第10話

「シャルが城に連れ戻されただって!?」

 トラッシュは酔いを覚ますために飲もうとしていたコーヒーのカップを思わずテーブルに叩きつけた。

 カップからこぼれた熱いコーヒーがテーブルを伝い、隣に座ったルーシィの腿に落ちる。

「わっ、っぶね……おい、熱いじゃねぇかトラッシュ、何すんだよ」

 だがトラッシュはそんな彼の抗議にも構わず、真偽を問いただすようにエイダを見る。

 彼女は悲しそうに頷いて、ポケットから一つの包みを取り出した。

「……これは?」

 トラッシュが差し出されたその包みを受け取りながら尋ねると、エイダはただ黙って開けるように促す。

「こ、これ……」

 トラッシュはハンカチに包まれたそれを見て驚いた。

 それは、彼が初めてルナシエーラを町へ連れて行った時に露店のマジック・ショップで買ってやった、例の魔法秘具(ピアス)だったのだ。

「これ、シャルの……じゃ、じゃあ、あいつ本当に城に……?」

 トラッシュが呆然と見上げると、エイダは頷いた。

「姫様がお城にお戻りになられたのは、つい数週間ほど前のことでございます。その時の姫様のお顔と言ったら――わたくし、十三年間幽閉され続けた姫様の悲しそうなお顔は幾度も見てまいりましたが、あれほど辛そうに悲しげに表情を曇らせた姫様のお顔を見たのは初めてでございました」

 エイダは目頭をハンカチで押さえながら続ける。

「姫様はわたくしに、これまでの経緯(いきさつ)のすべてを話してくださいました。――あの晩、城へ忍び込んだ盗賊(あなた)に塔から連れ出してもらったこと、この森で暮らすようになったこと、町へ行ったこと、十三年の間に奪われた人間らしい生き方を取り戻したこと、そして……愛しい人が出来たこと」

 エイダはそう言ってトラッシュが手に持ったピアスを見つめる。

「そのピアスを、姫様はいつも大事そうに眺めておられました。わたくしがそれは何かとお聞きすると、決まって悲しげに微笑んで、これはわたしのこれからの人生を支える唯一の術だ、とおっしゃって……でも、アブダラはそんな姫様のご様子が気に入らなかったのか、着ていた服はおろか城の外で身につけていたすべての物を取り上げてしまいました」

「アブダラ……!」

 トラッシュは小さく呟いてぐっ、と拳を固める。

「あいつが……あの男がシャルを……!」

「そうだ」

 それまで黙って聞いていたルーシィが頷く。

「あの男はオレたち二人と直接対決することを避ける為にシャルをわざとお前の家に避難させた。そして彼女が一人きりになるのを見計らって自ら連れ戻しにやって来たんだ。……シャルは言ったそうだよ、あのメモを読んでお前はシャルを憎むかもしれないけど、それでもお前を危険に晒すよりはマシだったってな」

「シャル……あいつ……」

 トラッシュは拳をテーブルに叩きつける。

「あの馬鹿……どうして犠牲になったりなんか……オレを信じろって、あれほど言ったのに……」

 すると、エイダが微笑んで首を振った。

「姫様は決してあなたを疑ってなどおられませんわ。ただ、本当に大切に思っておられるのです。だから、たとえ心の底からあなたを信じていても、自分の為に危険な目に遇わせることはできなかった。あなたの強さを信じるのと、大切な人を危険に晒して平気でいられるのとはまったく別の物です」

「ま、そういうことだ」

 ルーシィはそう言って、まだ納得がいかないような顔をしているトラッシュにため息をついた。

「何だ、まだ不満そうだな。……よし、じゃあ立場を逆にして考えて見ろよ。もしシャルがお前なんかより遙かに強かったとしてだな……まぁ物理的にはそりゃ無理だから、一流の魔道士だった、とかそういう理由でよ……で、それでもし、彼女がお前の危機を助けに来ようとしてて、お前さえ犠牲になれば彼女は危険な目に遭わずに済むって状況だったら、お前シャルに救いを求められるか?」

「いいや」

 トラッシュは即座に首を振る。

 大切な人が、命を捨てても惜しくはないほど愛しい人が自分の為に危機に晒される。

 それはたとえその人が自分より遙かに強く頼れる存在であったとしても、決して耐えられるようなことではなかった。

「だろ?シャルだって同じだよ。確かに、彼女のやったことはお前にとっちゃ許されない裏切り行為だったかもしれないけどよ、けど、それなら直に彼女に文句ぶちまけてやりゃあいいじゃないか。……そうだろ?」

「……ああ」

 トラッシュはそう呟いて、手にしたピアスを額に押しつけた。

 それは心なしか、まだ彼女の温もりと匂いが残っているような気がした。

「シャル……」

 彼の顔から苦悩の陰りが消えていく。

 彼は今、心の底から後悔していた。

 どうしてもっと早く、事態を察知してやれなかったのか。

 彼がここでこうやって自分勝手な落ち込みで荒れているその瞬間にも、彼女はずっと彼を想い、彼を案じて苦しみつづけていたのだ。

 トラッシュはぽつりと呟いた。

「エイダさん……あいつが……シャルが連れ戻された日から今までのこと、話してくんないかな。……あいつ、どうしてる?まだ少しは元気が残ってるか?まだ笑顔を忘れてないか?」

 その言葉に、エイダは優しく頷いた。

「姫様は、あなたのことを話される時は決まって笑顔を浮かべられます。その笑顔ときたら、もう……ああ、この方こそ、姫様が心底いとおしいと思っておられる方なのだな、そう気づくくらい輝いておられました。そしてわたくしがそうお尋ねすると、姫様はふっと表情を陰らせながらも頬を染め、ゆっくりと頷かれてこうおっしゃいました。


『……あの人は、他の人から見れば決して白馬に乗った王子様じゃないかもしれない。盗賊なんて仕事(こと)をしていた人だし、年下だし。でも、わたしにとっては誰よりも素晴らしい人なの。天国のお父さまお母さまもご覧になったらきっと気に入ってくださるに違いないわ、だってあの人は、心の中に爽やかな風と静かな海を持っている人だもの』


 ……と」

「……相変わらず歯の浮くような台詞をぽんぽんと出す子だな」

 ルーシィはそう呟いてふと隣を見る。そして肩を落とした。

「シャル……」

 トラッシュは、決してその台詞をキザだとかロマンティックだとか思ってはいないようだった。むしろ彼はその台詞を噛みしめるように目を閉じ、ピアスを握りしめている。

「……何だよ、すっかり二人の世界になっちまってるな。――つまんねぇの」

 そう言ってルーシィはエイダに続きを促した。

「――姫様は、この森で暮らした一ヵ月あまりの間に随分と気丈になられました。今までならアブダラのことも嫌悪されてはいても決して表に出そうとはなさいませんでしたが、この間なんて頬を撫でようとしたアブダラの手を鋭くはね除けたり、部屋を出て行ったアブダラに、扉のこちら側から舌を出してイーッ、って――姫様って昔からあんなご気性の方でしたかしら。昔はもっと清楚で上品だった気がするんですけど……」

「……おい」

 ルーシィは小声で囁く。

「ん」

 トラッシュも彼の言いたいことを悟り、決まり悪げに頷いた。

「なんか――やっぱオレたちのせいだよな、それって」

「ああ」

「……でも、それもこれも婚儀の日が来るまでのことですわ」

 エイダが表情を曇らせながらそう呟いた言葉に、トラッシュはハッと身を硬くした。

「婚儀……結婚式の日が迫ってるのか……!」

 トラッシュはルナシエーラが言っていたのを思い出す。

「そうだ、確かシャルが二十才になる誕生日に婚儀は執り行われる、って……」

「そうです、そして姫様の次の誕生日は一週間後。……もう、もう姫様に残されている時間は残り少ないのです……!」

 エイダは思い詰めたような表情でトラッシュにすがりついた。

「お願いです。どうか、どうか姫様をお救い下さいませ。姫様があのままアブダラの花嫁になったら、姫様だけではありません、トラキーアも、アブダラの狙っているすべての国にも災いが訪れるのです!……わたくしがここへ来たことは、姫様は知りません。姫様は、たとえどんなことがあろうとトラッシュ様には何もお知らせしないお覚悟でおられるのです。――けれど、けれど今のままではあまりに姫様がおいたわしくて……わたくし、見ていられませんでした。姫様は寝言でもあなたの名を呟きながら涙を流しておられます。日に日にやつれ、細っていく姫様のお姿を、わたくしこれ以上見てはいられないのでございます!」

「……」

 エイダの言葉に、トラッシュは決意を秘めた顔で立ち上がった。

「カルマ。手伝ってくれねぇか。あれ、オレの体に合わせる」

「トラッシュ……?」

「それからリカルドはアレッサに鞍を乗せておいてくれ。裸馬じゃ戦うには具合が悪い」「トラッシュ、お前――」

 リカルドは何かを言いかけ、しかし黙って頷く。

 ふと見ると、ルーシィが鋭くトラッシュを見つめていた。

「……出るんだな?」

「ああ。……シャルは絶対に取り戻して見せる。あんな男にシャルを渡せるもんか」

 そう言ってトラッシュはエイダの方を向いた。

「エイダさん、あんたは城に戻っててくれ。オレのことは――そうだな。……知らせといた方がいいと思うかルーシィ?」

「いや、やめといた方がいいだろう。お前が助けに来るのを待ちながら今までみたいに悲嘆に暮れるのは難しいだろうからな」

「わたくしもその方がよろしいと思います。姫様には酷ですが……でも、良い知らせは後になればなるほどその喜びも増すというものですわ。――ご心配なく、姫様はわたくしがお守りいたしますから」

「よろしく頼みます。……あいつが、あいつが馬鹿なことしないように、それだけは見ててやってください。それと……これ」

 トラッシュは魔法秘具(ピアス)を渡す。

「シャルに返してやって下さい、これはあいつの物だから。……今度は絶対にアブダラに奪われないように」

「わかりました」

 エイダはピアスを受け取り、頷く。

「それと、前にシャルから聞いたんだけど、あんた確か小っちゃい孫がいるって……シャルに何かあったら、あんたやその子供にまで危害が及ぶから自害できなかったって、シャルは言ってた」

「……はい。あの子たちはわたくしの娘夫婦の子供たちです。姫様はいつもあの子たちのことを案じて下さいました。――わたくしたちがいたばかりに姫様は、苦しい人生を生きつづけることを余儀なくされたのです。……わたくしはいつも、そのことを申し訳ないと思っていました」

 と、トラッシュは首を振って笑った。

「いや、悪いことなんかないさ。あんたがいてくれたおかげでオレはあいつに会えたんだ。オレはあんたに、それと……これはちょっとしゃくだけどあんたを盾にとってシャルを脅したアブダラに感謝するよ」

「トラッシュ様……」

「とにかく、あんたもその子供たちも、オレたちが城に乗り込んだら危険な目に遭う可能性が高い。何か自分を守る術はあるかい?城の外につながる抜け道があるとか、結界をつくり出す道具を持ってるとか」

 だが、エイダは首を振った。

「いいえ、抜け道も結界を作る道具もありません。……ただ、孫のうち二人が精霊使いの秘呪をわずかながら使えます。ファヒド……一番上の兄が〈水〉の秘呪を、一番下の妹……フィトナが〈火〉の秘呪を。ただ、これも上級者(マスター)クラスではなく、ほんの簡単な秘呪だけですので、あまり役に立つかどうか……」

「いや、大丈夫だよ」

「ルーシィ?」

「火の属性だろ。だったら〈発光炎(トーチ)〉が作れる筈だ。水の属性の秘呪〈水護壁〉ならレベルが低くても使える筈だし。――いいかい、エイダさん。オレたちが城へ乗り込んだのは多分すぐにわかるだろう。黙ってこっそり忍び込むつもりはないからな。だから、城の外が騒がしくなったら、真っ先にその……火の秘呪が使えるって子に言って〈発光炎〉を打ち上げさせてくれ。そうすればあんた達の居所がこっちにもわかる。そしたらすぐに家の隅にみんな集まって〈水護壁〉を作るんだ。〈水護壁〉は平面でしかも一方向にしか作れないけど、あとの部分は家の壁で補えばいい。……あんた達の家がどれだけ遠くにあるか知らないけど、オレたちは遅くても乗り込んでから三十分以内にかけつける。それくらいならレベルの低い〈水護壁〉でも耐えきれるだろ?」

 エイダはルーシィの説明に暫く考え込んでいたが、やがてきっぱりと頷いた。

「わかりました。フィトナやカシムはともかく、ファヒドはもうそれくらいの精神力は持っていて当然の年頃です。――下の子ふたりは兵士に怯えるかもしれませんが、なんとか堪えさせてみます」

「ああ、頑張ってくれ。……たとえ自分が助かっても、それで誰かが犠牲になったとあっちゃ、シャルは絶対に喜ばないだろうからな」

「はい。……それではみなさま、よろしくお願いいたします」

「……いよいよ、だな」

 エイダが後ろを振り返りつつ帰って行くと、ルーシィはいかにも楽しそうに言う。

 トラッシュは苦笑して頷いた。

「ああ。……けど、お前とは会ってもう一年になるけどよ、今日ほどお前が剣士だったんだなぁ、って納得した日はねぇよ」

「あ?何が」

「それだけ戦い慣れしてるってこと。……行動は早いしさ、魔法のことも良く知ってるし。オレ、〈風〉以外の秘呪のことなんて全然知らねぇもん」

 するとルーシィはくすぐったそうに笑った。

「何言ってんだよ、お前だっていざとなると結構凛々しいじゃねぇか。さすが、血は争えないよな」

「――やめてくれよ、両親のこと言うの。オレ……まだガキだったし……全然覚えてないんだ。親父のこともおふくろのことも。だからリカルドに教えられるまで自分の背負ってる物、知らなかった。あんな物がオレに託されてたことも、妹がいたことも……リカルドたちが肉親じゃないってことも。……まぁ、聞かされてもあんまりピンとは来なかったけどね。全然覚えてない両親のことなんてさ、人ごとみたいで……だから今まで背負ってる物に縛られたことなんかなかったし、自由に生きてこれた。これが少しでも両親のことを覚えてたりしたら、黙って森の中で暮らしてなんかいられなかったろうけどな」

「そうか……。覚えてないのか、全然。じゃあ、これからが大変だな」

「へっ?」

 ルーシィの真面目くさった声にトラッシュが戸惑いながら聞き返すと、逆にルーシィの方が驚いたように眉を上げた。

「だって、アブダラを退治しに行くんだろ?シャルを助けるだけじゃ済まないんだぜ、そうすると。……もしかして考えてなかったのか?」

「……」

 トラッシュの呆然とした顔に、ルーシィは気の毒そうにぽんぽん、と肩を叩く。

「まぁ、今更どうしようもねぇよな。シャルもいることだし、せいぜい頑張んな」

「……人ごとだと思って……気楽に……」

「人ごとだもん。――パートナーがいなくなって仕事が続けられなくなれば、オレはまた旅に出るだけさ。そうやって暮らしてきたんだからな、今まで。……何だよ、そんな顔するなよ、今生の別れじゃあるまいし。とにかく、今は今のことを考えようぜ。何をどうするかはシャルを助け出した後だ。――ほら、お前はカルマと一緒に行って、あれを自分の体に合わせて来な」

「……わかったよ」

 トラッシュが納得の行かなそうな顔で小屋を出て行くのを、ルーシィは微笑みながら見送った。

「――さて、と。まさかこんなところで鎧を着ることになるとは思わなかったが……よろしく頼むぜ、エアリアル。お前を使ってやるのは五年ぶりだが……かつては宮廷剣士の最高峰までのぼりつめたオレたちの力、久しぶりに見せてやろうぜ」

 ルーシィが腰に差したバスタードソードに話しかけると、その言葉に応えるかのように、剣は塚に埋め込まれたオパールの秘石をきらめかせる。

「……」

 ルーシィはゆっくりと小屋を出ると、剣に手をかけながら鋭くトラキーアの城を睨み付けた。

 トラキーアの城は普段と変わりなく、いや、ルナシエーラの涙を吸い込んで一層静かに、悲しげにそこに佇んでいる……。

 

「いやっ!」

 パシンッ。

 小気味いい音が部屋中に鳴り響き、ルナシエーラは顎にかけられた手を思いっきりはねのける。

 周囲を取り囲んだ兵士たちの、はっと息をのむ声の中、アブダラは赤くなった手をさすりながら、それでも微笑んだ。

「……暫く見ない間に随分と気が強くなったものだな。昔のお前なら、涙を浮かべはしても決して私に逆らおうとはしなかったが」

「わたしに……わたしに触らないで」

「そうはいかん」

 アブダラはそう言うと、兵士に命じてルナシエーラの体を押さえつける。

 そして嫌がる彼女の顎に再び手をかけると、息がかかるほど近くまで顔を寄せ、囁いた。

「お前はわたしの大切な花嫁だ。婚儀の後、決してあの男を思い出さぬように教育してやる」

「や……放して……触らないで!」

 ルナシエーラは必死に身をよじる。

 するとアブダラは愉快そうに笑った。

「心配せずとも、今は何もせぬ。婚儀が終わるまではお前は少女のままだ。……こんなことで目の前にある王位を失いたくはないからな」

 そう言ってアブダラは兵士に目配せし、大きな衣装箱を持って来させた。

「――見るがいい、姫よ。これがお前の晴れの衣装だ」

 兵士がその箱を開けると、中には白いレースが幾重にも使われ、それを彩る為の華やかな宝石や手の込んだ刺繍がふんだんに使われている純白のウエディング・ドレスが入っていた。

「こ、これは……お母さまの――!」

「そうだ。これはお前の母タニアが、お前の父ラフマーン・トラキーアとの婚儀の際に身に着けたウエディング・ドレスだ。……私の生まれ育った国には、娘の婚儀には母が使った物を使うという風習がある。このドレスはお前の母の父親、つまりお前の祖父がはるか遠方の国から仕立屋を呼び寄せて作らせた、この国で一番上等な物。わざわざ新しいものを作ることもあるまい。……お前は美しい。その美しさにはお前の母が着た物が一番相応しい……」

 ふとアブダラは言葉を切った。

 そしてその目が遠い昔から次第に未来の自分の姿へと移っていく。

「……あと数日。あと数日もすればお前はこの衣装を身に着け、わたしの花嫁となる。そして私は晴れてこのトラキーアの王となり、この国に君臨する支配者となるのだ」

「だ……だれがあなたなどを……王と認める……ものですか」

 ルナシエーラは渾身の力を込めて顔を背けながら言う。

 いま一瞬、彼の心の中にある高く頑丈な壁が揺れ、その中がかすかにかいま見えたような気がしたが、それよりも彼女はその手が自分に触れていることへの嫌悪感から逃れようと必死だった。

「王とは……王たる者とは民をいたわり、民を慕い、民を敬う者。あなたのように民を支配し、民を傷つけ、民を蔑むような愚か者に、王たる資格はありません」

 するとアブダラは逆に嬉しそうに笑う。

 自分に敵意を持つ者を無理やり押さえつけ、その力で額ずかせる。それは何物にも代えがたい至上の喜びだった。……特にルナシエーラが相手ではなおさらだ。

「何とでも言うがいいさ。お前がどうあがこうと、どう蔑もうと私が王となる日は確実にやって来る。そして私が王となった暁には、お前は今のお前の信じるすべてが幻であったと、この世のすべてを呪い絶望することになるのだ」

「……わたしは」

 ルナシエーラはきっ、とアブダラを睨み付ける。

「わたしは絶望などしない。わたしは希望を捨てない。わたしはこの世のすべてを、この世に存在するすべての物を信じつづけます。……それが、わたしを守ってくれた人への……わたしを支えてくれた人達へのせめてもの償い。たとえこの世のすべてがあなたの物になろうと、たとえあなたがひとときの栄華を味わおうと、必ず滅びの日はやって来る。己以外のすべてを否定し、己の欲望を満たすことしか考えられぬ愚か者が、他の者を支配し、その意のままに操り続けることなど、決して出来るものではありません」

「それはどうかな。お前の父はどうなった。お前の母はどうなった。すべてを慈しみ、すべてを愛し、すべてを信じていたお前の両親の末路はどうだ。たとえ己のすべてをかけて他を守ろうと、愛そうと、誰もその想いに応えてはくれぬ。表の顔では敬い、慕いながら、その実、裏では皆、蔑みの言葉を吐きつづける。――所詮、人とはそういう物だ。人は力によってのみ支配され、導かれる。金と権力、そして武力。人はそれを望み、それを欲し、その欲望を満たす為だけに生きていくのだ」

「……可哀相な人」

 ルナシエーラは目に涙を浮かべる。

「人は、己以外のすべてを愛し、すべてを慈しむことで己も愛されるもの。力など一瞬の幻、砂の城のようにはかない幻でしかないのです。たとえひとときの間支配できたとしても、その力はいつか滅びる。人々の心の中にはあなたへの憎しみしか残らないのに……どうしてこんなことをするのです。あなたは元々この国の大臣。父に認められた者ではありませんか。そんなあなたになら、こんな簡単な真実は十分わかっている筈なのに……」

 ルナシエーラの頬を汚れのない涙が伝う。

 しかしアブダラはそんな彼女を汚らわしい者ででもあるかのように、顎にかけた手をさっと引っ込めた。

 不愉快だった。

 それは、今の自分を、権力を欲しいままにしている今の自分を昔の、思い出したくもない昔の自分へと引き戻すような目、引き戻すような言葉だった。

「真実など……真実などこの世にはない。たとえ見つけ出したと思っても、それは次の瞬間には幻と消え、後には何も残らぬ。闇だ……この世に唯一信ずることのできる真実……それはすべてを呑み込む暗黒の闇だけなのだ」

 それはルナシエーラに、というよりは自分自身に言い聞かせているような言葉だった。

 ルナシエーラは改めて彼の心を蝕む邪悪な物、闇の世界の強大さを感じていた。

 しかしそれでも彼女は言葉を紡ぐ。

「真実の力……それは闇ではなく、心です。人を信じる心、人を想いやる心。父も母も、確かに死の瞬間は無念だったかもしれない。けれど、人々の心の中には今でも父や母が生き続けています。そして人々に少しでも心がある限り、必ずどこかに二人の意思を継ぐ者が、国を守ろうとする者が現れる。――己の意思を継ぐ者がいる、それがわかっていれば、人は死も裏切りも、滅びの日も決して怖くはない」

「意思を継ぐ者……」

 アブダラはその言葉を反芻し、ふと我に返ったようにルナシエーラの耳に触れた。

「……それはあの男のことか?」

 ぴくん、とルナシエーラが身を震わせる。

 その耳には既に何もつけてはいなかったが、アブダラが例のピアスのことを思い出しながら言っているのは明らかだった。

「あの人は……トラッシュは関係ないわ。あの人は盗賊……普通の人だもの。わたしがこの城にいるとさえ知らなければ何もしない……あの人は今頃わたしを憎んでいる筈です。だから決してあなたに牙剥くことはない。――あの人には手を出さないで」

「そんなに大事か、あの男が。……出会ってからわずか二ヵ月足らずしか共にいなかった者を、なぜそこまで想うことができる。自分の心を引き裂いてまで守るなど、なぜそこまであの男を愛せるのだ。――塔から連れ出した、ただそれだけの男ではないか」

「いいえ……いいえ」

 ルナシエーラは首を振り、目をドレスに向けた。

「確かに最初は、わたしを救い出してくれた、それをあの人を信用する基準にしていました。でも、それは最初だけ。わたしは決してあの人がわたしを助けてくれた人だから愛し

たのではない。わたしを守ってくれるから惹かれたのではない。ただ、そばにいたかった。あの人といるだけで、わたしは自分が王女ではなく、普通の女になれる気がした。恋も愛も、出会ってからの期間なんて関係ないわ。どれだけ相手を強く想っているか、どれだけ相手を強く求めているか、どれだけ一緒にいたいと思っているか、それが大切なのよ。たとえあの人がわたしを救い出してくれなかったとしても、違う出会い方をしていても、それでもわたしはきっとあの人を愛した。――どんなことがあってもこの気持ちは変わらないわ」

「……なるほど」

 アブダラは愉快そうに笑った。

「なにがおかしいの?」

「いや。おかしいのではなく、嬉しいのだ。……そこまで他の男を愛している女を自分の妻(もの)と出来るのだからな。その男に対して感じる優越感はどんな財宝にも引けを取らんくらい私を引きつけるよ。……そして何より、そこまで他の男を愛していながら私の妻とならねばならぬお前の苦しみ、絶望、悲しみが私をさらに喜ばせるのだ。――王と王妃は殺してやった。あとはお前が苦しみの中でのたうちまわれば、これ以上のことはない」

 その目は、すでに正気を保ってはいなかった。

 アブダラの言葉にルナシエーラはおろか、彼の邪悪さを身近で感じている筈の兵でさえおののいたように息を飲んでいる。

「どうして……どうしてそこまでわたしを……いえ、王家を憎むのです」

 ルナシエーラが恐怖に引きつる声でそう尋ねると、アブダラはハッと顔色を変えた。

「どうやら喋りすぎたようだな。私の目的など、お前の知るべきことではない。お前はただおとなしく婚儀の日までにその美しさに磨きをかけておれば良いのだ」

「だれが……だれがあなたの為なんかに……第一、愛する人を遠く離されてどうして着飾ることなどできましょう。たとえ華やかに装おうと化粧をしようと、心の平安が得られぬ以上は、わたしはあなたの望むような花嫁にはなりません」

「……ふむ。ならばそれでも構わぬ。確かにお前は美しいが、私はその美しさを手に入れたいのではないからな。――せいぜい今のうちに今の自分との別れを惜しんでおくがいい。お前がどうあがこうと、どう逆らおうと数日の後にはお前は私の妻となり、半年もすればその身に私の子を宿すことになるのだ」

「……っ!」

 ルナシエーラは思わず目を閉じ、苦しげに喘いだ。

 愛しい人と結ばれる為に着るドレス――しかも母の着た美しいドレスを目の前にしてトラッシュ以外の男の妻となる……そんな光景を思うだけで身がよじれる思いだった。

 トラッシュ……トラッシュに会いたい……。

 ルナシエーラは城へ戻ってきてからずっと頭の中で、心の中で言いつづけてきた言葉を繰り返した。

 彼の温かい微笑みが、仕種が、優しい気配が、声が鮮やかに思い起こされる。

「トラッシュ……」

 ルナシエーラがそう呟くと、アブダラは一瞬不機嫌そうに顔を歪めたものの、ふん、と鼻息をならしただけで部屋を出て行った。

 ガシャン。

 扉の向こうで鉄錠がおりる冷たく重い音がする。

「う……」

 それはルナシエーラの心の中にも冷たく鳴り響き、彼女は堪えきれなくなったように、わっ、とベッドに泣き伏した。

「……姫様。姫様」

 それからどれだけの時が流れたのだろう。

 ルナシエーラは扉の向こうで密かに自分を呼ぶ声がするのに気づいた。

 それが今日は一度も姿を見せなかったエイダであることを知り、ルナシエーラは涙をそっと拭って扉の方へと向かう。

「――エイダ?エイダなの?」

「そうです姫様。……どうなさいました?泣いておられるのですか?」

「……いいえ……いいえ」

 ルナシエーラはこの優しい乳母に心配かけまいと声を立て直した。

「大丈夫よエイダ。わたしなら平気。ところで、今日はどうしたの?昨日の夕方からずっと姿を見せなかったから、心配していたのよ」

「申し訳ありません、少し急用が出来たものですから……。ところで姫様、扉の下をご覧になってて下さい」

「え?」

「わたくし、この間ひろい物をしまして……いま扉の下からそちらへ差し上げますわ」

 その言葉どおり、コトン、と音がして何か小さな物が扉の下から滑り入ってくる。

 ルナシエーラはその包みを拾い上げ、中を開いて小さく喜びの声をあげた。

「これ……わたしの……!」

 もちろん、それはトラッシュがエイダに預けた例のピアスだった。

 エイダはルナシエーラの嬉しそうな弾んだ声に胸をなで下ろす。

 確かにさっき聞こえてきた彼女の声は悲しそうに沈んだ涙声で、トラッシュにも約束した以上、エイダはルナシエーラの精神を守らなければならなかった。

「それ、アブダラが兵士に言って投げ捨てさせた物です。兵士がサボって草むらに投げ捨てたのを、わたくし探して拾っておいたんです。姫様の物に間違いはありませんね?」

「ええ、ええ、そうよ、わたしのピアスよ。……あの人が、トラッシュが買ってくれたピアスなの。――トラッシュ……」

 扉の向こうで、ルナシエーラの懐かしそうな声がする。

 おそらくトラッシュがしたように、ピアスを額に押しつけているのだろう。

 それはルナシエーラにとってもトラッシュとの間をつなぐ大切なピアスであった。

「ありがとう、エイダ。もう二度とアブダラに奪わせたりしないわ。そう、もう二度と……わたしの宝物……」

 もうすぐご本人がいらっしゃいますわ。

 思わずそう言いかけた口を慌てて塞ぎ、エイダは微笑んだ。

 ピアスを取り戻しただけで、ルナシエーラは幸せそうな声をしている。

 これでトラッシュが自分を助ける為に森の中で準備をしていると知ったら……。

 そう思うと、エイダは一人微笑みながら、塔を下りて行く。

 元々エイダは先代、つまりルナシエーラの母親であるタニア王妃付きの侍女だったが、ルナシエーラが生まれてからはずっと彼女の乳母として働いてきた。

 そして母親を亡くしたルナシエーラは今ではエイダの子も同然で、彼女はルナシエーラが幸せになれるなら、先の短い自分の命などすぐに捨てられる覚悟であった。

「姫様……どうか、どうかお幸せになって下さいませ……」

 エイダはそんなことを呟きながら家へ帰って行く。

 そしてそれを一人の兵士……あの親衛隊の隊長が、じっと何かを考え込むように見つめていた――。

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