第11話

「母親と昼メシ食って……2時か3時には家に帰るよ。昼は冷蔵庫にあるもので悪いけど……」

 翌朝、湯川は着替えながら、そう登偉に伝えた。

「はーい。オレはピアノの練習しないと……」

 登偉はキッチンで紅茶をすすって、そう答えた。着替える湯川の一挙手一投足を逃さず見つめながら。

「じゃな」

 湯川はローストビーフとくず餅が入った紙袋を持つと、登偉に声をかけた。

「はい、気をつけて~」

 登偉は湯川を送り出すとミニキーボードをソファの前のテーブルに乗せた。それにヘッドフォンをセットし、楽譜をバッグから取り出した。たまにスマートフォンで原曲の演奏を確認しながら、自分のパートの練習した。ライブの曲順決めがまだだったので、音源を確認しながらセットリスト案をバンドのグループLINEに送ったり。頭を使っているからか、正午ごろにはたちまち空腹になった。

 登偉はヘッドフォンを頭からはずし、立ち上がると両手を挙げ、グーッと身体を伸ばす。ゆっくり息を吐くと、キッチンへ移動。シンクで手を洗い、冷蔵庫を開けた。

 ≪冷蔵庫にあるもので悪いけど……≫と湯川が言っていたが、それを否定したいくらい、庫内にはホーローの保存容器がたくさん並んでいた。ローストビーフとちぎったリーフレタス、ポテトサラダを冷蔵庫から出した。スライスされたパンにレタスとローストビーフを乗せ、ソースをかけてパンを重ねて軽く押さえる。ポテトサラダはブラックオリーブと玉ねぎを具としたシンプルなものだった。

 食事の時くらいは気分転換に、と登偉はテレビをつけた。

 幸せすぎてコワい……。正月の平和なテレビを見ながら、登偉はふと感じた。このような感覚は、今までの自分には考えられなかったものだ。言葉にすればいたって月並みだが……。両親が離婚して、母親と暮らしていた時のこと――ときどき自分と2人きりになる<母の恋人>とのこと――を思い出すことはあっても、それから受ける衝撃は以前より弱くなっている気がする。なにかしら居心地の悪さを抱えながら暮らしていた日々、からの現在。≪Life on Mars?≫に気づいてくれた湯川が、今や傍にいる運命。

 登偉は食べ終わっても、しばらくテレビを眺めていた。差し紙されるように自分のやるべきことを思い出すと、スクっと立ち上がって食器を洗い、練習を再開した。午前中のように聴く、弾くを繰り返す。グループLINEに返信が来ていたので、読んで考えて、また返信する。楽譜の空いたページに付箋を貼り、そこにライブの曲順を書いていく。曲順がおおかた決まり、演奏の流れを掴むと、登偉は頭を音楽から解放させた。ヘッドホンを外してソファに横になり、固まりかけた腰と背中をソファに沈みこませた。どこからか子供たちの笑い声がする。そうか、冬休みだよな……登偉は心地よくなって目を閉じた。


 登偉の眠りが浅くなるころに、鋼のドアが開閉している音が聞こえた。そういえば湯川が帰ってくる時間かな、夢うつつの頭でそう思った。登偉は外の西日を感じながら身体を起こした。

「登偉?」

 立ち上がったところで名前を呼ばれ、声の方向を向いた。

「なんでここにいる?」

 玄関に立っていたのは曽我部だった。


 曽我部は部屋に上がり込み、登偉の前に立った。

「知り合いだったのか?湯川と」

 曽我部はテーブルの上を見回した。キーボードやヘッドフォン、楽譜。それに紅茶の入ったネイビーのマグカップ。以前、湯川が棚から取り出そうとしてやめたものだ。

「知り合い以上かもしれないな」

 登偉は答えなかった。曽我部を無視し、テーブルの上のマグカップを取ろうとすると、すかさず曽我部がマグカップを壁に投げつけた。重たく大きい音に登偉の呼吸は荒くなった。

「いつからこんな関係になってた?」

 登偉は息をするだけで精一杯だった。こちらが黙っていると、曽我部も黙っていた。登偉は曽我部の足元を見ているしかなかった。

「訊いてんだろ!!」

 怒鳴られたかと思うと、左頬に熱と衝撃を感じ、身体のバランスを崩すとキーボードの上に倒れこんだ。手をついて立とうとすると曽我部が登偉の頭を押さえつけた。

「オレのなにが不満だ?」

 曽我部はテーブルから登偉の身体を引き離すと、ソファに叩きつけた。


 湯川は母親に持たされた土産を手にさげ、マンションのエレベーターを下りて自室への廊下を進んだ。出かける時に鍵をかけてなかったが、登偉がいるから大丈夫だろう。湯川はなにも考えずにドアを開けた。自分と登偉の物ではない靴が目に入り、違和感が一気に湯川の表情を奪った。

「おかえり」

 そう言ったのはソファの前にいる曽我部だった。湯川はなにも言わず荷物を置いてソファの前に回り込んだ。ソファには登偉がうずくまっていた。

「登偉」

 登偉の身体を起こしながら湯川は名前を呼んだ。登偉は湯川に気づくと、ただ彼にしがみついた。

「もう大丈夫だ」湯川は登偉を支えながらソファに座り、立っている曽我部を見上げて言った。

「帰ってくれ」

「登偉がここにいる理由を教えてほしい」

 湯川はしばらく答えなかったが、埒が明かないと思い口を開いた。

「付き合ってる……」

「いつからだよ」

「10月くらいかな……」

「オレがこないだ来たときにはもう付き合ってたのか。あの歯ブラシも……マグカップも登偉のだったってことか」

 湯川は黙っていた。答える気配もなく、こちらを見もしない湯川。曽我部は両手を振り上げ、次の瞬間テーブルの上のものを両手で払った。大きな音をたて、キーボードやヘッドフォンは床にたたきつけられた。その方向に原型をとどめていないネイビーのマグカップが湯川の視界に入った。湯川は登偉を背もたれに寄りかからせると立ち上がった。

「気が済んだか?」

 湯川は曽我部をまっすぐ見て言った。湯川の声は落ち着いていたが、曽我部は彼の目の奥から感情が見て取れた。

「登偉を傷つけるのなら今すぐ出ていけ」

 曽我部はため息をついた。そして登偉にも聞こえるようにこう言い放った。

「せいぜい、こいつのカラダを楽しめばいいよ。オレが散々抱いた……」

 湯川は曽我部の喉をつかんだ。

「登偉を辱めるのは俺が許さない」

 静かな言い方だったが、震えのない声には決意と威厳が滲んでいた。曽我部を突き放すようにして喉から手を離した。

「もうお前は友人じゃない」

 曽我部は後ずさりしてソファから離れると、逃げるように玄関で靴を履き、部屋を出ていった。湯川は鍵とドアチェーンをかけ、首をもたげると目を閉じて呼吸を整えた。

 湯川はビニール袋に氷のかけらをいくつか入れ、口をしばってタオルで包んだ。ソファには登偉が背もたれに脇をもたれて座り込んでいた。

「横にならなくて大丈夫か?」

 湯川はソファに座り、登偉の頬にそれを当てた。

「はい……なんとか……」

 登偉はそう答えながら頬に当てられた氷を自分の手で押さえた。湯川はつづけて、登偉に口を開けさせ、切り傷がないか確認した。登偉の口の中に少しの出血を確認すると、ティッシュペーパーを何枚か取って血の混じった唾液を吐き出させた。

「自分でまいた種です」

 登偉は諦めたような表情で言った。

 湯川は優しい表情で登偉の髪をなでた。そしてこうつづけた。

「でももう、これで全部刈り取ったんだ」

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