第2話
ウィスタリアの外れ、トラキーアとの国境に接する巨大な森のとある場所。
そびえ立つ樹木の枝に座り、幹に背を預けてその実を食べながらトラキーアを見つめる一人の少年がいる。
年の頃は――そう、十六、七才だろうか。後ろで一房の三つ編みにした髪をターバンのような長い木綿の布でぐるぐる巻きにして頭に止め、左耳には細長い銀板が幾つもぶら下がるピアスをしたその少年の意志の強そうな黒い瞳は、鋭くある一点……トラキーアの城を見つめていた。
「よお、何かいーもんでも見えるのかトラッシュ?」
と、下方で誰やら少年を呼ぶ声がする。
トラッシュと呼ばれた少年が下を見透かすと、一人の青年が額に手を翳しながらこちらを見上げていた。
長いクリームイエローの髪が風に柔らかくなびき、その瞳の色は雨上がりの水たまりに映る青空のように澄んで温かい。
年の頃は二十才前後であろうその青年に首を振り、トラッシュは木からまた一つ果実をもいで彼に放り投げた。
「いーや、別になんにも。お前も上がって来ねェか?この実けっこうイケるぜ」
すると果実を上手く受け取った青年は呆れたように首を振る。
「あいにく、オレは木のぼりに適した体格(ガタイ)はしてないんでね。お前こそ早く下りてこいよ。そこから見てたって宝物庫は透けて見えやしないぜ」
「オッケー」
言いながら、トラッシュは何のためらいもなく空中へと身を投げた。
「あらよっ」
そして地上四メートルくらいのところで一本の太い枝につかまり、体操選手よろしくぐるん、と一回転して着地する。
「ほい着地と」
「……10点満点やるよ。まったく相変わらずサルみたいに身が軽いなお前は」
「例えは悪いが許してやろう。盗賊にとっちゃ一番の誉め言葉だもんな」
ポンポン、と衣服をはたきながらそう言って笑うトラッシュに、青年も笑みを返す。
「まあな。……ところで、トラキーアの方角を見てたってことは受けるんだな、今回のギルドの依頼」
「ああ、受ける。そろそろ懐が寂しくなってきてンだ。お前もそうだろ、ルーシィ?」
ルーシィと呼ばれた男は肩を竦める。
「受けるんならギルドの連中の伝言だ。何でも明日から城で大層なパーティー開くらしいぜ。あっちこっちの国から王だの大臣だのお偉いさんが大勢来るから、警備はそっちに回るだろうってさ」
「ふうん、パーティーね」
「いい気なもんだぜ、まったく。国民は飢えに喘いでるってのにさ」
「だからこそ盗むのに良心の呵責を感じなくて済むんじゃねぇか」
言いながらトラッシュはピーッと口笛を吹く。
すると一頭の馬がどこからか駆け寄ってきた。
「おっ?なんだ、アレッサで来てたのか」
「ああ、最近〈風〉ばっか使ってっから、体がナマっちまわないようにと思ってね」
「なるほど」
「お前は?」
「オレ?オレも馬で来たぜ、勿論。トラキーアに行ってたからな、〈風〉を使うわけにいかんし」
「オレたちが〈風使い〉の盗賊だってのが有名になっちまったからな。ライラか?」
「ん。ライラ、来い!」
ルーシィが叫ぶと、一頭の黒馬が現れる。
「よぉし、よし、いい子だなお前は。ちゃんとオレたちの言葉を理解するんだから」
彼がそう言いながら鼻先を撫でると、ライラは嬉しそうにいなないて顔をすり寄せた。
「わっ」
「不用意に誉めたりするからだよ。自慢の髪が台無しだぜ」
その言葉通り、ルーシィの綺麗なクリームイエローの髪がバサバサに乱れている。
だが彼はあっさり首を振った。
「別に自慢になんか思っちゃいないよ、生まれつきだから。……ま、この髪を綺麗だって言ってくれる女が大勢いることは確かだけどね」
「やれやれ」
ルーシィの自慢げな一言に首を振ると、トラッシュはアレッサに飛び乗る。
「先行くぜ」
「おっ、おいちょっと待てよ!行き先はどっちだ?カルマんトコか?」
「ああ、薪割り手伝うって約束してんだ。じゃ後でな!」
ナマるどころか城の騎兵隊にすら勝るとも劣らない技術で馬を巧みに操りながら、トラッシュが木々の間を縫うように奥深くへと消えると、ルーシィはフゥ、と肩を落とした。「やれやれ、あんなんで本当に大丈夫なんだろうなぁ。今回の獲物は格が違うんだぞ」
とは言え、彼もトラッシュの猫のような身のこなしと、天才的とも言える飲み込みの早さを認めないわけではなかった。
元々、このウィスタリアの奥深い森で自給自足の生活を送っていたトラッシュを盗賊の道に引っ張りこんだのは、他ならぬルーシィである。
彼は偶然迷い込んだこの森で、まるでそれが地面の上であるかのように自然に木々の枝上を飛び抜けるトラッシュを目撃し、その日のうちに彼を口説き落としたのだ。
実際トラッシュは物覚えが早かった。その軽やかな身のこなしと、最初から覚えていた〈風〉の秘呪のおかげで建物に忍び込むことはそれこそ容易だったが、それ以外の盗賊技も彼はまるで乾いたスポンジのごとく次々と吸収していった。
最初は自分のアシスタントぐらいにしか彼を見ていなかったルーシィも、今では立派なパートナーを務めるトラッシュに対等の友情を感じるようになっていた。
「さてさて……今回の獲物はトラキーアの宝物庫だ。あそこにゃ乱心姫もいらっしゃることだし、なるべく大騒ぎにはしたくないねェ……」
そう呟きながらライラに飛び乗ると、ルーシィはトラッシュに引けを取らない操馬術で後を追いかけて行った――。
「おい!いたぞ、こっちだ!」
「逃がすな!少々傷を負わせても構わん、必ず引っ捕らえろ!」
翌夜。
パーティーで沸き返る城中に、その華やかな雰囲気には似つかわしくないほどの異様な殺気が立ち込めていた。
「どうだ、見つかったか?」
「いや、駄目だ。そっちはどうだ?」
反対方向から仲間が駆けて来るのを見て警備兵が声をかける。だがその仲間は悔しそうに首を振った。
「こっちもだ」
「そうか。くそっ、薄汚いコソ泥め、何としても見つけ出してこの手でふん縛ってやる」
「おい、あっちの方はまだ調べてなかったな?」
「ああ、まだだ。よし、行ってみるか」
バタバタバタッ、と騒々しい音を立てて警備兵たちが走り去って行く。
と、誰もいない筈のその廊下の床に、ユラ、と影が揺らめいた。
「ふぃ~、あぶねぇあぶねぇ」
天井にしがみついていたトラッシュが音もなく廊下に飛び下りる。
「おいルーシィ、もう大丈夫みたいだぜ」
トラッシュが声をかけると、地上数十階はあるこの廊下の手すりの外側にへばりついていたルーシィが、軽いかけ声とともに廊下に飛び戻ってきた。
「よっ……と。――相変わらず盗賊稼業は体力勝負だぜ。にしてもえらい大騒ぎになっちまったなぁ」
人ごとのようにのんきに呟くルーシィにトラッシュがかみつく。
「何が大騒ぎだ、お前があんな幼稚なトラップに引っ掛かったりするから悪ィんだろ!」「んなコト言われたって、あんな豪勢な仕掛けをごまんと配置してある宝物庫にそんなモンがあると思うか、普通」
ルーシィが小さく肩を竦める。
――彼の言い分ももっともだった。
彼らはパーティーの警備で手薄になった宝物庫に首尾よく忍び込み、『弓矢』だの『毒蛇の海』だの『降ってくる槍』だの『転がる大岩』だの、盗難防止だか盗賊ホイホイだかわからないような危ない仕掛けは上手くかわしたのだ。だが、最後の最後で足元に張ってあった紐に引っ掛かり、鳴子が鳴ってしまったのである。
「まったく、ここの大臣もこんだけ物欲があるくせにセコイ真似しやがる」
ルーシィが首を振りながらそう呟くと、トラッシュは事も無げに肩をすくめた。
「なに言ってんだよ。こんだけセコイから物欲も限りないんだろ」
「びえっくしょっ」
その時、玉座の付近に立ってイライラと歩き回っていた一人の男が派手なくしゃみをした。
「い、いかがなさいましたアブダラ様?」
「……何でもない。それより宝物庫に忍び込んだ盗賊めはいかがいたした?捕らえたのか?」
「い、いえ、それがその……盗賊の奴め、なかなかすばしっこい奴でして……」
おどおどと言い訳を重ねる兵士に苛立たしげな鼻息を立て、大臣は玉座にドカッと腰かける。
「言い訳はいい、一刻も早く捕まえろ。ただし決して殺してはならんぞ。必ず生かしたまま捕らえるのだ。……この私の財宝を盗み出そうとするなどけしからん。生け捕りにして国民の前で見せしめの拷問にかけてやる」
今にもヒヒヒッと笑いそうな口調で大臣は呟く。
兵士は彼の言葉に本気を感じ取って真っ青になった。
アブダラ・マクミール。当年四十四才。
見かけは、いい男の部類に入るだろう。
この年になってもお腹のたるみはどこにも見られず、髪の毛一本白くもない。顔だちも整っていて背丈もそれなりにある。
だが、彼はなぜかいつもフード付きの上着を着用していて、決してそのフードを外そうとはしなかった。
漆黒色のフードからのぞく前髪で、その色が艶やかな黒であることは辛うじてわかる。しかし髪が長いのか短いのか、その横顔さえも、誰一人として見た者はいなかった。
もしかして「ハ○」でもあるのかもしれない。
「ん?」
と、大臣が何かを探すようにキョロキョロと視線を宙に彷徨わせた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……何かもの凄く腹の立つことを言われたような気がしたのだが……」
ギク。
「気のせいだったか?」
……。
「――まあ、いい。とにかくその盗賊かならず生かしてここへ連れてこい。いいな!」
「はっ」
兵士が走り去ってしまうと、大臣は悠然とワインをすすり始めた。
「コソ泥どもめ。我が城に忍び込んだこと、たっぷり後悔させてくれるわ――」
悪魔に魂を売り渡したかのような男の言葉が、たっぷりと毒を塗ったナイフのようにあたりの空気を汚らわしく染めていた――。
「わっ」
どこをどう走っているやらわからないまま全力疾走していたトラッシュが突然立ち止まった。
「どした?」
「何か背筋に悪寒が走った。…ところで、オレたち今どこら辺にいるんだろうなあ?」
「さあな。走ってりゃどっかに行き着くだろ」
「ちぇっ。もうちょっと時間に余裕があれば精霊を呼び出せるのになあ」
「諦めるんだな。いくらオレたちと言えど、こんだけのべつまくなし追い立てられたら魔法陣を描くヒマなんてありゃしな……っ!ヤバイ、伏せろトラッシュ!」
ふと対岸の廊下を見やったルーシィが慌てて叫んだ。
「あん?」
つられてそちらに目をやったトラッシュが見たものは、自分めがけて飛んでくる無数の矢だった。
「うわっ!」
咄嗟にヘッドスライディングで身をかわそうとしたトラッシュは、右の太股に焼けつくような痛みを感じる。
「ぐっ!」
「トラッシュ!」
そのまま床に倒れこんだトラッシュを、ルーシィは慌てて抱え起こした。
「おい、しっかりしろ、大丈夫か!?」
「っつ……っ……さすがトラキーアの正規兵、いい腕してやがる」
見る間にトラッシュのズボンを血が赤く染め上げてゆく。
ルーシィはひとまず彼を抱え上げて走りはじめた。
「おろせルーシィ……オレを抱えたままじゃ…お前も……」
「うるさい、黙ってろ。仲間を見捨てて逃げられるか」
「けど……」
「とにかく、その矢を抜かなきゃならんな。……お前、たしか煙幕玉持ってたよな。投げられるか?」
「当たり前だろ。やられたのは脚だ、腕じゃねぇ」
「よし、オレが合図したら投げつけろ。そのすきにお前を上の階に放り投げてやる」
「放り投げって――お前はどうすんだよ」
「オレか?オレは――煙幕を突っ切って正面から突っ込む」
「な!」
「おっと、うだうだ言ってる暇はないぜ。こういう時はパートナーを信用するもんさ。さあ――行くぞ!」
「……わかった」
一瞬顔を歪ませたものの、トラッシュは仕方なく頷いた。自分がこのまま彼に抱えられたままでいるより、彼一人にした方が遙かに逃げやすいのも確かなのだ。
いざとなったらオレが囮になればいい。
そう決意して、トラッシュはブレスレット状にしてあった煙幕玉を何発か引きちぎった。
「いいか、煙幕が張られた瞬間、オレがこいつで上の階までロープを張ってやる。このボタンを押せばロープは勝手に巻き取られるから、脚をやられてるお前でも十分に上の階へ移れるだろう。いいな?」
「OK」
そのまま二人はあちこちの廊下を走り抜け、上の階に誰もいない場所を見つけだす。
「今だ、投げろ!」
「……りゃっ」
ルーシィの声に煙幕玉を投げつけるトラッシュ。
「うわっ」
「な、何だこりゃ!」
「気を抜くな、煙に紛れて逃げ出す気だぞ!」
兵士たちが叫んでルーシィの周りを取り囲んだ瞬間、彼は持っていたボウガンのような武器で上の階の手すりにかぎ付きのロープを打ち込んだ。
ピシィッ。
張り詰めた音がして、ロープはがっちりと動かなくなる。
「よし行け!」
ボウガンをトラッシュに手渡すと、ルーシィは煙幕を突っ切って駆けだした。
「いたぞ、こっちだ!」
すべての兵士がルーシィに気を取られて追いかけて行くのを見届けながら、トラッシュは静かに上の階へと昇って行く。
「上手く……上手く逃げてくれよ、ルーシィ……」
だんだんと遠ざかる騒がしい音を聞きながら、トラッシュは唇をかみしめていた……。
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