第7話
「ふう」
トラッシュは野菜を洗い終えると顔を上げた。
空はこの間からぐずついていたのが嘘のように爽やかに晴れ上がり、腰かけて足を突っ込んでいる泉の水はほんのりと温かみを含んで心地よい。
森の中を吹き過ぎて行く風にほんの一瞬目を閉じて身を任せると、トラッシュは立ち上がった。
「そろそろシャルも買い物から帰って来てる頃だな。――今日は久しぶりに天気もいいし、一緒に泳ぐか」
トラッシュはふと泉の中ではしゃぐルナシエーラの姿を思い起こし、微笑んだ。
もちろん最初彼女は泳ぐことなど出来ず水際でぱしゃぱしゃやっていただけだったが、トラッシュがふざけて水の中に引っ張り込むとその驚くべき運動神経ですぐさま泳ぎをマスターし、最近では人魚のように水面と同化して見えることすらあった。
「あれからもう一ヵ月か――」
泉のほとりに立つ木の枝にかけておいた数羽の獲物を肩に担ぎ、自分の家へと向かいながらトラッシュは独りごちる。
彼は、この一ヶ月ずっとジレンマに悩まされてきた。
初めてルナシエーラに出会ってから芽生えた淡い感情――守ってやりたい、放っておけないという想いはこのひと月の間に少しずつ高まり、トラッシュはなかなかルナシエーラを国外脱出させられずにいたのだ。
それが彼女にとって最善なのはわかっていた。大臣の手の届かない場所まで逃げれば、彼女はその影に怯えながら暮らさずに住む。少しはトラキーアのことが気にかかるかもしれないが、やがてはそれを忘れさせ、幸せにしてくれる男にもめぐり会えるだろう。
だが、彼はそれを考えるたびに自分の心がキリキリと鋭くねじれるように痛むのを感じていた。
手放したくない。ずっと、ずっとそばに置いておきたい。
それはともすれば傲慢とも受け取れるような感情かもしれなかったが、トラッシュは振り返るといつもそこにあるルナシエーラの微笑みを、いつまでも自分だけの物にしておきたかった。
「どうしちまったのかな……オレは」
自嘲するように笑いながらトラッシュは首を振る。
自分の人生の中に他人が割り込んでくることなど、一生ないと思っていた。彼は自分の人生を生きることで精一杯だったし、自分のような人間が誰かを愛し、守ることなど許される筈がない、と。
しかし実際には彼はルナシエーラを守り、保護してきた。それはまるで大昔から決められていたことだったかのように自然に、空気のように彼の生活に溶け込み、ルナシエーラはすっかり彼の中で大きな存在になっていた。
恋……そう呼ぶにはあまりに切なすぎる感情だった。兵士の影に怯え、自分の背負った宿命に苦しむ彼女は、自分が欲望の赴くままに求めればそれだけで壊れてしまいそうなほど儚く見えた。
彼女は全面的に自分を信頼してくれているが、それはナイトとしての彼をであって、その信頼につけこむような真似など出来よう筈もなく……結局、彼は前に進むことも後退することも出来ず、この曖昧な関係で満足するよりほかなかったのだ。
「……ん?」
その時、トラッシュは風の流れを感じ取った。
魔力はないが風の属性を持つ彼は、風のちょっとした流れにも敏感に反応する。
それは間違いなく〈風〉の秘呪の気配で、トラッシュは本能的に身構えた。
「あれは……」
前方に、白っぽい影が見えた。どうやら人間らしいその影はトラッシュの家の方角に向かっている。
トラッシュは慌てて後を追った。
「シャル!?」
影に遅れて家に着いたトラッシュは、心配そうにそこに佇むルナシエーラを見つけ、驚いたように駆け寄った。
「どうした?ルーシィと一緒じゃなかったのか?」
「トラッシュ……」
ルナシエーラは静かに彼に身を寄せると、その胸に体を預ける。
「シャル……?」
トラッシュは戸惑いながらもその肩に手を置き、そして彼女が震えているのを感じ取るとすぐさま事態を理解して悪いニュースに身構えた。
「何があった?」
「リカルドが……小屋が兵士に襲われて……」
「!」
「でも、ルーシィさんが助けに行ったわ。わたしはあなたのところに行っていろって……ここは自分が何とかするからって……トラッシュ!」
即座に走り出そうとするトラッシュをルナシエーラは慌てて止めた。
「待ってトラッシュ!」
「放せ!ルーシィの奴、一人でいい恰好しやがって……あいつ一人で何とかできることじゃねぇんだ、放せシャル!」
「だめよ、ルーシィさんはあなたを来させるなってわたしに言ったの。お願い、ルーシィさんの気持ちを無駄にしないで。今あなたが行ったら、彼の行動がすべて無駄になってしまうわ」
涙を浮かべてすがりついてくるルナシエーラに、トラッシュは一瞬動きを止めた。
ルナシエーラは呟く。
「お願い……あなたを危険な目に遭わせたくないの……」
「シャ……」
「残酷だって言われてもいい。あとでどんなに責められても――憎まれたって構わない。わたし……あなたが傷ついたことを、そうしようと思えば出来たのにあなたを止めなかったことを後悔したくない」
「……」
トラッシュは震えるルナシエーラの涙をその手でそっと拭った。
すぐ間近まで迫ってきた兵士に、彼女は一体どれだけの恐怖を味わったであろう。しかし彼女はそんなことはおくびにも出さず、ただトラッシュの身を案じている。
そんな彼女を守ることが最優先事項である筈なのに我を失いかけ、彼女を一人にしようとした自分をトラッシュは恥じた。
「ごめん、シャル」
「え?」
「お前を一人にしようとするなんて――どうかしてたな。今すべきなのはあいつの所へ行くことじゃない。……お前を安全な場所へ逃がすことだ」
もしかしたら、自分勝手な感情にいつまでもずるずるとひきずられて、ルナシエーラを危険にさらしてしまった、という自責の念が彼を踏みとどまらせたのかもしれない。
「トラッシュ……」
何か言いかけたルナシエーラを遮り、トラッシュは続ける。
「リカルドたちの所へ兵士が来てるんだったら、トラキーア経由では抜けられないな。ちょっと遠いがウィスタリア経由で国外へ出よう。南へ抜けて海を越えればさすがのアブダラも手が出せない筈だ。あ……そうか、船に乗るとなると身の回りの準備とか食料とか揃えるのに金がいるな。ちょっと待っててくれ、今すぐ――シャル?」
トラッシュは家へ入ろうとし、自分と扉の間に立ちふさがったルナシエーラに驚く。
「どうしたんだシャル、そこ退いてくれよ。ふざけてる暇なんかないだろ」
「ふざけてなんか――いない。わたし……わたし、どこにも行かない」
「シャ……」
「お願いトラッシュ、わたしをここに置いて。あなたのそばにいさせて」
ルナシエーラは思いつめたように続ける。
「この一ヵ月、わたしずっと考えてた。わたしがどうすべきなのか、どうしなきゃならないのか。出てくる答えはいつも同じだったわ。国外脱出するべきだ、そうしなければわたしだけじゃない、あなたやリカルド達にまで危険が及ぶ。――でも、どうしても言いだせなかった。手放したくなかったの、この生活を。あなたのそばにいたかった、離れていたくなかったのよ、トラッシュ!」
堰を切ったようにルナシエーラはわっと泣きじゃくる。
「いま離れてしまえば、わたしたちきっと二度と会えないわ。アブダラは怖いわ。兵士たちがいつやって来るかも知れないことに怯えてもいた。でも、それより何より一番怖いのは――あなたと離れてしまうこと」
ルナシエーラは顔を上げ、涙をあふれさせながらトラッシュを見つめる。
「わたし……わたし、あなたが好きなの。ずっと――ずっと一緒にいたいの。ねぇ、トラッシュ。あなたと一緒にいたいと願うのは……好きな人と生きていきたいと思うのは、わたしには許されないわがままなの?」
「シャル――」
トラッシュは言うべき言葉が見つからず、ほぼ衝動的にルナシエーラを抱きしめた。
「……トラッシュ?」
「わかった……一緒にいよう。アイツらが――大臣の手がここに伸びてくるまで」
トラッシュは優しく、しかししっかりとルナシエーラの体に手を回して抱き寄せる。
「お前は……オレが守ってやる」
憎まれようと、恨まれようと、彼女の想いを無視し、無理やりにでも国外脱出させなければならないのはわかっていた。
けれど……断れなかった。
薄々、感じていたのだ。
彼女が自分を求めているような気配を。
朝、訪ねて行くと必ずルナシエーラが出迎えてくれたし、自分といる時の彼女の微笑みは輝いているように見えた。
それでも彼は確信が持てなかったのだ。
彼女の仕種が……自分を求めているように見えるその仕種が単なる気のせい――そう強く望んでいる自分の心が、自惚れがそう見させているだけなのかもしれないと。
その夢が現実になったのだ。
そばにおきたいと願い、自分の想いに応えてほしいと願っていた夢が。
トラッシュには、あまりに強くルナシエーラを求めている彼には、手を伸ばせば届くところにある幸せを、たとえそれが未来の不幸への扉だったとしても見過ごすことなど出来ようはずがなかった。
「トラッシュ……」
ルナシエーラは安堵のあまりフッと倒れかかった。
トラッシュはしっかりと彼女を抱え上げ、小屋に運ぶ。
「疲れたんだな。風の属性を持たない人間が〈風〉の秘呪に包まれたから――少し休むといい」
「そばに……いてくれる?わたしが眠るまで……」
「ああ」
トラッシュの一言に安心して、ルナシエーラはその首に腕を絡ませ、身を預けた。
今の二人を引き裂けるものは、何もないように思われた――。
それからの数日は、夢のように過ぎていった。
家には一つのベッドしかないので、トラッシュはルナシエーラが止めるのも聞かずに外で寝起きしていたが、それでも十分に幸せだった。
柔らかな声に起こされ、目を開くとそこには温かい微笑みがある。
何をしていても彼女の気配はすぐそこにあり、その笑顔と同じ温かい雰囲気がいつでも彼を包み込んでいるようだった。
トラッシュはルナシエーラと暮らすようになって初めて、今まで感じたことのない、そんなものが自分の中に眠っていたことすら知らなかった温かく穏やかな感情が沸き起こってくるのをひしひしと感じていた。
――だが、トラッシュは彼女に手を出そうとはしなかった。
彼女の想いははっきりしていたし、自分が求めれば決して拒みはしないだろうということもわかっていたけれど、それでも彼はこんな状況で彼女をずるずると恋人にするのは無責任であるような気がしたのだ。
彼は問題が片づくまではあくまで彼女のナイトであろうと決意していた。
……それは、殆ど拷問に近かった。
手を伸ばせば届くところに愛しい女性(ひと)がいて、彼女も自分を求めている。
それなのに何も出来ないのだ。
自分は、彼女のナイト。
大切な人がそばにいる。ただそばにいる、それだけ。
それでもふと彼女と目を合わせ、その中に輝くあふれんばかりの愛情を感じ取るたびに幸せな気分になる自分を、トラッシュは半分呆れた面持ちで感じていた。
――幸いルナシエーラはこれまでにカルマからしっかり家事を教わっていたから、二人の生活はごく自然に役割分担ができあがった。
トラッシュは畑へ行ったり狩りをし、その間ルナシエーラは家を管理する。
そんなままごとのような生活が始まって、あっという間に数日が過ぎた。
どうやら兵士たちはトラッシュの家までは気づかなかったようで、あれから彼らの姿はまったく見えない。
トラッシュはやっと安心してルナシエーラを一人家に残せるようになっていた。
「あら」
いつものように洗濯物を干すために庭に出てきたルナシエーラは、向こうの方から歩いてくる人影に気づいて声をあげた。
「ルーシィさん」
それはこの数日まったく姿を見せなかったルーシィだった。
彼はまだルナシエーラがここにいることにちょっと驚いたようだったが、それでもすぐに理解し、からかう。
「幸せそうだな、シャル」
「えっ……」
赤くなってドギマギする彼女を見ながら、ルーシィは微笑んだ。
「まぁ、何はともあれ無事で良かった。……トラッシュは?」
「あ、畑に行ってます。あの……二人とも、元気ですか?会いに行きたいけどトラッシュが許してくれなくて――」
ルーシィは本当のことを言うべきか否かちょっと考え込む。
リカルドの怪我は相当な物で、骨が何本かポッキリと折られていた。幸い命に別状はなかったものの、今も彼はベッドに寝かされて薬と神官による魔法治療の両方を毎日施されている。それでも病状は思ったより好転せず、少なくともあと二、三週間は絶対安静を言い渡されていた。
「ああ、大丈夫、心配いらないよ」
だがルーシィはそれらすべてを省略することに決めた。
ここで真実を告げてもトラッシュはルナシエーラを森の外へ出すことを許しはしないだろうし、その意見には自分も賛成だ。
となれば、下手に心配させて気を揉ませるよりも適当に誤魔化しておいた方が彼女の為にもいいだろうと思ったのだ。
「そうですか」
ルナシエーラは一応安心したようだった。
ルーシィはふと真剣な表情になって尋ねる。
「これから……どうするつもりだい?」
「……わかりません」
ルナシエーラも心なし表情を曇らせる。
「ここにいちゃいけないことはわかってるの。わたしがここにいたら、リカルドのようにトラッシュにも危険が及ぶって。……でも、わたし強くないから……ここにいたいんです。このまま、ずっと一緒に……だって、今のままでわたし、十分幸せなんですもの。――ねえ、ルーシィさん。わたしのような人間が幸せを求めるのは、許されない罪かしら……」
「シャル……」
ルーシィは温かく微笑み、首を振る。
「そんなこたないさ。人間である以上、幸せを求めちゃいけないなんてことは、絶対にない。希望を捨てたら……幸せを望むことをやめたら、人間なんてやってられないよ」
「ルーシィさん……」
「大丈夫だよ、あいつがそばにいるんだ、何も心配することなんかない。……あいつがここで君を守るって決心したんなら、黙って信じていればいいのさ。――さて、じゃあオレちょっとトラッシュに会って来るわ。畑だったよな?」
「ええ、今日は狩りをする必要はないですから。……この時間だとまだ泉の方ではないと思います。あ、トラッシュに会ったら今日はいい天気だからお弁当持って行くって言っておいて下さい」
「OK」
ルーシィは畑の方へと歩きながら片手を振った。
「あち~」
トラッシュは流れる汗を拭うとクワを置き、腰を伸ばす。
「……いい天気だなあ。こーゆー日は外で食べたがるんだよな、シャルの奴。……ん?」
首をコキコキと鳴らしながらそう呟いたトラッシュは、ふと森の奥に人の気配を感じて動きを止めた。
「……」
シュンッ。
それを見計らっていたかのように、彼の顔めがけて突然クルミ大ほどの小石が投げつけられる。
「……フン」
それをほんの少し首をかしげて避けると、トラッシュは動きやすいようにさりげなく畑から固い地面へと出た。
第二投目。
避けようとする方へ続いて三投目。
トラッシュは次々に投げられる小石の雨の中をまるで軽業師のように時には空中に跳び、時にはバック転し、逆立ちのように両手を地面について飛び上がったりしながら軽く避けていく。
そしてため息をつきながら狙いを定めると、彼は投げられる小石の一つをそちらめがけて空中で上手く蹴り返した。
ピシッ。
鋭い音が鳴り響き、小石の雨が止む。
トラッシュは腰に両手を当てながら、森の奥に感じられる気配へと声をかけた。
「――これはどういう冗談だルーシィ?」
トラッシュが森の奥にそう呼びかけると、さっき彼が蹴り返した小石を手にしたルーシィが軽い笑みを浮かべながら現れる。
「よっ」
「よっ、じゃねぇだろ。一体なんの真似だ?」
自分を睨みながら詰め寄るトラッシュに、ルーシィは軽く笑った。
「?」
「どうやら幸せボケはしてねぇようだな」
「うっ……」
途端にトラッシュが絶句する。
ルーシィは笑って手を振った。
「お前を責めてるわけじゃないよ。ただ、ちょっと心配だっただけさ」
「……やけっぱちになってるかもしれねぇってことか?冗談じゃない、自分のことだけならともかく、あいつのことは責任を持つよ。……結局、オレのわがままでここに置いてるんだからな」
どんなにルナシエーラがそう望んだと言っても、結局彼が決心したのは自分自身の想いの為だ。そばにいたい、離れたくない。その想いが、彼を正しいと思えることから遠ざけたのだから。
トラッシュは泉の水で顔を洗いながら疲れたように肩を落とす。
そんな彼に微笑みながらルーシィは尋ねた。
「これからどうするつもりだ?」
「……わかってるよ。このままじゃいけないって言うんだろ。……わかってるんだ」
トラッシュは顔を上げる。
「……どうかしちまってんだよな、きっと。惚れた女に手も出さねぇでこの生活にしがみついてんだからよ」
「手を……出さない?お前、一緒に暮らしてんのにまだ――」
「ああ、オレたちゃまだお友達、さ。恋人にはしてねぇよ」
「何でまた……まさか身分の違いとか気にしてんじゃ……」
「まさか」
トラッシュは笑う。
「王国自体がこんな状況になっちまってんのに、今更盗賊だとか姫だとか関係あるかよ。……そうじゃなくてさ。そうじゃなくて――上手く言えねぇんだが……嫌なんだよ、今の状況が。納得いかねぇんだ」
「あん?」
「こんな危機的状況でさ、明日もわからぬ身、ってのを利用して惚れた女をモノにするほど、落ちぶれちゃいねぇつもりなんだ、オレ。それに……」
トラッシュは苦笑する。
「まだ確信が持てねぇんだよ」
「確信?」
「ああ。あいつが……シャルが本当にオレを求めてるのかどうかってのがさ。今イチ自信がないんだ――この状況のせいでな」
「この状況?」
「そ。今は確かにあいつ、オレが好きだって言ってる。そばにいたいって。そりゃ嬉しいけどよ、けど……なあ、ルーシィ」
「ん?」
「刷り込み(インプリンティング)、って……知ってるか?」
「ああ……生まれて一番最初に目にした動く物を親だと思い込むっていう鳥の習性だろ?それがどうしたってんだ?」
「あいつもさ。それと同じじゃないかって思うんだ。――考えても見ろよ。十三年間も塔に閉じ込められてたってことは、六才の……恋愛感情なんかまるで持たないガキの頃から世間と隔絶してたってことだぜ。その上周りにいるのは乳母か両親を殺した奴かその配下のならず者ばかり。そんな状況でオレに会ってよ、塔から助け出されて……オレが理想になるのも無理はねぇだろ」
「そりゃ……まあ」
「だからさ、もしかしたらもっと……もっと好きになれる奴が現れるかもしれねぇって思ったら……何か体が竦んじまってよ。あいつ世間知らずだから――もっと時がたって普通の女になったら、今の感情なんてどっかに飛んでっちまいそうでさ」
寂しそうに笑うトラッシュに、ルーシィは黙り込んだ。
ここで慰めの言葉をかけるのは簡単だが、彼の言うことに少しでも可能性がある限り、否定は出来ない。
結局、その迷いは彼ら自身が断ち切り、彼ら自身の手で答えを見つけるしかないのだ。
「……なんか暗ェ話になっちまったな。町の様子はどうだ?」
その混乱した想いを振り切るように、トラッシュは話題を変える。
「この森まで兵士が来たってことは例のデマがバレたってことか?」
「いや、あいつらもまだ確信は持ってないようだった。オレがそう言ったら考え込んでたしな。――だが、勘づかれるのは時間の問題だな」
「そうか。じゃあ、町へは行かない方がいいな」
「それどころか森から一歩出るのだって危険だよ。町にはもちろん兵士があふれてるし最近じゃ見回りも出始めてる。街道筋だって通行人に紛れて兵士が監視してやがるし、町の出入口のチェックの厳しいこと。あれじゃオレたちどころか普通の悪党だって根こそぎつかまっちまうよ」
ルーシィはそのままトラッシュが考え込むように黙ってしまうと、不思議そうに首を傾げた。
「……なあトラッシュ」
「あん?」
「リカルドたちのことは聞かねぇのか?シャルは真っ先に聞いたぜ」
するとトラッシュは軽く笑う。
「何言ってんだよ、あいつらに何かあったんならオレが聞くより先にお前が言ってくるだろ。……お前が何も言わないとこ見ると命に別状はねぇんだろ、だったら聞かないでおくよ。下手に詳しく聞かされても、どっちみちオレたちゃ森を出られねぇからな」
「……なるほど」
それはさっき彼がルナシエーラに対して考えたことと同じだったから、ルーシィは苦笑する。
何だかんだ言って同じような思考回路してるってわけか。
「で?これからどうするつもりなんだ?」
ルーシィが幹にもたれながらそう尋ねると、トラッシュは一つ大きくため息をついて空を見上げた。
「……ずっとそればかり考えてた。シャルがこの森にやって来てからずっと――どうすればいいか、どうしなきゃならないのか。答えはいつも同じだったよ。国外脱出させろ。それが一番いいのは間違いないんだ。……でも、この数日は違った。オレ、決心したんだ。あいつを、ずっと手元に……あいつ自身がそう望む限りはそばにおいておこうって。だから今はどうすればいいかなんて考えてない。この数日、オレがずっと考えてたのは――」
「……どうやればいいか、か?」
「えっ?」
驚いた声をあげるトラッシュに、ルーシィは肩を竦めた。
「まぁ、一年もパートナー組んでれば、考え方も大体はわかるようになるってことさ。第一……逃げることをやめる決心をしたんだ、あとは前へ進むしか手はないもんな」
「ルーシィ……」
「ハラは決まったんだな?」
真剣な表情のルーシィに、トラッシュは力強く頷いた。
「……ああ。撃って出る」
その言葉に、ルーシィは嬉しそうに頷いた。
「そうこなくっちゃ」
「ルーシィ?」
「ちょっと待っててくれ、渡すもんがあるんだ」
「渡すもん?オレに?」
「ああ」
そう言ってルーシィは木立の中へと消え、暫くして大きな風呂敷包みを持って現れた。「これは……」
トラッシュは包みをほどいて絶句する。
それはもう二度と人目には触れない筈の、いや、決して触れさせないつもりだった筈の物だった。
「お前、どうしてこれを……」
「リカルドに頼まれたんだ、渡してくれって。……あいつもオレと同じでお前が何を考えてるかとっくにわかってたんだろうな。――撃って出るなら、例えそれがシャルの為であろうとこれは必要だろうってさ」
「そうか……」
トラッシュはリカルドの配慮に胸を詰まらせた。老いたりといえど、彼はやはり彼なのだ。ずっとずっと、その笑顔の奥に激しい想いを募らせていたのだろう。
そして、ハッと気づく。
「ルーシィ、お前まさかオレの正――」
「おっとそこまでだ」
何か言いかけたトラッシュを制し、ルーシィは笑う。
「?」
「聞かないでおくよ、そこから先は。……お前はただ信じた道を行けばいい。オレは黙ってついて行くよ。――信じたダチの為だからな」
「ルーシィ……」
「……さて、具体的にはどうするつもりだ?いくら撃って出るってったって、独りで城に殴り込むわけにゃいかねぇぞ」
「ああ――どうしようか」
トラッシュの言葉にルーシィはガクッとよろける。
「どうしようか、ってお前な――」
「仕方ないだろ、オレ、ケンカなら負けねぇ自信あるけど、戦争なんてやったことねぇもん。――まぁ、とりあえずはジェイクに応援頼もうかと思ってんだけどさ……」
「ギルドにか?それならもうやってあるぜ」
「へっ?」
不思議そうなトラッシュの顔に、ルーシィはさらに疲れたように肩を落とす。
「お前……一体オレが今まで何をしてたと思ってんだ?遊んでたわけじゃねぇんだぞ」
「いや……オレは別に……」
「いいよいいよ、どうせオレはちゃらんぽらんだからな、どうせどっかで遊び惚けてるとでも思ってたんだろ。――フン、こうは見えてもオレは元々宮廷剣士だぞ……フン……そりゃ確かにずっとごぶさただけどよ……だからってそこまで見くびるこたぁないだろうよ……フン」
「悪かったよルーシィ」
トラッシュは慌てたようにとりなす。
「別にお前が遊び呆けてたなんて思ってやしねぇよ」
「嘘つけ。言っとくがなぁ、オレは自分の意志で城を出たんだ、役立たずなわけじゃねぇんだぞ」
「ああ、そうだな」
「腕だって超一流で、昔のオレは宮廷に仕える下級戦士なんかの憧れの的だったんだからな」
「はいはい」
「んでもって城の女どもなんかもぅ、目をうるませてへばりついてきて、一人になるのが大変なくらいだったんだぞ」
「……それで?」
「――だから、ちっとはお前も尊敬のまなざしくらいしろよ。……そりゃ、お前にとっちゃオレみたいな人間は珍しくないかもしれねぇけどよ」
「ルーシィ……」
トラッシュは落ち込んで地面に「の」の字を書いているルーシィに微笑んだ。
「わぁかってるって、お前は強い。――オレに剣の使い方教えてくれたのはお前だったじゃねぇか。それにお前、使ってないけど凄い名剣持ってるだろ。……あんなでっけえバスタードソード使いこなすんだ、腕が一流なのも良くわかってるって」
「……ほんとに?」
ルーシィはじぃっとトラッシュを見上げる。
「ほんとにそう思ってるか?」
「ああ、思ってる」
「ほんとだな?」
「男に二言はねぇよ」
「……」
トラッシュが頷くと、ルーシィはやっと機嫌を直して顔を上げた。
「ならいいけどよ。……そうそう、ジェイクの奴、張り切ってたぜ。やっとこの時が来たか、って。――ありゃいつもの顔じゃなかったな。騎士の顔だった」
「ああ、何せあいつにとっちゃアブダラはにっくきウィスタリアの仇だもんな。……他の連中だってみんなアブダラには恨みを持ってるやつらばっかりだし。――ギルドつっても、元は戦士だの剣士だの兵士だのってのばっかだからな、集まりゃかなり頼りになる」
「かなりどころの話じゃないぜ……気をしっかり持てよトラッシュ」
「あ?何で?」
キョトン、とした顔のトラッシュにルーシィは疲れたように肩を落とす。
「……本っ当にお前は自覚がないな。――いいか、お前はそのかなり頼りになる手練を率いることになるんだぞ」
「――ああ、そうか」
今はじめて気がついたらしいトラッシュの表情に、ルーシィは頭を抱えた。
「まったく――まぁ、お前はずっと遠ざかって育ったんだから仕方ないのかもしれないけど。……とにかく、あいつらにとってお前は信頼を寄せるリーダーなんだからな。実際に指揮を取れとは言わんが、もう少しシャンとしてろよ。大将が見るからに盗賊じゃ恰好つかないぜ」
「ああ、そうだな。……けど、外見は何とかなるさ、これもあるし」
トラッシュは包みをぽんぽん、と軽く叩いて笑う。
「あとはどうやって内面を誤魔化すかだな。……いくら自覚を持とうと思ったって、長年培ったこの庶民根性はどーしょーもねぇし、最近はどっぷり盗賊稼業につかってたからな。――黙ってりゃ大将らしく見えるかな」
「……少なくとも喋るよりはマシだろ」
ルーシィは肩を竦めてトラッシュを見つめ、ふと微笑んだ。
トラッシュは深い感慨にふけるように、その手にある包みをじっと見つめていた――。
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