第7話
湯川はアトリエの帰りに有賀のギャラリーに立ち寄り、個展の案内ハガキの束を受け取った。その足で簡単に夕食を済ませ、帰宅した。すぐに暖房を入れるほどの寒さではないが、最近は帰るとすぐに熱い紅茶を入れるのがルーティンになっている。湯川はハガキの入った紙袋をテーブルに置くと、やかんに水を入れ、火にかけた。その間に、上着を脱ぎ、バスルームで手を洗ってうがいをする。タオルで口元をふいて、バスルームからキッチンに出る。湯が沸いて、やかんが鳴き声を上げるのと、玄関に曽我部が立っていることに気づくのが同時だった。湯川はいつも以上に動揺した。
「ひさしぶり」曽我部は微笑んで言った。
「勝手に入ってくるなよ……」
湯川は暗い目をしてそう言った。曽我部はそんな湯川に少しだけ違和感を感じた。
「帰ってきたのか」
「3日間だけね」
曽我部は靴を脱いであがった。
「今お茶入れるから、手洗って、うがいしな。風邪予防」
「へいへい」曽我部はバスルームに向かった。
湯川はティーポットに熱湯を入れた。そうしているとソファの上にあるクロッキー帳が目に入った。急いでやかんを置き、クロッキー帳を取り上げて寝室のベッドの下に隠した。曽我部はバスルームを出るとダイニングに座った。湯川はバーガンディのマグカップを水切りカゴから出し、2つ目のマグカップを出すために食器棚の戸を開けた。いつもの癖でネイビーのマグカップに手を付けたが、すぐにハッと気が付き、まったく別のマグカップを食器棚から取り出した。
「……登偉が、会ってくれなくて」
曽我部は茶を一口すすって、そう切り出した。湯川は下手な言葉を出さないように気を付けた。気がつけばラジオも音楽もかかっていない。静寂が湯川の緊張感を強めた。
「……忙しいんじゃないの」
「そうだといいんだけど」
そう言って曽我部は湯川の方を見た。湯川は曽我部と目を合わせるのに苦心した。
「また個展やるんだ」曽我部は、湯川に渡された1枚の案内ハガキを眺めながらそう言った。
「よく続いてるよね。普通のサラリーマン生活にズブズブはまるかと思ってたけど、会社を辞めたと聞いた時は正直ビックリしたよ」
「おかげで今も独身だよ」
湯川は自嘲するように言った。曽我部は、それについては何も答えなかった。2人は数分間無言だった。
「湯川、女できた?」
しばらくの沈黙のあと、曽我部はそう切り出した。
「え?なんで?」
湯川は心拍が早まるのを感じた。
「バスルームに歯ブラシが2本あったからさ。あと……マグカップも、さっき取ったやつペアっぽいよね」
湯川は≪適切な≫返事に窮して、しばらく無言だった。
「ずっと独りさ」こう答えるのがやっとだった。
曽我部は30分くらい滞在して、家に帰ると言い出した。
「次は年明けに来るよ」靴をはきながら曽我部は言った。
「次はいつ来るか知らせてくれよ。酒とつまみを用意しておかないと」
湯川は予防線を張った。
「わかった」曽我部はそう言って微笑んだ。ドアスコープから曽我部が遠ざかるのを確認すると、湯川は静かにドアのカギをかけた。
曽我部を送り出してからしばらく経っても、湯川の動悸は止まらなかった。いつか曽我部にバレるだろうと覚悟はしても、どう弁解するかは全く発想できなかった。曽我部と登偉の間に肉体関係はあるが、湯川と登偉との関係はそれよりも深いものだと自負している。バレた時について、考えを巡らせていると心がどこかへ行ってしまっていた。……とりあえず曽我部はまたベトナムへ往き、年内は戻ってこない。湯川は思い悩むのをやめ、ロックグラスにウィスキーを注いで呑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます