第10話 また眠ってしまいました。

「で、何もなかったのですか? 何も!」


 夕暮れ時。すっかり傾いてしまった太陽は、街の聖堂を紅く染めていた。

 ヴァネッサの顔も紅く染まっている。きっとそれは夕日のためだろう。クラウディオはそう思った。

 ヴァネッサが大変ご立腹なのは間違いない。しかし、なぜこんなに怒っているのかクラウディオにはさっぱり理解ができなかった。


「いやだから、気持ちを伝えて……同衾までしたのだぞ」


 数時間前のことである。


 どうにも一向にクラウディオが訪ねてこないことに痺れを切らしたヴァネッサ。

 彼とミーナがいるはずの部屋の扉をノックしても返事がなく、妙に静かだった。


 仕方なくその部屋に突撃したヴァネッサが見たものとは……「すやぁ」と気持ちよさそうに寄り添って眠るクラウディオとミーナだった。

 衣服も、髪も、肌も……まったく乱れがなく、色気もなく、余韻もない。

 年頃の男女とは到底思えないほどの清々しい寝姿。一目で何もなかったことが分かる様子であった。


 二人の間の物理的な距離はともかく、精神的には距離がなくなったことだけは、伝わってきた。

 にもかかわらず、である。


「自信たっぷりに言われても……同衾と言っても隣で眠っていただけなんでしょう? キスすら——」

「そういうのはミーナの気持ちを確かめてからだろう……嫌がったらどうするんだ?」


 この鈍感男が……朴念仁が……にぶちんが。

 そこまでミーナ様の態度を見ていれば、彼女が何を望んだのか分かるでしょうに。

 言いかけるのをヴァネッサは我慢する。


 さすがにクラウディオは詳しいことを語らなかったが、ミーナには、それなりの覚悟があったのだろう。

 クラウディオに対し恥をかいたとは思っていないのだろうが……。


 少しイラッとしたヴァネッサ。

 彼女はクラウディオの靴に軽く蹴りを入れるのは我慢しなかった。

 もっとも、クラウディオは蚊にかまれたくらいにしか感じなかったのだが。


「やれやれ……この件は、いずれゆっくりお話ししましょう」

「え? この説教ってまだ続きがあるのか?」

「…………えっと……」


 そうだ。この方は、ミーナ様のために全てを捧げてきたのだ。

 俗な私の意見など……二人には似合わないのかもしれない。ヴァネッサは思う。


「そうですね、言い過ぎました。失礼しました」

「いや、いつも君の意見は参考にさせてもらっている。気にしなくていい」

「……ありがとうございます。さて——」


 ヴァネッサは気持ちを切り換え、本題を切り出す。


「先ほど、魔王復活の報せがありました。恐らく聖女に招集がかかりますが、こちらにミーナ様がいらっしゃることは伝えていません」

「そうか、ありがとう。まだ時間はありそうだな。その件は、放っておいていいだろう。それと、ミーナがだが」


 クラウディオの声に、棘のようなものが含まれる。


「……はい。コリン伯爵の方は、まあ色々と腹が立つことはありましたが、一般人でしょう。婚姻を前にミーナ様に手を出そうとしていたフシがありましたが、私が警戒度を上げたところ諦めたようです。結局は小心者なのでしょう」

「ふむ。君は怖いからな」

「…………で。私は伯爵家に寄生するカミラという女が怪しいと考えています。遂に尻尾までは掴めませんでしたが……悪魔が襲ってきたタイミングといい、必ず何かあると思っています」

「うむ。私が直接尋ねてみよう。特に伯爵には、ミーナに対するを是非しなければな」


 礼、という言葉にさらに強い棘が込められていた。


「あの、そちらは自制をお願いしますね」


 ヴァネッサは、クラウディオが私刑を行うような迂闊な男ではないことをよく知っていた。

 知っているのだが、ことミーナに関わることについては、ムキにならないか心配だ。


「分かっている」

「それと、カミラという女ですが、相当に闇が深いものと思います。この地域は、昨日のような悪魔の襲撃が時々あったそうです。悪魔に通じる者かもしれません。私は、尻尾を掴むことができませんでした」

「うむ、用心しておこう。明日ミーナが起きたら話をして、それからは私だけで出発する」


 やはり、ミーナ様を、もう伯爵には会わせたくないのですね……ヴァネッサはクラウディオの心中を察した。


「はい、お気を付けて」

「その後は、ヴァネッサ。どうかミーナのことをよろしく頼む。衛兵にも警備の増強を頼んでおいた」

「ありがとうございます。私の命にかけて、お守りします」


 ヴァネッサの覚悟は、決して指示によるものではない。

 ただ守りたいものをこれからも守る。たったそれだけの素直で純粋なものであった。

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