第3話

「ぐぅっ!」

 トラッシュは激痛に耐えるように歯を食いしばった。

 彼は幸運な方だった。突き刺さった矢は途中で折れたり止まったりせず、完璧に脚を貫ぬいている。そんな矢を抜くには矢の羽のついた部分を切り落とし、鏃(やじり)をつかんで肉に突き刺さった方向へと引き抜けばいい。

 トラッシュは彼を育ててくれた老人から教わった知識をもって、矢を引き抜こうとしていた。

 ブシュッ。

 肉が裂かれ、血の吹き出る嫌な音を立てながら矢がゆっくりと動く。

 トラッシュは脂汗を流しながら何とか矢を脚から引き抜き、懐に持っていた長布で止血の処置を施した。

「ハアッ、ハアッ……」

 盗賊稼業も楽じゃねぇな。

 そんな事を思いながら壁に背をもたせかけ、彼は取り敢えず安堵のため息をつく。

「さて……と。いつまでもグズグズしてらんねぇな。くっ――よっと」

 痛みに引きつる脚を片手で庇うようにしながら、トラッシュはあてもなく歩き始める。

 さっきの廊下から一つ曲がったこの通路は、何故かまるで人気がない。

 それでも階下では彼らを探す騒々しい足音が響き、この一本道らしき通路を上るしか手はないように思われた。

「うすっ気味わるいところだなぁ……」

 そこが西の塔であることなど知る由もなく、彼はひたすら最上階を目指して上って行く。

 そして、一つのドアに突き当たった。

 ――考えて見れば、奇妙なドアだった。

 こんな寒々しい寂しい場所だというのに、厳重に鉄板が打ちつけられた重そうなドア。

 ここまでは掃除をしにくる人間もいないのだろう、床には埃が堆く積もっている。

「ようこそ悪魔の世界へ……ってトコかあ?」

 トラッシュは自分の思いつきにゾッとしながらドアの錠前を調べはじめた。

 仕方ねえよなァ……階下(した)へおりるわけにもいかないし……。

 ため息をつきながらそう考えると、彼は錠前に細いピンを差し込む。

「あらよっと」

 それは厳重な扉であったが、錠前自体は十数年も前のものらしく、開けるのにそう時間はかからなかった。

 トラッシュはものの数秒で錠前を外すと、おどろおどろしいそのドアを渾身の力で押し開ける。

 ギイッ……。

 悪魔の笑い声のようないやあな音を立てて、扉はゆっくりと開いて行った……。

 

「……すげえ……」

 それは、まるで別世界だった。

 三十畳ほどの広い部屋をぐるりと取り囲む背の高い大理石の壁はまるで鏡のようにぴかぴかに磨き上げられ、床には淡いピンク色の、爪先がスッポリ隠れてしまうくらい毛足の長いふかふかの絨毯がきっちりと敷きつめられている。

 部屋のあちこちには見たこともないような素晴らしい金銀財宝がまるでガラクタのように無造作に置かれ、すべての家具、調度品は最高級、そして部屋中に何とも言われぬいい芳香が漂っていた。

「ここ……は……?」

 だが、何となく変だった。

 トラッシュは辺りをよくよく見回してそれが何故だか悟る。

 窓がないのだ。

 これだけ豪勢な造りのなされた部屋にもかかわらず、この部屋には窓らしきものがまるでない。

 ただ一つあるといえば天井高くにある小さな明かり取り用の小窓くらいで、それもまるで牢獄のように太い鉄格子がいくつもはめられている。

 実際、その部屋は暗かった。照明用のランプはあるようだが、盗賊稼業で目を鍛えている彼でなければ部屋の様子などまるでわからなかっただろう。それほどこの部屋は漆黒の闇に支配されていた。

「妙な部屋だなあ……」

 知らず知らずささやき声になりながらトラッシュが中へと歩みを進めると、部屋のど真ん中に大きな影があった。

「なんだ?」

 首を傾げて回り込んだトラッシュは、それが何だか悟って即座に飛びのく。

「こ、こいつは……」

 それは、キングサイズよりも更に数倍大きいベッドだった。

 その瞬間トラッシュはこの部屋の持ち主を知って舌打ちする。

「なんてこった、ここは……」

 豪奢な飾りつけのなされた部屋。鉄格子のはまった小さな窓。厳重に作られた重い扉。そして――十数年前から使われているらしいあの古い錠前。

「ここは……あの乱心姫の部屋じゃないか……!」

 乱心姫。その名に〈月のしずく〉を冠したトラキーア王家唯一の生き残り。

 当時六才……今は十九才になっている筈の伝説の姫君ルナシエーラが幽閉されているという西の塔の部屋に、彼は飛び込んでしまったのだった。

「だあれ……?」

 と、ベッドの中から女の柔らかな声がした。

「っ……」

 トラッシュは咄嗟に身を潜め、息を殺す。

 冗談じゃない、乱心姫なんかに見つかった日にゃあ……これじゃあ兵士に追われてる方がよっぽどマシってもんだぜ。

「だれかいるの?そこにいるのね……?」

 ベッドの上で人の動く気配がする。

 小窓から差しこぼれる仄かな月明かりが、女の長い黒髪とたおやかな肢体をうっすらと浮かび上がらせた。

 さて、どうすっかなァ……このケガじゃ、女とは言え乱心した奴相手に立ち回れるとも思えねえし……。おとなしくまた眠ってくんねえかな……。

 そんなことを考えながらトラッシュがゆっくりとドアの方へと後退して行くと、影がくすっと笑った。

「……そんなに怖がる必要なんてないのよ、誰かさん。わたしはルナシエーラ。あなたも知っての通りこの国の王女だけれど、噂のようには乱心なんてしてないわ――」

 んなコト言われて、ハイそうですか、って信じるとでも思ってんのかコイツは?

「……あなたがどう思っているかは大体想像がつくけれど、そこでそうして身を潜めていたってわたしが大声をあげれば同じことよ。……それに、ここへは正規の兵士たちはやってこないわ。ここへ来るのを許されているのは大臣直属のならず者ばかりよ。わたしの言葉を信じるのと、ならず者を相手にするのと、あなたはどちらを選ぶのかしら?」

「……」

 暫く考えた末、トラッシュは黙って立ち上がる。

「フフ、よかった、あなたが後者を選ばなくって。……ねぇ、灯をつけてもいいかしら?顔を見られたくないなら、今ショールを投げてあげるからそれで隠しておいてね」

 その言葉どおり、トラッシュの方へ柔らかな布地が投げてよこされる。

「あ、あんた……見えてるのか、オレが!?」

 トラッシュが驚いたように思わず声をかけると、ルナシエーラは楽しそうに笑った。

「いやね、ここはわたしの部屋よ。……この部屋を見たでしょう?ここは朝からずっと、一日中暗闇のようなものなの。十三年もここで暮らせば、目もよくなるし気配だって感じとれるようになるわ」

 言いながら、ルナシエーラはベッドサイドに置いてあるランプを手に取った。

 カチッ、カチッという石のぶつかるような音が二度三度響いたかと思うと、オレンジ色の柔らかな光が遠慮がちに部屋を照らしだす。

「…あ……」

 トラッシュは顔を隠そうとし――ベッドに腰かけた姫の姿に思わず立ちすくんだ。

 知ってはいた。

 月のしずく、とは生まれ落ちたその瞬間から愛らしかった彼女ゆえに付けられた名前であることも、十九才になっている筈の彼女が今頃はどれだけ美しく成長していることかと国中の者が噂しあっていることも。

 けれど、目の前にいるこの女性はそんな噂のどれもが太刀打ちできないほど眩く、光り輝いているようで――動けなかった。ただ魅入られたように立ちすくんでいた。

「どうしたの?顔、隠さなくてもいいの?」

「え……あ……あ、いい……うん、もう。どうせ見られちまったし……今更」

「おかしな人ね。でも、よくわたしの部屋に忍び込もうなんて思い立ったわね。噂は知っているんでしょう?」

「別に好きで忍び込んだわけじゃ――」

「座ったら?」

「……」

 トラッシュは姫の促すまま床に座り込む。その柔らかな感触は一瞬でも脚の痛みを和らげてくれた。

「……で?」

「別に好きで忍び込んだわけじゃない。兵士から逃げ回ってたらいつの間にかここまで来ちまったんだ。ここは人気がなかったから」

「そう。じゃあ、あなたが目指してたのは宝物庫かしら?」

「へっ?」

「だって、今日はお城でパーティーがあったみたいだから。宝物庫の警備が手薄になるのよね、そういう時は」

「あんた……」

「ん?」

「正気……なんだな」

「……」

 トラッシュが戸惑いながらそう呟くと、ルナシエーラはフッと表情を陰らせる。

「そうよ。わたしは乱心なんてしていない。噂はわたしをこの塔に閉じ込めておく為の口実に過ぎないわ」

「一体、どういうことなんだ?十三年前、この国で何があった?」

「あなたも知っているでしょ。お父さまとお母さまが殺されたの。あれは真実よ。この国に実しやかに流れている噂のうち、偽りなのはわたしが乱心したということと、お父さまたちを毒殺した犯人がつかまって処刑されたという部分だけ。あとは真実なの」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。犯人は処刑されてないってのか?だってそいつ確か公開処刑され……おい、まさか……!?」

 ハッと顔を上げたトラッシュに、ルナシエーラは哀しそうに頷く。

「そう、その人は何の罪もない無関係の人間だったの。大体、毒殺なんて余程お父さまたちに近しい人間でなくては実行は不可能よ」

「じゃ……じゃあ犯人は?」

「一番得をしている人間は誰だと思う?」

「大臣……アブダラ・マクミール……」

「ご名答」

 ルナシエーラは頷き、膝を抱える。

「大臣はお父さまたちを殺害した後、少しでも時間が稼げるように犯人をでっちあげたの。殺された直後に彼が犯人だとわかっては、彼の計画がすべてだめになってしまうから」

「計画って?」

「国の実権を握ること。……この国ではね、女に国政を取り仕切る権限はないの。国を動かせるのは王、もしくは王子だけ。王家に女しか残っていない場合は、その権限はすべて大臣に委ねられる。――王家の女性が新しく婿を迎えるまではね。だから彼はあらぬ噂をまき散らし、わたしをこの塔へ幽閉したの。大臣には王家の女性の婿を選択する権限はないから……わたしがどこかの国の王に望まれたりしないようにね」

「……そこまで真実を知っているならなんで公表しないんだ?あの大臣のおかげでどんだけの人間が苦しんでるか――」

「だめなの」

 ルナシエーラはギュッと膝を強く抱える。

「公表しても無駄なの。この国の兵士たちは『王家』にではなく『王家の掟』に対して忠誠を誓っているから、大臣には逆らえない。王家にわたし一人しか残っていないのは事実だし、大臣に権限が委ねられるのも決められていることよ。だからわたしが正気を保っていることを正規兵が知ったところで、大臣に国王と同じだけの権力が認められている以上、彼らは大臣にとって不利なようには動けないの」

「そ、そんな無茶苦茶な話があるかよ。いくら決められてるからって、これはれっきとした犯罪なんだぜ!?」

「善悪の問題じゃないの。これはトラキーアで古くから守られてきた習わしなの、伝統なのよ。兵士たちは生まれた時からずっとそう教えられてくるの。だから息をするよりずっと自然に、無意識にそう思い込んでしまっているのよ。一種の洗脳状態ね、誰もそれを不思議だと思わないの」

「そんな……」

「そして彼らの忠誠を解く方法は一つだけ」

「あるのか?」

「……王家そのものを崩壊させること。つまり、王家唯一の生き残りであるわたしさえ死ねば、大臣は権力を維持できなくなるの。トラキーアの王位は、先代王の血を受け継いだ王子か、或いは王女を妻に迎えた男以外には継げないから」

「……なるほど。八方塞がりって訳か」

 ウィスタリアに住んでいるトラッシュでも、このトラキーアでは自殺が固く禁じられていることぐらい知っていた。

「わたしだけなら……わたしだけのことなら例え呪われても地獄に堕ちようと大臣の好き勝手にはさせないのだけれど……でも、もしわたしが死んだら――」

「死んだら?」

 と、その時である。

「姫様!ご無事ですか姫様!」

 ドンドンドンッと激しくドアをノックする音が部屋中に響きわたった。

「いけない、乳母のエイダだわ!早く隠れて、早く!」

「か、隠れてったって一体どこに――つっ!」

 トラッシュは慌てて立ち上がり、脚を走り抜ける激痛にうめき声を押し殺す。

「あ……ええと……そうだわ、こっちへ!」

「え?」

「いいからわたしのところへ来て、早く!」

「あ、ああ、けど一体何を……わっぷ」

 ルナシエーラに呼ばれるまま彼女のそばまで歩み寄ったトラッシュは、突然彼女のベッドの中へ体を引っ張りこまれ、慌てた。

「お、おい、ちょっと……」

 目と鼻の先に彼女のスラリとしたしなやかな脚を見、女性特有の柔らかな体の匂いを感じ取ったトラッシュは慌てて身を引こうとする。

 しかしルナシエーラはそれを押し止め、小声で囁いた。

「しいっ、黙って。このベッドなら大きいしカバーもたっぷりしてるからあなた一人隠れても目立たないわ。乳母はわたしが何とかするからちょっとおとなしくしてて。ね」

「ム……ムグムグ……ムグムグムグッ!」

 しかしトラッシュはそれには答えず、何やら中でバタバタ暴れている。

 自分が彼の頭を押さえつけているのに気づいて、ルナシエーラは慌てて手を放した。

「ご、ごめんなさい。息が出来なかったのね……」

 ベッドの中ほどで栓の抜けた風船のように脱力しているトラッシュにくすくすと笑い声を立てると、ルナシエーラは乳母を部屋に呼び入れた。

 

「ああよかった、ご無事だったんですね姫様」

 エイダはルナシエーラの姿を一目見るなりそう言って安堵の息をついた。

 十階分はあるこの塔の階段を一気に駆け登ってきたのだろう、彼女は青ざめた顔で息もたえだえに立っている。

「一体なにごとなの?こんな夜更けにここへ来るなんて」

 ベッドからすべりおり、水の入ったグラスを渡しながらルナシエーラは尋ねる。

「ここは厳重よ。壁は二重になっているし窓もないわ。扉だってとても厚い物だもの、危険なことなんて何一つ――」

「いいえ、それは違います姫様」

 エイダは哀しそうに首を振る。

「この部屋は外に出ようとする人間にとって厳重なんです。中に入ることなんていくらでも出来ますわ。現に今だって扉の鍵が……あら?」

 その時はじめて気がついたかのようにエイダが扉を振り向いた。

「どうかした?」

「いえ、鍵が……今わたくしが来た時、すでに開いていたみたい……」

 ヤバイ!

 ベッドの中で聞き耳を立てていたトラッシュは心の中で舌打ちした。

 しかしルナシエーラは動じることなく肩をすくめる。

「きっとあの男が閉め忘れていったんでしょ。それはそれは、物凄い剣幕で帰って行ったから」

「アブダラがまた来たんですか?」

 エイダが眉をひそめると、ルナシエーラは嫌悪感もあらわに頷いた。

「相変わらずワンパターンな男ね、財宝でなだめすかして言葉と態度で脅して行ったわ。――こんな財宝、今のわたしには小石一つほどの価値もないというのに」

 毎日毎日うす暗い部屋に押し込められ、外に出ると言えば塔の最上階で数十分間日光浴をするだけの彼女に、金や銀など一体どれだけの価値があると言うのだろう。

 今の彼女にとって、太陽の光の前ではルビーも真珠も砂のように味気のないただの石にすぎなかった。

「……ところで、まだ何があったのか聞いてないわよエイダ。何だか城の様子が騒がしいけれど?」

「ああ、そうだわ忘れてました。盗賊が忍び込んだらしいんです」

「盗賊?」

「ええ、何でも髪の長い長身の男と、小柄でサルみたいに身が軽い少年ですって。宝物庫に忍び込んだらしいんですけど、鳴子の罠にひっかかったんだって兵士たちが言ってましたわ」

 くっそ~、ルーシィのおかげで、オレたちゃとんだ間抜けヤローになっちまったじゃねーかっ!

 トラッシュはベッドの中で歯がみしながら思いつく限りの悪態を並べ立てる。

 ルナシエーラは背後から微かに伝わってくる彼のそんな気配に思わず微笑んだ。

「姫様?」

「あ、いいえ、何でもないわ。それで、その盗賊はどうなったの?」

「さあ、一人は兵士の剣を奪って逃げたようですけれど、もう一人はまだ城の中にいるようなことを言っていましたわ」

 ルーシィは元々剣士の出身(で)だ。彼が剣を持ったのなら恐らく心配はいらないだろう。

 トラッシュは一応安心してさらに聞き耳を立てる。

「ですから姫様、どうか十分ご用心なさって下さいませね。最近この国も物騒になって、人買いやら強盗も出るそうですわ。……そうだわ、今夜はわたくしもこの部屋に泊まりましょうか?」

「えっ?」

「だって、鳴子なんていう初歩的な罠にアッサリ引っ掛かるような盗賊ですよ?誤ってこの塔に迷い込むことだってあるかもしれないじゃないですか」

「……大正解」

「はっ?」

「あ、いいえ、わたしなら大丈夫よエイダ。これだけ兵士たちがあふれているんですもの、すぐに捕まるわ。もう逃げてしまったのかもしれないし」

「ですが……」

「あなたこそ。あなたこそ早くお家に帰っておあげなさいな。お孫さんたちまだ小さいのでしょう?ご両親も早くに亡くされているんだし、きっと心細い思いをしているわ。わたしなら大丈夫だから。ね?」

「姫様……」

 その言葉の裏にもう一つの理由があるとも知らず、エイダはルナシエーラの優しさに感動して喉を詰まらせる。

「ありがとうございます姫様。それではそうさせて頂きますわ。でもよくよくご用心なさって下さいませね」

「ええ、ありがとう、そうするわ」

 エイダが出て行ってしまうと、ルナシエーラは一息ついてベッドに声をかけた。

「さあ、もう出てきてもいいわよ、間抜けな盗賊さん」

「……うー」

 トラッシュは唸り声をあげながら這いだしてくる。

「言っとくけど、鳴子を鳴らしたのはオレじゃねぇぞ。あれは相棒がやったんだ」

「あら、そうなの。……でも良かったわね、もう一人の人、無事に逃げられたみたいで」

 ルナシエーラの言葉に、トラッシュはフッと微笑んだ。

「……ああ」

「ところで、お願いがあるんだけれど」

「ん?」

「わたしを、ここから連れ出してくれない?」

「なに!?」

 あまりと言えばあまりに大胆な発言だった。

「オ、オレは盗賊だぞ!?あんた、売り飛ばされちまうかもしれねぇんだぞ?よく言えるな、そんなこと」

 と、ルナシエーラは哀しげに微笑む。

「……ここにいても同じことだもの。いいえ、可能性がゼロな分だけこちらの方が悪いのかしらね」

「えっ?」

「三ヵ月後、わたしは二十才になるの」

「ああ、そりゃおめでとう」

「違うわ、めでたくなんか全然ないのよ。わたしにとっても国民にとってもね」

 そう言ってルナシエーラは周りに置かれた財宝に目をやる。

「これは全部アブダラがわたしに贈った物よ。こんなくだらない物であいつは、わたしを妻にしようとしているのよ」

「妻?妻って……嫁さんのことか?」

「そうよ。言ったでしょ、この国の王位は、先代王の血を引く王子か、或いは王女を妻に迎えた男だけが継げるって。だからアブダラはわたしを妻にし、自分の子を生ませることで、今の権力を絶対的なものにしようとしているのよ」

「ちょ……ちょっと待ってくれ」

 トラッシュは指折り数える。

「あんた、今十九才だろ。でアブダラは……たしか今四十才くらいじゃなかったか?」

「年齢なんて関係ないわ、要は繁殖能力の問題だもの。彼は先代王の血を引き、なおかつ自分の血も受け継ぐ男子が欲しいだけなのよ」

「うげ……変態(エロ)ジジイ……」

「とにかく、わたしは早くアブダラの手の届かないところへ逃げなくてはならないの。結婚式は間近に迫っているのよ」

「……ああ、それで二十才がどーのって言ったのか」

 この国では男子が十五才で既に成人と見られるのに対し、女子が成人と見られるのは二十才からである。よって、結婚は女性が成人した二十才からでないと認められないのだ。「そうよ。王位は婚儀の後に出来た王子でないと継げないの。だからアブダラはわたしが成人するまでは手が出せなかったのよ。このしきたりもかなり厳しいものよ。生まれてくる赤ん坊が絶対に婚儀の後に出来た子であると証明する為、その為だけに次期後継者を生むことになる女は、結婚後最低三ヵ月は修道院で禁欲生活を強いられるくらいだから」

「うへ……くっだらねぇ」

「仕方ないわ、大昔に決められたことだもの。ねぇ、お願い、わたしを連れて逃げて欲しいの。お礼ならあげられるわ。ここから好きなだけ持って行けばいい」

「いらねーよ、んなモン。姫さんの持ち物なんてすぐにアシがついちまう」

 トラッシュは即座に言い捨ててから暫く黙り込んだ。

 いくら正気を保っているからと言って、一度も外の世界に出たことがない彼女が足手まといになることは火を見るより明らかだった。

 それに、自分だって脚を怪我しているのである。一人で逃げることすらままならない状態で素人を連れにするのは、はっきり言って自殺行為に等しかった。

「……いいよ。連れてってやる」

 しかし、トラッシュは頷いた。

 ルナシエーラの不遇の人生を哀れんだのではない。

 ただ、なんとなく姫があの大臣の手に落ちるのが気に食わなかったのだ。

「本当!?」

「……あんな男にゃ勿体ねぇもんな」

「え?」

「いや、何でも。……なあ姫さん」

「ルナシエーラでいいわ」

「――ルナシエーラ。あの……どっか広い場所に出られねぇかな。あと、人気がないトコ。逃げ出す細工にちょっと時間がかかるんだ」

「人気がなくて広い場所?あぁ、それならこの上がいいわよ」

「上?」

「そう、この上」

 ルナシエーラが指さしたのは部屋の天井だった。

「この上にまだ何かあるのか?外の階段はここで終(しま)いだったぜ」

「隠し扉があるのよ。わたしが人目につかずに日光浴する為のね」

 ルナシエーラは部屋を出ると、突き当たりの壁を何やら探し始める。

「あ、あった」

 そして彼女が石壁の一つをグッ、と押すと、まるで自動ドアのように壁が重い音を軋ませながらゆっくりと上がって行った。

「うわ……」

「ね?」

 微笑むルナシエーラの後についてトラッシュはカビ臭い通路を上がって行く。

 急な階段を上りきった屋上には、ベルベッドのような漆黒の闇に幾千もの星がきらめく美しい空が広がっていた。

「――いい風だ」

 そう呟くと、トラッシュは懐から一本の羽ペンを取り出す。

「それは?」

「魔力のない者が魔法陣を描く為に使う、魔法秘具の一つ。こいつで風の精霊を呼び出すのさ」

「風の精霊……あなた〈風使い(ウィンドマスター)〉なの?」

 風の属性を持った上級の精霊使い(エレメンタルマスター)に与えられる称号をルナシエーラが口にすると、トラッシュは軽く頷く。

「そっ。オレは〈風使い〉の盗賊、疾風(ベンダバール)のトラッシュ。よろしくな」

 トラッシュは風の秘石オパールのかけらがついた羽ペンを宙に投げる。

「……風よ。世界をその手に抱きしものよ。秘石(いし)に集いて魔力(ちから)となり、あまねく精霊を呼び寄せたまえ」

 呪文を唱えると、羽ペンについた秘石が輝き始める。そして周囲を吹いていた風がゆっくりとその流れを止め、宙に浮かんでいた羽ペンが蒼く輝く魔法陣を描きだした。

「天地にうずまく風の魔力よ、我が手によりてしるべとなれ。永久(とわ)の彼方より我いまここに召喚せん。今こそ出でよ……風の精霊シルフ!」

 トラッシュの声に反応するように、風が一瞬強く吹き荒れた。

 よろめくルナシエーラを無意識に抱き寄せ、トラッシュはさらに叫ぶ。

「出でよ、風の精霊シルフっ!」

 魔法陣が砕け散った。いや、ルナシエーラにはそう見えた。

 そしてその直後、目に見えない、けれど確かにそこにいると感じられる「何か」が二人の足元をヒョイ、とすくう。

「きゃっ!」

「心配ねーよ。シルフがオレたちを運んでくれるってさ」

 間近に彼の顔があった。

 自分がしっかりとルナシエーラを抱きしめている事に気づいていないのだろう、トラッシュは何事もなかったかのように前方を見つめている。

「あ……」

 ルナシエーラは、胸がドキン、と高鳴るのを感じた。

 腰に回された太く逞しい腕。体に伝わってくる力強い鼓動。アンダーバストのすぐ下くらいにあてがわれた、大きくて温かい手のひら。黒く日焼けした彼の体と、青く血管が浮き出るほどキメが細かい自分の白い肌とがつくり出すコントラスト。

 ルナシエーラは身体中を包み込む彼の男っぽい――何故か体中の力が抜けていくような、不思議に心地よい匂いに思わず目を閉じ、しかし次の瞬間、恥ずかしさに彼の体を押し退けた。

「……ん?」

 そこで初めて、トラッシュは自分が姫を抱きしめていたことに気づいたようだった。

「あっ」

 慌てて腕を放すと、暗闇でもそれとわかるほど顔を真っ赤にしてそっぽ向く。

「ご…ごめん」

「う、ううん」

 ルナシエーラは照れ臭さを誤魔化すように笑いながら、そっとトラッシュの服の端っこをつまんだ。

 ――それだけで安心できるなんて、妙な話だった。

 でも、自分からやったことなのに、彼から体を放した瞬間ドッと押し寄せた不安感と寂しさに、彼女は耐えられなかった。

 直接触れていなくてもいい。ただ、こうして存在を確かめられるなら。

 だが、トラッシュは黙って腕を延ばし、服をつまむルナシエーラの手を力強く握る。

「!?」

 ルナシエーラはパッと顔を上げたがトラッシュは前を見つめたままで、その表情は何も変わらない。

 ただ、暗闇に紛れたその瞳が何となく温かい微笑みを浮かべているような気がして、ルナシエーラはそっと彼に寄りかかった。

「……ウィスタリアの方角ね」

 暫くして、ルナシエーラがポツリと呟く。

「ん?」

「森と湖の国ウィスタリア。トラキーアとは同盟関係にあり、国王はお父さまの友人だった――」

 ルナシエーラの体が震えている。トラッシュは眉を潜めて振り向いた。

「ルナシエーラ?」

「……ひどい……ひどい話よね。同盟国に襲われるなんて……友人の治めていた国に攻められるなんて……ウィスタリアだけじゃないわ。今までずっと友好関係にあったたくさんの国が次々に滅ぼされていった。人々の叫び声が聞こえるような気がしたわ。でも……でもわたしには何の力もありはしなかった……!」

 自分にもたれかかり、額を押しつけているルナシエーラの頬を伝って、トラッシュの腕にいく筋も涙が流れ落ちていく。

 彼は軽く肩を竦めた。

「仕方ないさ。あんたには何の罪もない、いや、あんただって被害者の一人なんだ。両親を殺され、十三年もの長い間閉じ込められて……確かに周りの国の奴らにゃトラキーアに対する憎しみがあるだろうさ。でも、それはあの大臣アブダラ・マクミールに向けられているものであって、絶対にあんたに向けられることはない。自分を責めるこたないさ、ルナシエーラ」

「トラッシュ……」

 ルナシエーラが感謝するように微笑むと、トラッシュは自分で言って照れくさくなったのか、突然、声の調子を変える。

「さあって、そろそろ下りねぇと……。馬が置いてある筈なんだ。見えねえか?」

「馬?どんな色の?」

「普通の。茶色い奴。アレッサてんだ、可愛いんだぜ」

「素敵、わたし馬って乗ったことないから……あ!ねえ、あれじゃない?」

 見ると、確かにルナシエーラの指さす方向に栗毛の馬が一頭おとなしく佇んでいる。

「……ビンゴ。偉いぞルナシエーラ」

 そう言って、トラッシュは風の精霊(シルフ)へと声をかけた。

「よし、もういいぞシルフ!下ろしてくれ!」

 上質のソファのような風の固まりが徐々に地面へと下りていく。

 ルナシエーラを抱えて飛び下りると、トラッシュはそのまま馬に跨がった。

「怖くないか?」

「ええ」

 ルナシエーラがトラッシュの胸に背を預けると、さっき塔の部屋に立ち込めていた芳しい香りが彼の鼻孔をくすぐった。

 ああ……あれは彼女の匂いだったのか……。

 トラッシュは頭の片隅でそんなことを思いながら馬に合図を送る。

「はっ!」

 アレッサは一声いなないたかと思うと、そこが砂の上とは思えぬほど軽快な足取りで駆け始めた。

「……疲れた?」

 風になびく髪を片手でおさえながら眠そうに目をしばたかせるルナシエーラに、トラッシュは軽く微笑む。

「えっ?ええ、ちょっとだけ……外に出るなんて十三年ぶりだから……」

「眠っててもいいぜ、目的地に着くまでまだ暫くかかるから」

「どこへ行くの?」

「ウィスタリアの森。元は国有の狩場だったところさ」

「ああ、国境近くにある森ね。……でも良いの?あそこは王家の人間以外は立入禁止なんでしょう?」

「王国自体が崩壊しちまったのにか?――っと、暗い顔すんなって、オレは事実を言っただけだよ、あんたを責めてるわけじゃない。……確かに昔は立ち入り禁止だったけどな、王家も兵士も滅びちまった現在(いま)、あそこに住むのを咎める人間なんかいやしないよ。あそこはとてつもなく広いし、盗賊の隠れ家にゃもってこいだろ?」

「……ええ……」

「だから心配しないで寝てなよ。落っこちねーように、ちゃんと支えててやるからさ」

「ん……」

 ルナシエーラはおとなしく頷いて目を閉じた。

 風の流れが周囲を優しく包み、馬の足音のリズムが子守歌のように彼女を眠りへと誘う。

「……おやすみ、お姫様」

 そっと囁くトラッシュの言葉をぼんやりと感じながら、ルナシエーラは心地よい眠りへと入っていった――。

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