第8話
「なに?姫が見つかっただと?」
――時は少し逆上って、数日前。
まだリカルドたちの小屋が襲われる前、つまりルナシエーラがトラッシュの元へ行き、自分の想いを告白する前のことである。
大臣は、ウィスタリアの森の奥深くで生活する老夫婦のもとに来た少女がどうやらルナシエーラであるらしい、という報告を配下の者から受けていた。
「……はい。この間トラキーアの下町で情報が入りました。なんでも、美しく世間知らずな少女をさらおうとしたチンピラ数人が、やたら強い身軽な少年にのされたとか。どうやらその少女が姫様らしうございます」
「そうか」
大臣は少し考え込む。
ルナシエーラが塔から消えて、既に一ヵ月。彼女が二十才になる誕生日――つまり結婚式の日は刻一刻と近づきつつあり、大臣はやや焦心を覚えながらトラキーア全土を捜し回っていた。
「……南へ脱出したらしいという噂を聞いた時は肝を冷やしたが、どうやらデマだったようだな」
「はい。閣下の的確な判断ですぐさま国境には監視がつきました。一介の盗賊風情が突破できる筈もございません」
「そうだな。……だが油断は禁物だ。そのウィスタリアの森とは国境近くにある森だろう。確かあそこは元ウィスタリア王家専有の狩場でかなり規模が大きい筈だ。下手をすればウィスタリア経由で南へ逃げられる可能性もある。他の隣国ならともかく南――海を越えられたらさすがの私でもなかなか手を出すのは難しくなる」
アブダラがそう言うと、配下の兵は心得たように頭を下げた。
「承知しました。それでは早速親衛隊を引き連れ姫様を連行しに参ります」
「いや、ちょっと待て」
「は?」
兵士は戸惑ったように聞き返す。
大臣は暫く玉座の周りを歩き回っていたが、突然ぽん、と手を打った。
「姫は、まだとらえずとも良い」
「ですが閣下――」
「まあ、聞け」
アブダラは玉座に腰かけると腕を組んだ。
「姫を連れ去った盗賊は塔の屋上から〈風〉で逃げたらしいと報告を受けている。あの高度からウィスタリアの森まで逃げるにはかなり高位の精霊を使役する必要がある筈だ」
「はい、シルフを呼び出したらしいと思われますが」
「うむ、だからこそ迂闊に手は出せんのだ。……いいか、召喚魔法というのは力を持った精霊を呼び出す分、一般人にも簡単に使える反面かなり危険な魔法でもある。精霊すべてがおとなしく善良であるとは言えぬから、その精霊を使役するにはかなり強い精神力が必要となり、その力は呼び出す精霊のレベルによってより多く必要になってくるのだ。――姫をさらった盗賊がどれほどの腕を持っているかはわからんが、自然界の四大精霊の一つである風の精霊シルフを使役したとなると少なくともその精神力は絶大だ。おそらく何かしら武道をかじっているだろう。シルフを従えるほどの精神力は何もしていない凡人が持てるようなレベルのものではないからな」
「はあ」
「それにもう一人の長身の男もかなりの手練だったそうではないか。我がトラキーアの正規兵を相手にただのサーベル一本で互角に渡り合ったそうだな」
「はい。少なくとも一度に五~六人は同時に切りかかっている筈ですが、その男の通った後には、切り傷一つつけられずただ殴られて気を失っただけの兵士がバタバタと倒れておりました」
「そんな奴らを相手に回して、お前たちは勝てるか?」
アブダラの言葉に、兵士たちはいきり立った。
「もちろんでございます、例え何人犠牲となろうと閣下のお望みのままに姫様は連れ戻してご覧に入れ――」
「馬鹿者、志願兵ならともかく、お前たちは一人も欠けることは許さん」
一言でそう言いきると、アブダラは黙り込んでしまった兵士たちに笑いかけた。
「だからこそ待てと言ったのだ。そんな腕の立つ人間相手に真っ向から挑むなど馬鹿のすることだからな」
「……と言いますと?」
「頭を使えと言っているのだ。――いいか、まずは森の中を密かに、しかし徹底的に探せ。必ずどこかに姫の身につけていた装飾品の類が埋まっている筈だ。姫の装飾品にはダイアモンドの秘石が使われているから、属性感知能力のある占い師か見通し屋を連れていけば大凡の見当は付くだろう。ウィスタリアの方ではここ数日大雨が続いているようだから地面もぬかるんで探しやすくなっている筈だ。そして証拠の品を見つけたら姫がいないのを見計らって小屋を襲え」
「姫様がいないのを……ですか?」
「そうだ。もちろん、それを小屋の住人に気取られてはならんぞ。たまたま姫がいない時に来た、という風に振る舞え」
「ですが閣下、そんなことをすれば老夫婦はとぼけるに決まって――」
「だから良いのではないか」
「は?」
訳がわからない、という感じの兵にアブダラは苛立たしげに続ける。
「いいか、老夫婦がとぼけたら少し痛めつけてやれ。ただし決して死なんようにな。そして時間を稼げ。おそらく姫は一人で外出はせんだろう。盗賊たちのどちらか、或いは二人とも姫のそばにいるはずだ。そして小屋が襲われたのを知れば姫はその盗賊のどちらかの元へ避難する。……それが狙いだ」
「……なるほど。つまり姫と盗賊の二人きりになるのを待てと……」
「そうだ。いかに盗賊たちが強いと言えど、二人きりになれば必ず姫を一人にする機会もある。そして一度小屋を襲って引き上げておけば奴ら安心するだろう。……今はとにかく姫を連れ戻すことが先だ、盗賊の始末は婚儀のあと考えればいい」
アブダラはそう言って笑うと、ワインをすすった。
「うまく間抜けな兵士を演じろよ。――いや、それよりも志願兵を使った方が確実か。それから一応ウィスタリア方面の森の出口を押さえておけ。姫のことだ、おそらく親切にしてくれた人間の元を離れようとはしないだろうが、万が一のことがあるからな」
「わかりました」
兵士たちが頷いて去って行くと、アブダラは余裕の笑みを浮かべた。
「……もうすぐだ。もうすぐ私の望みが果たされる。――間抜けな盗賊たちなどに邪魔はさせぬわ」
ルーシィが聞いたらさぞ悔しがるであろう台詞をアブダラは吐く。
――だが、彼の言うことももっともだった。
ルーシィたち人間の手によって地中深くに埋められた物が、いくら大雨が続いたからと言って犬などに掘り起こされるわけがないし、いくら弱い兵士たちでもルナシエーラの気配にすら気づかないわけはなかったのだ。
そしてそこまで疑いを持っていながら彼らがおとなしく引き上げるわけもない。拷問の道具など、今やこの城には掃いて捨てるほどある。
それを考えようともせず、あっさり兵士たちを間抜け扱いしたのは、明らかにルーシィの手落ちだった。
「――自分の娘が窮地に立たされているというのはどんな気分だね?王よ、王妃よ」
アブダラは玉座の後ろにかかる国王夫妻の油絵を眺めながら呟く。
「私はいい気分だぞ。もうすぐ、そう、もうすぐ私の夢が果たされるのだ。――せいぜい天国(そこ)で悔しがり、悲しむがいい。貴様たちの苦しむ顔こそ、私にとって最大の喜びなのだからな」
そう言ってアブダラは、狂気に満ちたその目でいつまでも油絵を眺め、一人笑みを浮かべていた――。
――時は流れてここはトラッシュの家。
ルナシエーラは台所でせっせとトラッシュの昼食を作っていた。
「……これで足りるかしらね」
最初は信じられなかった。
どう見てもルナシエーラ一人分の十倍はある料理を、トラッシュはいつもあっという間に平らげてしまうのだから。
唖然とした表情を浮かべるルナシエーラにカルマは大笑いしたものだったが、ルナシエーラはいまだにトラッシュの胃の許容範囲を把握しきれずにいた。
「多分ルーシィさんも一緒に食べていくつもりだろうから……もうちょっと作っておいた方が無難よね。下手をするとわたしの分がなくなっちゃう」
ルナシエーラも塔を出て生活するようになってからかなり食べる量が増えた。
と言ってもこちらはやっと平常になった、といった方が正しいだろう。何しろ彼女は日光も十分に浴びられず、狭苦しい部屋に押し込められていたのだ。それで人並みの食欲があったらそれこそ普通じゃない。
それでも、ルナシエーラは最近立派になってきた自分の体格を気にしていた。
「トラッシュの食べるの見てるとつい、つられちゃうのよね……。やだわ、トラッシュより重くなっちゃったらどうしよう」
真剣にそんなことを呟きながら最後のパンを詰め終わると、ルナシエーラはふと家の外に人の気配を感じて振り返った。
「トラッシュかしら?ちゃんと頼んでおいたのに、ルーシィさんお弁当のこと言い忘れたのかしら」
そう言ってルナシエーラは扉を開けた。
「……あ……」
彼女は目を疑った。いや、信じたくなかった。
自分を包み込んでいた幸せが、いま音を立てて崩れていくのを、ルナシエーラは成す術もなく感じていた。
「――ようやく会えたな、姫よ」
そこにいたのは、間違いなく、間違いようもなくアブダラ・マクミール本人であった。「ア……アブダラ……」
「私の名を覚えていてくれたか。下賤の者に染まってすっかり自分の身分を忘れているかと思ったぞ」
「身分など」
ルナシエーラは恐怖に震えながらも無意識に言葉を紡ぐ。
「身分など愚かしいただの幻想です。我がトラキーア王家は民を守るために存在するのであって、決して民を支配し、権力を振りかざすために存在しているのではありません」
「……腐っても鯛ということか。十三年も前に失っていながら、両親と同じ考えを持っているとはな」
アブダラは不愉快そうに呟く。
その言葉は、彼のかつての姿とともに一人の人間を思い起こさせた。
不愉快だった。
「だが、今のトラキーアは違う。今のトラキーアを支配しているのは私だ。お前がどんな考えを持っていようと、今の王家は民を支配し、権力を振りかざすために存在する。……お前の体に流れている王家の血を、下賤の盗賊風情に汚させるわけにはいかん」
「何をどう考えればそんな傲慢な考え方が浮かんでくるのかわからないわ。あなたのどこに彼を蔑む権利があるというんです」
ルナシエーラはそう言いながらさりげなく周囲を見回す。
数十人の兵士が――それも正規兵ではなくアブダラ直属の志願兵が――彼女をぐるりと取り囲んでいた。
これでは逃げることも出来ない。
大声をあげてトラッシュたちを呼ぶことも出来たが、自分が人質に取られてしまえば彼らが抵抗できないのは間違いなかった。
考えがすっかり顔に出ていたのか、アブダラはルナシエーラの思考を読み取って笑う。「どうやら少しは頭が回るようになったらしいな。……お前がどれほどあの者どもを大切に思っているかは知らんが、傷つけたくないならおとなしくした方がいい」
「……トラッシュを――あの人達を傷つけないで」
「お前は誤解している」
アブダラは物分かりの良さそうな顔で言う。
「私の望みはお前が城に戻ることだ。何も死人を増やしに来たわけではない。あの者たちが何もしなければ、こちらから仕掛けはせんよ」
そう言いながら、アブダラはさも今思いついたかのように手をぽん、と打った。
「そうだ、メモを残しておきなさい。文面は……そう、わたしのことは心配するな、この生活がいやになったから国外に出る、とかなんとか」
「どうしてそんなこと……!」
「そうしなければ奴らは城までやってくるぞ、お前を助けにな。――お前はそれを望むのか?」
アブダラの言葉に、ルナシエーラは黙りこんだ。
確かに彼の言うとおり、このまま黙って彼女が消えればトラッシュたちは間違いなく事態を察知し、城へ乗り込んでくるだろう。
いくら彼らが強くても二人だけでルナシエーラを救い出せるほど、トラキーアの兵士は間抜けではない。
ルナシエーラは仕方なく頷いた。
「よろしい。では早速メモを残してきなさい。言っておくが逃げようとしても無駄だ、この小屋は兵士が取り囲んでいる。蟻一匹逃げ出す隙もないぞ。……それにしても思い切ったことをしたものだ。盗賊の手を借りて逃げ出すとは、さすがに驚いたぞ」
アブダラは笑う。
「盗賊などを信用するとは……お前の人のいいのにも呆れたよ」
「わたしは自分の目を信じています。あの人は決して悪人じゃない。だからこそ頼ったのです」
ルナシエーラは淡々と話す。それは普段トラッシュたちに見せている少女の顔ではなく、威厳に満ちた王女そのものの姿だった。
「あの人が部屋に入ってきた時、わたしは眠っていた。わたしが彼に気づいたのはそれから暫くたってからで、あの人がそうしようと思えばわたしを殺して身を潜めることだって簡単だったのに、あの人はそうしなかった。いえ……と言うより、そんな考えは砂粒ほども彼の中にはないのでしょう。それに――あの人はとても綺麗な目をしていた。このすさんだ時代を生き抜いてきた意志の強そうな瞳の中には、海のように深く寛大な優しい光があった。……そう、お父さまと同じような……」
「だから愛したのか、その男を」
アブダラは決して不愉快そうではなく、むしろ楽しげにそう言った。
「王と同じ目をした男か。娘は父と同じような男を伴侶に求めるというのは本当なのだな。……だが、お前の愛が、その恋が実ることはないのだ」
「……」
ルナシエーラはギュッと拳を握りしめた。
トラッシュと離れてしまう。それを考えただけで彼女の心は引き裂かれるように痛んだ。
「――もう二度と逃げ出そうなどと考えるな。お前が少しでも逆らえばお前の周りの人間がどうなるか、忘れたわけではあるまい」
「!まさかエイダに何か……!」
ルナシエーラはハッと顔を上げる。
元々、彼女が自害できなかったのは、そうしてしまえば彼女だけではなく、エイダやその三人の孫たちにまで危害が及ぶと常日頃アブダラに脅されていたからであった。
だがアブダラは笑う。
「私は気が長い方なのだよ姫。……あの乳母ならまだ無事だ、姫の世話役を失いたくはないからな。――だが、二度はないぞ。今度お前が私に逆らえば、あの女はおろかその孫も、それだけではない、あの盗賊も老夫婦も無事では済まさん」
「……わたしが城に戻れば、あの人には手を出さないのね」
「ああ、そうだ」
「――わかりました」
ルナシエーラはメモを書きおえると頷き、その風景をしっかり瞼に焼き付けるようにゆっくりと部屋を見回した。
……さようならトラッシュ。わたし絶対に忘れないわ、あなたを、あなたと過ごしたこの部屋を、この数日間のことを。わたしは――わたしはこの思い出を宝物にして生きていきます。
ルナシエーラの頬を涙がとめどなく伝った。
アブダラはルナシエーラのそんな表情を嬉しそうに見つめ、言う。
「――さあ、行こうか姫」
そしてルナシエーラはアブダラの馬に乗り、城へと戻って行った――。
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