第9話
「……なあ」
「ん?」
「シャルの奴――遅いと思わねぇか」
一方その頃。
ルナシエーラがアブダラに連れ去られたことなど知る由もないトラッシュとルーシィは、やがて昼食を持って現れるはずの彼女を待って泉のほとりに佇んでいた。
幹に背を預けて草笛を吹いていたルーシィは肩を竦める。
「さあな。オレはシャルに弁当持って来てもらったことなんかないから……いつもはもっと早いのか?」
「ああ。あいつ妙なところで律儀なんだ。昼飯はおろか朝・夕も食事の時間はきっちり同じだよ」
そう言いながらトラッシュは空を見上げる。
「この時間にはもうこっちに来ててもいい筈なんだけどなあ……お前が行った時、あいつもう昼飯作ってたか?」
「いいや、洗濯物干してたぜ。……もしかして量が多すぎて持ちきれないんじゃないか?お前ときたら馬車馬並みに食うからな」
「何を人聞きの悪い。お前の食う量と一体どう違うってんだ」
咄嗟に言い返してからトラッシュは考え込む。
「……けど、そうだよな。オレたち二人の分とシャルの分と合わせたら結構な量になるもんな。――よし、オレちょっと行って見て来るわ」
「お、おい」
ルーシィは慌てる。
「待てよ、スレ違っちまうかもしれないぜ」
「そん時はそん時さ。……お前はここに残っててくれ、家まで行ったらすぐ帰ってくるから」
トラッシュはそう言い終わるか終わらない内に駆け出し、あっという間に木立の中へと消える。
「――やれやれ。またオレが居残り組か」
ルーシィはため息をついて大地に寝ころんだ。
目の前には、痛いくらい真っ青に澄みきった爽やかな空が広がっている。
「人間がどんなに地上で馬鹿なことやってても、自然てのは変わらないんだな――」
そう言ってルーシィはふっと目を閉じた。
瞼にルナシエーラの姿が浮かぶ。
「月のしずく(ルナシエーラ)姫、か――。あれだけの容姿を持ってたら、確かにトラッシュじゃなくても一瞬はボーッとなっちまうよな」
黒壇のように艶やかな長い髪、陶器のように白く、しかし温かみのあるたおやかな肢体、宇宙のように深くベルベッドのように柔らかな黒い瞳。
それは、美の女神が産み落とした子供、という意味を持つ〈月のしずく〉の名に恥じない美しさで、今まで女っけのなかったトラッシュが一目で心を奪われてしまったのも頷けることだった。
「しかし、刷り込みと来たか。――あいつ、気づいてないんだろうな。その言葉が自分自身にも当てはまるってこと」
ルーシィは薄く笑う。
「あいつだって似たようなもんじゃねぇか。四つのガキん時から十三年間もこの森の中で暮らして、周りにいるのはカルマとリカルドだけ。異性に免疫がないのはあいつも一緒だよな」
そう、だからこそ彼は自信が持てないのだろう。
ルナシエーラの思いが本物なのかどうか、そして……自分自身の思いが本物なのかどうか。
「シャルの気持ちがどうとか、恰好いいこと言って……結局、自分の気持ちに自信がないから相手の気持ちも確認出来ねぇんだよな。――男のくせに情けねぇったら」
そう言いながら、ルーシィはかつての自分の姿を思い起こした。
「――まぁ、突っ走るばかりが恋じゃねぇしな。下手に暴走してオレみたいになるより、慎重に育てて行く方がいいかもしれん。……ま、オレの見た限りじゃシャルもトラッシュも、どっちの思いも本物みたいだけどな」
ルーシィはため息をつく。
「あーあ……何だか損な役回りだよなぁ。――オレも、あの頃に今みたいな人を見る目を持ってたら、城を出ずに済んだかもしれねぇなあ」
彼が十七の時に仕えていた城を飛び出し、旅を始めてからもうすでに五年の歳月が経過しようとしていた。
流浪の身となったその瞬間から彼は身分や位などには興味を示さなくなっていたが、この五年という月日はさらに彼の価値観を変えた。
昔の彼は傲慢な人間だった。
いや、少なくとも彼自身はそう思ってはいなかったし、おそらく周りの人間もそうは思っていなかっただろう。
彼は城にいるすべての人間から慕われ、尊敬される一流の宮廷剣士だった。
しかし彼は若さ故にその地位に溺れ、自分の力を過信した。誰もが自分を尊敬している、それが当たり前のことのように感じるようになっていたのだ。
そしてそれがあるきっかけで音を立てて崩れ去ってしまうと、彼は本当の自分を……宮廷剣士となってから見失ってしまった真実を再び見つけ出す為に旅に出たのだった。
「あいつらには……オレみたくなってほしくないよなあ、やっぱり。二人ともいいやつだし――自分を見失って苦しむのはオレだけで十分だよな」
ルーシィにとっては、トラッシュもルナシエーラも年下の弟妹のようなものだった。
年はそう離れていないはずだが、それでも二人はまるで昔の自分を見ているようで、ルーシィはつい緩みがちになる頬を慌てて引き締めることが度々あった。
「オレん時と違ってあいつら本当に好きあってるみたいだけど……せっかく巡り会えた相手をみすみす諦めるような馬鹿はさせたくないよなあ」
いつ頃からかすっかり二人のキューピッド役が気に入ってしまったらしいルーシィは、ふっと微笑む。
「王家の人間なんてみんなくだらねぇ亡者の集まりばっかだと思ってたけど……どうやらオレの価値観もまた少し変えなきゃならんな。――これだから旅はやめられん」
ルーシィが一人でそう言って微笑んだ時、木立の向こうからトラッシュが現れた。
「……おお、ようやく戻ってき――どうしたんだ、トラッシュ?」
ルーシィは、トラッシュのあまりの顔色の悪さに驚いて飛び起きる。
「何かあったのか?シャルは?」
「――行っちまった」
「あ?」
不思議そうに聞き返すルーシィ。
するとトラッシュは虚ろに――おそらく無意識にだろう――その手に持った一枚の紙切れを差し出した。
「なんだ?メモか?」
ルーシィはその紙切れに走り書きされた文面を読む。
「なになに、ええと……
『こんな生活には嫌気がさした。もっと王女らしい生活の出来る国へ逃げます。今までお世話になりました――ルナシエーラ』
……おい、トラッシュ、これ――」
「行っちまったよ。何の挨拶もなしに……突然……」
トラッシュは、もう片方の手に持っていたバスケットを地面に置いた。
「これ……台所に置いてあった。多分、行く前に作ってったんだ。――言ったろ?妙なところに律儀だって」
「な……馬鹿野郎、冗談言ってる場合じゃ――」
ルーシィはそう言いかけて、トラッシュのあまりに虚ろな表情に口ごもる。
「あ……あのさ、これ――これ、きっと何かの間違い……」
「いーんだ、もう」
と、トラッシュが遮った。
「もう……いいんだよ」
「おい、何言いだす――」
「あいつはさ、結局王女様だったんだよ。オレたちが親切にしてたから言いだせなくて我慢してたのさ。――だから、もういいんだ。あいつがそう望んだんだから……オレが止める権利なんかねぇよ」
「お前――お前、本当にそう思ってんのか?」
ルーシィは信じられない、という風に尋ねる。
「彼女が……彼女が本当にこの生活が嫌で逃げ出したなんて……」
「ああ、思ってるさ」
トラッシュは無理やり笑いながら頷く。
「だって道理じゃねぇか。あいつは家事なんかやったこともないお姫様でさ、土台こんな生活に満足するわけなかったんだよ。それに、あいつオレに塔から連れ出して欲しいとは言ったけどよ、庶民になりたいなんて言わなかったもんな。……オレが馬鹿だったのさ、あいつの社交辞令、真に受けてよ。――ハハッ、ばっかだよなーオレって。すっかりあいつの言葉信じちまってよぉ……シャルの奴、困ってたんだろうな、きっと。田舎者にお世辞使ってよ、どうにも引っ込みがつかなくなっちまってさ。……言ってくれりゃ良かったのになあ。遠慮することなんかなかったんだ、たった一言、家事なんかしたくないって言えばオレ、引き止めたりしなかったのに……」
「――いい加減にしろトラッシュ!」
ルーシィはメモを握りしめ、怒鳴る。
「そんな……そんなこと言うなよ、頼むから――。それじゃ……それじゃ、あんまりにもお前が……お前がみじめじゃねぇかよ……」
「いーんだよ」
トラッシュは俯き、後ろを向いて拳を握りしめる。
「もう、いいんだ。さっき言ったろ、オレは、あいつが望む限りはあいつをそばに置いておくつもりだって。でも、あいつ本人がそう望まないのなら一緒にいることを無理強いするつもりはねぇんだ。――あいつを責めるつもりもない。不遇の人生を生きてきたとは言え、あいつは根っからの王女様なんだ。……オレとは違う。庶民の生活に馴染めるわけがなかったのさ――」
「トラッシュ!」
ルーシィは彼の言葉を遮って再び叫んだ。
「もうやめろ!お前、お前本当にそんな風に思ってんのかよ!彼女が――シャルがそんなことする奴だって――こんな風な仕打ちが出来る女だって本当に思ってんのかよ!」
「……」
トラッシュの肩に力が入る。
何か痛みに耐えるようなその姿に、ルーシィはさらに続けた。
「シャルはそんな女じゃない!たとえこの生活が嫌になってても、絶対にお前に黙って出て行くような奴じゃないんだ!大体、彼女のどこにそんな気配があったよ!彼女は、彼女は心底お前と暮らすのを楽しんでた。お前……お前この数日の間、一体彼女の何を見て――聞いてんのかトラッシュ!」
ルーシィは掴みかかるようにしてトラッシュを無理やり振り向かせる。
そしてハッと息を呑んだ。
「トラッシュ……」
その頬に、一筋の光が伝っていた。
その光の粒は幾粒も頬を伝っては地面に落ち、吸い込まれていく。
ルーシィはその姿に思わず手を引っ込めた。
「……てるさ……」
ふと、トラッシュが呟く。
「え?」
それはルーシィに、というよりは自分に言い聞かせているかのように低く微かで、まるで呪文のように聞こえるその言葉にルーシィはじっと耳を傾けた。
「わかってるさ、そんなコト……オレが……このオレがあいつの本心を……あいつのことを思い間違う筈がないんだ!」
感情のたがが外れたようにトラッシュは顔を上げた。
その頬には未だ涙が伝っていたが、瞳の中には先程の虚ろな光はなかった。ただ、苦しみと悲しみに苛まれる子供のような光があるだけだった。
「トラッシュ……」
ルーシィはその肩を抱こうと手を伸ばす。
しかしトラッシュはそれを振り払った。
「あいつは!ああ、確かにあいつはそんな女じゃねぇよ!この生活を楽しんでたかなんて、オレにはわからない。だけど、たとえこの生活に嫌気がさしてても、こんな非常識な仕打ちができるような女じゃねぇことぐらい、お前に言われなくったってわかってるんだ!だけど……だけど……!」
彼はそのまま振り向き、強く握りしめた拳を太い樹木の幹に叩きつける。
枝が彼の代わりに悲鳴のように震え、森は再び静寂に包まれた。
「――あいつが出て行った理由なんて……すぐにわかったさ」
暫くしてトラッシュが、今度は疲れたように呟いた。
「ずっと気にしてたみたいだったから……あいつ、自分がここにいるのはわがままを言ったせいだって……オレが国外脱出しようって言ったのを断ったせいだって……。でも、オレその度に言ったんだ。オレはしたいことをしただけだ、絶対にシャルのせいじゃない。確かに、国外脱出すれば兵士の影には怯えなくて済むようになるけど、今のこの生活と、あいつを国外脱出させることのどちらが幸せかなんて、本人たちの気持ち次第だろ。オレは自分の意志で今の生活を選んだ。だから気にする必要なんてない、って――何度も何度もそう言ったんだ。なのに、あいつは……」
ルーシィは、やっと理解した。
トラッシュが虚ろな表情をしていたのは、ルナシエーラが出て行ったという事実に対してではなかったのだ。
そして多分、最初のやけになったような台詞もまた、彼がショックを受けた本当の理由に対しての、それを誤魔化すための行動だったのだろう。
トラッシュは鼻をすすりあげながら言った。
「あいつは――シャルはオレを守るために出て行ったんだ。オレが……オレがあいつを守り続けることに負担を感じてるなんて……本当に信じて……」
「……」
ルーシィはどう言葉をかけていいかわからず、黙って立ち尽くしていた。
愛する者を守るために立ち上がろう、命すらかけようと思っていた矢先、その愛する者が自分を守るために去ってしまう。
それはどれだけみじめで、情けないことだろう。
ルナシエーラは彼の為を思ってそうしたのだろうが、トラッシュにとって彼女の行為は裏切り以外のなにものでもなかった。
「オレが……オレがそんなに信用できなかったのかよ、シャル……一緒にいようって……お前はオレが守ってみせるって言ったじゃないか。なのに……」
トラッシュはすべての力が抜けてしまったかのように膝を落とした。
「オレは……オレはお前さえそばにいてくれれば、どんなことだって……どんな危険にだって立ち向かえるって思っていたのに……お前もオレを信じて、一緒に困難に立ち向かってくれるって信じていたのに……お前がいなきゃ、オレだって生きてても仕方ないんだ。オレには……オレにはお前が必要なのに……!」
彼は信じて欲しかったのだ。
たとえどんな危険が待ち構えていようと、ルナシエーラと一緒なら何も怖いものなどない。彼女の為ならすべてを――命すら賭けられる。それを信じ、ただ黙ってついてきて欲しかったのだ。
「トラッシュ――」
ルーシィはそっと彼の肩に手をかける。
「ルーシィ」
トラッシュは涙でくしゃくしゃの顔をしながら彼を見上げた。
「オレ……オレ、そんなに頼りないか?オレが盗賊だから……だからあいつはオレを信じてくれなかったのか?オレが……オレがもしこんなになってなきゃ……十三年前、リカルドたちに引き取られるようなことにさえなってなきゃ、あいつはオレを信じてついてきてくれたのか?なあ、教えてくれよ、ルーシィ!」
トラッシュはわっとルーシィの胸に飛び込み、その拳で彼の胸板を幾度も叩く。
「どうして……どうしてこんなことになっちまうんだよ!どうして……どうしてオレは盗賊なんかに……こんな風になっちまったんだよ!オレは……オレは誰を恨めばいいんだよぉっ!」
「トラッシュ……しっかりしろトラッシュ」
ルーシィは激しく身を震わせるトラッシュの頭をそっと撫でながら呟いた。
「誰も恨むことなんかないさ。シャルが好きになったのは今のお前だ。十三年前に両親を亡くし、リカルドたちに引き取られて育ったからこそ、今のお前があるんだ。両親を恨むな。リカルドたちを責めるな。……自分を憎んじゃいけないんだ」
「ルー……ぐすっ……シィ……ひっく」
「泣きたいなら思い切り泣けばいい。男だからとか大人だからとか、そんなモン関係ない。悲しみをこらえるのも一つの術だが、思いきり泣いて吹っ切っちまえばお前はまた強くなる」
その言葉に、完全に感情のコントロールを失ってしまったのだろう。
「ふっ……うっ……んぐっ……うっ……う……うわああぁっ!」
トラッシュはその両手でルーシィの胸元を強く握りしめ、身を切るように痛む胸の内をすべて吐き出すように泣き崩れた。
「……強くなれ、トラッシュ。また同じ苦しみを味わなくて済むように。……どれだけ時間がかかっても、決して逃げ出さないでな」
そんなトラッシュを優しく抱きながら、ルーシィは静かに言葉をかけ続けていた――。
しかし、それからと言うもの、トラッシュはすっかり人が変わってしまったかのように荒れた生活を送りはじめた。
「……っらねぇよ、こんらモン!」
目は据わり、顔を真っ赤にしてトラッシュはそれをはね上げる。
「何するんだいトラッシュ!」
せっかく持ってきた料理を台無しにされ、カルマがそう叫んで詰め寄ると、トラッシュはさらに語気も荒く叫んだ。
「るさい!オレが何しよーとあんたらに言われっ筋合いはねえ!……っく……ふうっ……ひいっく……とにかく、持って帰れよそんらモン。そんれ、もう二度とオレの前に現れるな!オレは……オレはもう誰にも会わねーって決めたんら!」
「トラッシュ!」
カルマは悲鳴に近い声をあげる。
「いい加減に目を覚ましておくれ!お前のそんな姿、あの子が喜ぶとでも思ってんのかい!」
「るせえっ。いーか、あいつはらー、あいつはオレを見限ったんら。そんな薄情な奴にどー思われよーと知ったころかよ……ひっく……んっ……どーせオレは盗賊なんら、あんなお姫さまに好かれよーなんれ思ったのが間違いらったのさ。……アブダラに逆らおうなんて、もうちょっとれ馬鹿なことしでかすとこらった。オレは一生この森で静かに暮らすって誓ったのに……へん、せんそーなんれクソくらえ、ら!」
目の前がぐるぐる回っていた。
普段飲み慣れない酒は彼の体を完全に支配し、彼はその感覚に喜んで身を委ねていた。「きもちいーんら、邪魔しないれくれよ。目の前なーんにもわかんねーんだ。ぐーるぐる回っちまってよぉ。へへへ、全部まざって見えやがる。オレの周り、何でもあるけど、でもなーんにもねぇんだ」
「トラッシュ……」
カルマは彼のあまりの姿に膝をついて泣きだした。
「あんたって子は……」
カルマにもわかっていた。
彼が昼間から――いや、今は朝から浴びるように酒を飲み、それ以外の物は何も口にせずに泥酔状態でいるのは、現実から目を背ける為だ。
酔うことですべての景色を一体化させ、自分の周囲から消し、そうすることで彼は現実から幻覚の世界へと逃げ込んでいるのだ。
酔っていれば何も見ずに済む。周りの景色も、現実も。そして何も見なければ何も感じない。
ルナシエーラがそばにいない。その絶望感も。
トラッシュは千鳥足のまま新しいワインのボトルを空け――これで今日五本めだ――、がぶがぶと一気に飲む。
その殆どが彼の口に入らず床に飲み込まれたが、それでも彼は嬉しそうに笑った。
「トラッシュ……お願いだ……お願いだよ、もうやめとくれ、これ以上……これ以上こんな生活を続けたら、あんた……あんたまで壊れちまうよ……」
「トラッシュ!」
と、そこに別の人間の声が響いた。
「んー?」
トラッシュは虚ろな目で扉のほうを向く。
それは原型をとどめないくらいぐにゃぐにゃと歪んで見えたが、それでもその声で彼は人影が誰か判別した。
「なんら、何の用らよ、りかるろぉ」
リカルドはトラッシュのあまりに不甲斐ない姿に目を見張り、つかつかと小屋の中へ入ってくる。
「まだ昼にもならんというのにお前は――よこせ!酒はもうやめるんだ!」
「やら!やらよん、誰がやるもんか。へへーだ、怪我が治ったばっかのくせにオレをつかまえよーなんれ十年早い――あれ?」
トラッシュは素早く身をかわそうとし、ぺたん、と椅子にへたりこむ。
「あれれ~?体が動かねーや。おっかしーらあ」
「……お前という奴は、何と不甲斐ない……お前の両親が今のお前を見たらどんなに悲しむか……」
「なんらよ、お前までそんらコト言うのか。おやじもおふくろもシャルと一緒ら。二人ともオレを見捨てたんら。そんな奴らにどー思われよーと、オレの知ったこっちゃない」
「トラッシュ――」
「あいつらはオレを捨てたんら!オレを捨てて先に死んじまったんら!そんな奴ら、誰が親だなんて思うか!」
「トラッシュ!」
カルマは思いっきりトラッシュの頬を引っぱたいた。
「ってー……」
「あんたは!あんたはあのお二人の忘れ形見なんだよ!大切な、大切な一人息子なんだ!お二人にはあたしら夫婦、とてもお世話になった。だから、あたしら二人とも一生懸命あんたを育てたって言うのに――しっかりしとくれよトラッシュ!あんたがこんなじゃお二人も浮かばれないよ!」
「んなモン関係ねー!大体、オレは一人っ子じゃねーんら。会ったこともねーけろ、妹がいるんらろ。……らったらオレがどーなろーと、そいつに頼ればいーじゃねーか」
「トラッシュ!」
「あーもう、うるさいうるさい!いーから帰れよ!オレを一人にしといれくれよ!」
トラッシュはそう言って、語尾をぽつりと呟く。
誰にも聞き取れないように。自分の耳にすら届かないように。
「頼むから……頼むからオレを自己嫌悪の海に溺れさせといてくれよお」
酔えなかった。
どれだけ飲んでも。心だけは。
体はもう自己の抑制が出来ないほど酒に支配されている。
けれど、心の痛みだけはどうしても消すことが出来なかった。
現実から逃げることは出来る。周囲の事実から目を背けることも出来る。
しかし、心の声を黙らせることはできなかった。
「あいつは……シャルは安全なところへ逃げたんら。なら、それでいーじゃねーか」
トラッシュはぽつりと呟く。
そして再び酒を煽った。
情けなかった。
ルナシエーラが、愛しい人が安全な場所へ逃げた。幸せに暮らせる場所へ去った。
それを心から喜べない自分が。
「オレって人間は……結局こんな奴なんら。自分勝手で利己的で……オレは自分のことしか考えられねー奴なんらよ、シャル……。お前はわかってたのか?オレがこんな奴だってこと……だから行っちまったのか?もう、そっちでいい男、出来たんらろーなあ」
自己のコントロール下を離れた目から、止める間もなく涙があふれ出る。
「トラッシュ……」
驚いたような声のカルマたちに、トラッシュは慌てて顔を拭った。
「へへへ……酒のむと涙腺ゆるくなるんらなあ。へへぃ、酒が目にしみるぜ。……おぅ!渋いなあ、恰好いーらあ、この台詞!」
トラッシュはけたけたと子供のように笑い転げる。
「悪ィなあリカルド、オレやっぱあれ使えねーよ。親父から受け継いだ物だから捨てるつもりはねーけろよ……でもやっぱり使えねー。オレ、この森ん中でおとなしくしてるよ」「……」
その言葉に、リカルドもカルマもため息をついた。
それは十三年前、彼の両親からトラッシュを預けられた時に彼ら自身が誓ったことであったからだ。
彼の両親から例の包みとともにトラッシュを預けられた二人は彼が物心つく頃にその品の持つ意味と真実をトラッシュに告げたが、その真実にとらわれず、ただ自由に一人の人間として幸せをつかんで欲しいと二人はずっとそう思って彼を育ててきたのだ。
「……確かに、確かにわたしたちはお前を普通の子供と同じように育ててきた。たとえどんな真実を持っていようと、お前はお前だ。だからわたしたちは真実に縛られて生きるより、普通の人間として生きられるようお前を育てたのだ。――だが、だがその普通の人間としての生き方とは、決して今のように現実から逃げ続ける、弱い人間になれということではなかった筈だ……!」
「……フン」
トラッシュがふてくされたようにそっぽ向いた時、入り口の方に新たな人影が現れた。「――その通りだ」
「ルーシィ!」
入り口を振り向いたリカルドとカルマは驚いたようにルーシィを見つめる。
ルーシィは二人に軽く頷くとトラッシュの前に立った。
「……なんら、ルーシィじゃねーか……ん?……何らよ、なんれそんな恰好……してんら、お前――」
ルーシィはその長い髪を後ろで一つに束ね、額には前髪を押さえるようにバンダナをしている。そしてその体には彼専用の鎧を着込み、手にはかつて宮廷剣士であった頃、彼が愛用していた名剣『エアリアル』を携えていた。
「なんら……まるで戦争にでも行くよーな恰好らな」
トラッシュの言葉に、ルーシィは台所からバケツ一杯の水を持ってくる。
そしてそれを振り上げ、言った。
「ああ、そうだ。行くんだよ、戦争に」
バシャッ。
途端にバケツの水がトラッシュを襲う。
「ぶわっ」
トラッシュはズブ濡れになった頭を振りながら立ち上がった。
「な……何すんだよルーシィ!」
「――正気に戻ったか?まったく……いい年した男がいつまでもぐずぐずと泣き言並べてんじゃねーよ」
「んだとぉ!お前に何がわかる!」
「ああ、わからないね。わかりたくもねーよ。惚れた女が出てっちまったからって八つ当たりするよーな情けねぇクズ野郎のことなんかよ」
「っめえ……わっ」
トラッシュはルーシィにつかみかかろうとし、逆にあっさりと胸ぐらをつかまれてしまう。
「……なせ……放せよ……放せえっ!」
パシィィンッ。
その瞬間、トラッシュは思いっきり張り飛ばされ、まともにテーブルに突っ込んだ。
「トラッシュ!」
カルマが心配そうに駆け寄ろうとする。
それをリカルドが抑えた時、トラッシュが頭を振りながら立ち上がった。
「ってー……ちくしょお……」
「言っとくがな。オレはリカルドたちみてぇにお前を甘やかしたりしねーぞ。普段のお前ならともかく、今のお前じゃオレどころか町のチンピラにすら勝てやしねーよ」
「るさい!」
トラッシュは頭からルーシィに突っ込んで行く。
しかし彼はあっさりと身をかわし、再びトラッシュは頭から倒れ込んでしまった。
「……くっそお……」
トラッシュはそれでも殴りかかるのをやめようとはせず、幾度も突っ込んで行っては幾度も転び、倒れこむ。
最初は身をかわすだけで何もしようとしなかったルーシィだが、遂にその剣に手をかけ、起き上がろうとしたトラッシュの喉元にその切っ先を突きつけた。
「……ぐっ……」
トラッシュは一瞬身を硬くし、次の瞬間には疲れたように息を吐く。
「――刺せよ。そうすりゃオレはこんな人生とはおさらばだ。……いいよ、殺せよ」
「!お前ってやつは……!」
その言葉に、ルーシィは剣を思い切り振り上げた。
「ルーシィ!」
カルマの悲鳴が宙に舞う。
その瞬間、彼の剣はトラッシュがもたれていた壁の、トラッシュの首からほんの数ミリしか離れていないところに深く突き立っていた。
「……え?」
ギュッと目を閉じていたトラッシュは、剣が板に刺さる音で目を開く。
その戸惑ったような表情の彼に、ルーシィは胸ぐらを締め上げて叫んだ。
「いい加減にしろトラッシュ!いつまでスネてりゃ気が済むんだよお前は!お前はそうやってずっと荒れ続け、自分を苛め続けて、お前を守る為に死ぬ思いで犠牲になったシャルの気持ちを無駄にする気なのか!」
「ルーシィ……」
トラッシュは、今までで一番――いや、今まで想像すらしなかったほどの凄い形相をしたルーシィに息を呑む。
そして暫くたってから、彼の言葉の最後が脳裏に届いた。
「……シャルが……何だって……?」
トラッシュはルーシィを見上げる。
「シャルが……あいつがどうしたって言った今……?あいつは、だってあいつは安全な場所へ逃げた筈……どうして犠牲なんて……」
「――どうやら正気に戻ったようだな。まったくお前は世話の焼ける……さあ、入って下さい」
ルーシィは振り返り、戸口の方へ声をかける。
すると、扉の向こうからまた別の人影が現れた。
「だれだ……?」
トラッシュは未だかすんで見える目を細めながら人影を見る。
それは、どうやら一人の老婦人のようだった。
「――初めてお目にかかります、トラッシュ様」
「……へ?」
トラッシュは、その声に聞き覚えがあった。
どこかで……そう、いつかずっと前にどこかで聞いたことのある声……。
「さっきリカルドたちの小屋へ行ったら、この人が待ってたんだ」
ルーシィの言葉にその老婦人は頷いた。
「トラッシュ様に……わたくし、どうしてもトラッシュ様にお会いしなくてはと思いまして……」
「あんた……ちょっと待ってくれ、オレ……あんたの声どっかで……どっかで聞いたことある気がする……」
トラッシュは強く頭を二、三度振る。
さっきのバケツの水のおかげか、それとも元から強い体質だったのか酔いはすでに殆ど彼の体から消えている。
しかしそれでも頭はまだぼんやりと霞んでいた。
と、老婦人は笑う。
「そうですわ。わたくし、一度トラッシュ様にお会いしてる筈です。……いえ、正確に言うとわたくしではなく、トラッシュ様の方が一方的にわたくしの声を聞いていただけですけれど」
「……んー……」
トラッシュは一生懸命考え込む。
少しずつ少しずつ、頭が回転を始めていた。
「えーと……んーと……んー……と……えと……あ!」
トラッシュは、突然浮かんだ記憶にパッと顔を上げる。
「思い出した、あんた!」
トラッシュは驚きを含んだ声をあげた。
「あんた乳母の人だろ、シャルの!」
トラッシュがそう叫んで彼女を指さすと、老婦人――エイダは微笑みながらゆっくりと頷いた。
そんな二人の様子を、リカルドとカルマは何がなんだかさっぱりわからないまま、ただ交互に見比べていた――。
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