられ、下半身はその脚をまたぐ格好になりながら、騎士の体は地面から数㎝浮いている。
トラッシュは空いている方の拳で騎士の腹を殴ろうと腕を引いたが、ふと彼の顔を見て行動を止めた。
「……」
彼は、既に口から泡を吹きながら悶絶していた。
トラッシュはその時はじめて自分の脚に金属の鎧をつけていたことを思い出し、スッと脚を下げる。
その瞬間、騎士の体は軟体動物のようにフニャ~となりながら、スローモーションで後ろへ倒れ込んだ。
……合掌。
「……あと七人」
そう言いながらトラッシュは、地面に落ちていたダガーをつま先で蹴り上げる。
ふと何かを思いついたらしいトラッシュはこっそりと背後の巨木から小さな枝をむしり取り、ダガーを真っ正面にいた騎士に向かって思いっきり投げつけた。
騎士がそれに応じて微かに体を脇へ移動させた、その瞬間。
トラッシュはそれを見越していたかのように、持っていた木の枝をそれより強い力で同じ方向に投げつけた。
「……!?」
それでなくてもダガーより軽く、スピードのつきやすい木の枝はダガーが騎士の体に到達するより早くその柄に当たり、ダガーは突然方向を曲げて飛ぶ。
「ぎゃっ!!」
そしてそれは、まさか自分の方へ飛んでくるとは思っていなかったのだろう、別の騎士の二の腕を深く貫いて脇にまで突き刺さり、最初ダガーを避けようと身を移していた騎士は、同じくダガーに当たったせいで方向が歪んだ木の枝に右胸を貫かれていた。
「……あと五人」
そう呟くと、トラッシュはふと気づいたようにちらっと倒れている騎士二人に目をやり、仲間の注意をそちらに向けるように顎をしゃくる。
「……おい、そいつら早く手当してやった方がいいぜ」
「!?」
その言葉に、騎士達は思わず硬直した。
それはそうだろう。何しろトラッシュはたった今まで、ほんの数秒前まで剣を交えていた相手なのだ。
トラッシュも自分の言動の不自然さに気づいたのか、決まり悪げに笑う。
「……ああ、そうか。こんなこと、オレが心配する筋合いじゃねぇんだよな。――悪ぃ、混乱させるつもりはなかったんだ。ただつい口が滑っちまって……でも、別に何か企んでるとか、魂胆があるとかってんじゃないぜ。だから安心してそいつら手当してやんなよ。オレ、ここで待ってるからさ」
そう言うと、トラッシュはおもむろに鞘を腰から外し、地面にあぐらをかいて座り込んでしまった。
「……」
騎士達はその行動を信じられない様子で暫く凝視していたが、やがて隊長が仲間に目配せをし、彼らは仲間を手当するために剣を鞘に収める。
隊長はトラッシュに視線を注いだまま言った。
「――何故だ?」
「あん?」
トラッシュが聞き返すと、その騎士はにこりともせずに疑わしげな目つきで繰り返す。
「……なぜ、我らのことを気にかけるのだ?たとえ一人で五人倒せたからといって、我らは後五人。一人で十人倒せるとでも思っているのか?」
トラッシュはその堅苦しい口調にうんざりと手を振る。
「……別に余裕こいて言ったワケじゃねぇ、あんたらを見下したつもりはねぇよ。だからそんなおっかない顔すんなよ。――ま、もちろん戦う以上は勝つつもりでやってるけどさ」
「では何故……」
「だからぁ、やめろってそーゆー顔。もうちょっと気楽に出来ないもんかなぁ、休戦してる間くらい。――別に他意はねぇんだよ、ただ、あんたら卑怯な手使わなかったからさ――あ、また怖い顔するぅ、違うって、皮肉ってるわけじゃねぇよ。……大方さっきの不意打ちのこととか考えてるんだろうけど、違うよ、あれは卑怯な手段じゃない、戦法の一つだ。オレが言ってんのは、例えばさっきオレがあんたらの仲間の体を楯にした時、それにも構わず仲間ごとオレを叩っ斬っちまうような手段のこと。でも、あんたらは違う。だからオレもそれに応えようとしただけさ。――あんたらがやろうとしてること、アブダラに与してること、それは認められないけど……でも、あんたらみたいに、どうしても勝たなきゃならない時でさえ手段を選んじまうような馬鹿正直な騎士はさ、いつかきっと……そう、いつかきっとこの国に必要とされる日が来る筈なんだ。だから一人でも死なせたくないと思っただけ。それだけさ」
そう言って、トラッシュは手を振った。
「……けど、無益な戦いは止めろとか、もう剣は納めてくれとかってんじゃないんだぜ。もちろんオレは降伏するつもりも負けてやるつもりもねぇけど、あんたらだって仕事だもんな。理由はどうあれ忠誠を誓った相手に命じられた仕事を、そう簡単に裏切るわけにゃいかねぇだろ。――オレは、あんたらを死なせたくはない。だけど、それ以上に〈騎士〉としてのあんたらを、懐柔なんて手段で侮辱しようとも思わないよ」
「君は……」
ふっと、それこそ独り言のように小声で隊長が呟いた。
「ん?」
「案外いいヤツなんだな」
「サンキュ」
トラッシュは隊長のその言葉に本当に嬉しそうに笑うと、ふと思いついたように尋ねる。
「あんた……名前は?」
「ん?」
隊長は驚いたように聞き返す。
しかし次の瞬間、彼は表情をゆるませ呟いた。
「……冥土のみやげかね?」
その冗談じみた軽い口調に、トラッシュも軽く笑った。
「心配しなくても絶対生き延びてやるよ。オレはこんなトコでくたばっちまうわけにはいかねぇんだ。……おっ、どうやらあっちの方でも手当が済んだようだぜ。さあ――」
トラッシュは瞬時に真顔に戻り、口の端に楽しそうな笑みを浮かべて呟く。
「はじめようか」
その瞬間だった。
突然、トラッシュの背後にそびえ立っている巨木の枝葉がカサカサッと音を立てたかと思うと、何の前触れもなく錐のように鋭く研がれたダガーが、彼のいる場所めがけて降ってきた。
「うわっ!?」
トラッシュは咄嗟に盾を構えてそのダガーを防いだが、ダガーはまるで雨のように次から次へ途切れることなく無数に降り注いでくる。
「……くっ」
降り注ぐダガーの攻撃が、親衛隊の騎士達の手によるものでないのは明らかだった。
しかし、彼らにとってチャンスなのに間違いはない。
トラッシュは騎士達が自分めがけて猛然とダッシュしてくるのを感じ、焦った。
彼の構える盾は二の腕くらいまでの大きさしかなく、いつまでもこの状態でダガーから身を守り続けるのは不可能だったし、第一トラッシュは背後で音がした瞬間思わず振り向いてしまい、騎士達に後ろを見せるという致命的なミスを犯していた。
――このままでは確実に斬られる。しかし、このダガーの雨の中では身動き一つ出来なかった。
やがて騎士の気配がすぐそこまで迫ってきた瞬間。
「……わっ!?」
トラッシュは何の前触れもなく腰のあたりを強く後ろへ引っ張られ、驚きながらのけぞった。
と思う間もなく彼の前方に親衛隊の騎士達が踊り出す。
「え……え……?」
トラッシュは騎士達が自分を庇うように盾を突き出し、固まってダガーの雨を防いでいるのを、信じられない面持ちで呆然と見つめていた。
「な……な……」
驚いて言葉が上手くつながらない。
すると隊長が微笑みながら口を開いた。
「――心ばかりのお礼、と思って貰おうか」
「え?」
「我らを認めた者に対しての当然の礼儀だよ。それに君にならもしかしてあの方を――」
そう言って彼は驚いたように口をあんぐりと開けたままのトラッシュにウインクをし、巨木のいずこかに狙いをつけて持っていたダガーを投げつけた。
「うわっ……!!」
「ぎゃっ!?」
次々と、まるで殺虫剤をかけられた虫のように、志願兵達がバラバラと枝から落ちてくる。
「志願兵(チンピラ)どもめ……どうやら先に進めと言った我らの言葉を疑い、幾人か我らの元に残しておいたらしい。この十三年の間に少しは頭が回るようになったと言うところか。いや、というより――」
言いかけた騎士の言葉を先取り、トラッシュは笑った。
「単に猜疑心の強い連中が多かったってだけだろ」
「……だな」
トラッシュと隊長は、まるで昔からずっとパートナーを組んでいたかのような絶妙なコンビネーションで、次々に枝上の兵士達を撃ち落としていく。
やがて巨木の下が数十人の兵士で埋まり、足の踏み場もないほどになってしまうと、トラッシュはため息をついて首を振った。
「やれやれ、せっかく一対一(サシ)で戦える場所だったってのに……これじゃあどっか別の場所に移るしかねぇようだな」
「いや、我らはもう、君とは戦わない」
「――へ?」
耳を疑う言葉だった。
「ちょ、ちょっと待てよ、オレあんたらを懐柔した覚えは……」
「わかっている。これは我らの判断だ、君の何がどう、というわけではない。……知っているかね?」
「あ?」
「我らは、アブダラ様が大臣になられた直後、まだこの国に王と王妃がいた頃から、アブダラ様の親衛隊としてお仕えしている」
「あ……ああ。噂には聞いたことあるよ。もっともガキの頃だから覚えてねぇけど……」
「アブダラ様は、我らに光を与えて下さった。
我らは皆、それぞれの国で不遇の人生を余儀なくされてきた。その我らに、アブダラ様は親衛騎士という地位を下さったのだ。我らにとってアブダラ様は、至尊のお方。アブダラ様の御為なら、この命などいくら捨てても惜しくはない」
まじめな顔をして言う隊長に、トラッシュは決まり悪そうに俯く。
「その……悪ぃ、ピンとこねえわ、オレ……あんたみたいな人が、どうしてアブダラなんかに……」
彼にとってアブダラは諸悪の根元。
両親を奪い、国を奪い、愛しい人までも奪っていこうとする憎悪の対象。
そんな彼を、なぜこうまで慕える?
あの男の、どこにそんなカリスマがあるっていうんだ。
と、そんなトラッシュの思いを察したのか、隊長は笑った。
「わかっている。今のアブダラ様は決して尊ばれるお方ではない。……しかし、それでも我らにとってアブダラ様はすべてなのだ。そして……そう、君なら……君にならアブダラ様を……」
「えっ?」
言いかけた言葉を飲み込み、隊長は笑った。
「行きなさい。君の信じるものの為に。そして願いを叶えなさい。――その時、きっと君はアブダラ様の真のお姿を知ることになるだろう」
「アブダラの……真の姿?」
トラッシュは一瞬、考え込んだ。
しかし今は一瞬でも時間が惜しい。
目の前にいるこの男は、決して嘘を付くような人間ではない。
トラッシュは自分の目を信じ、そして一刻も早く愛しい人の元へ駆けつけるために、きびすを返した。
そして、ふと立ち止まる。
「?」
不思議そうな隊長に、トラッシュは笑いかける。
「まだ聞いてなかった。あんたの名前は?」
隊長も笑う。
「――エドアルド。私の名はエドアルド・シュナイダーだ」
大きいが節くれ立ったところのない隊長の手がスッと差し出される。
トラッシュはその手を握り返し、ゆっくり言った。
「ありがとう」
「――幸運を祈る」
早朝。
アブダラもルナシエーラも知らないところで、一つの戦いが終わり、そして新たな希望が託された。
これが、反乱の第一歩だった――。
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