第3話

 自分の身体の上に重しが乗っている。いや、これは単なる重しではない。体温がある。下半身に明らかな違和感。今までに経験がない感触と快感。自身になにが起きているのか、知らなければならない。

 暗闇のなかで、登偉はぼんやりとした意思で明らかな嫌悪感と戦おうとしている。


 湯川は朝食の支度を終え、登偉を起こそうと寝室に入った。登偉は大量の汗をかき、悪夢にうなされているようだった。湯川は登偉の腕に手を添え、彼を起こした。登偉は目を覚ますと湯川から逃げるように身をよじらせた。

「大丈夫か」

 登偉は声がする方向を見た。目の前にいるのが湯川だと、ゆっくりと認識した。

「うなされてたぞ」

 乱れた息を鎮めるのに精一杯だった。

「飯できてるぞ。それよりも先にシャワーだな」湯川は登偉の肩を叩いた。


 湯川が部屋から出ていくと、登偉は自分に着衣の乱れがないか確かめた。リビングの先のキッチンには朝食の準備がしてある。「シャワーはあっちな」


 バスルームに入ると、登偉は改めて自分の身体を確かめたが、違和感はなかった。壁の向こうから料理の音が漏れてくる。そして自分は今、出会って間もない男の部屋にいる。シャワーも浴びず、このまま逃げ帰ることもできる。だが、彼は躊躇なくバスタブに入り、蛇口をひねった。


 バスタブを出ると、洗面台の足元に新しいTシャツや短パンが畳んであるのが見えた。広げるとかなり大きい。登偉は、それが湯川のものだとわかった。「着替え、お借りします」バスルームのドアを少し開け、濡れ髪のまま湯川に言った。

「おー」湯川は目玉焼きを返しながら返事をした。


 登偉の身体は元々華奢な方だが、体格のいい湯川サイズの服のせいでよけいに華奢に見えた。それがまた可愛くて、湯川は目を細めてしまった。


「卵とか乗っけちゃったけど、食べられるか?」

 食卓に並んだのは、レタスやトマトが彩りよく盛られたサラダや、目玉焼きにベーコン。別の皿にはスライスされたカンパーニュ。

登偉が席に着くと、紅茶を淹れたマグカップが湯川の手から置かれた。自分でも気づかぬうちに登偉の目は輝いていた。「いただきます」両手を合わせて言った。

「いつもこんな豪華な朝ごはんを……」

「日に寄るよ。忙しかったり、疲れてたりすれば簡単に済ませちまう」

 紅茶を一口飲んで、カンパーニュを両手で持ってかじる。そんな登偉を見て、湯川は再び目を細めた。

「パンがめちゃくちゃ美味しいです」

「これ、下の商店街のパン屋のやつ。バターとかつけなくても美味いから気に入ってる」

 登偉がふとリビングに目をやると、ソファに乱雑に置かれたタオルケットと、枕サイズにたたまれたバスタオルが目に入った。

「湯川さん、ソファで寝たんですね…」

「ん?…あぁ。狭いベッドだろ?野郎2人で寝るのもどうかと思ってさ」

「オレ、起きた時…大きい声出しちゃって…すみません」

「うん。びっくりしたけど、気にしてないよ」

「たまに見るんです…悪夢っていうか…」

 湯川は彼を受け入れるようにうなづいた。

 

 作りすぎかと思う量だったが、2人とも見事にたいらげた。登偉はお礼に食後の片付けをした。その間に湯川はアトリエに行く準備をした。

「今度はレコードを聴きにおいで。デヴィッド・ボウイも色々持ってるから」湯川はマンションの玄関で登偉にそう言った。

「はい。またお邪魔させていただきます」


  2人は逆方向に分かれて歩いて行った。しばらくして、登偉は振り返って離れていく湯川の大きい背中を見つめた。また会えるんだ、と思うと登偉の心は静かに踊った。そして駅の方向に向き直して広い歩幅で歩き始めた。


 途中でパン屋をみつけた。ウィンドウを覗くと、さっき2人で食べたカンパーニュを見つけた。登偉はすかさず店内に入り、カンパーニュを買った。

 登偉は実感していた。さっきまでの、あれは2人の時間だったと。今まで多くの男性の相手をしてきたけれど、そこに<自分はいなかった>。なにが行われていたか、考えたくも思い出したくもない。だが、湯川は自分を安全な場所で休ませてくれ、朝食を共にしてくれる。2人で共有する時間。登偉は商店街を歩きながら、顔や腕に、強く吹く風の動きや温度を感じていた。


 湯川はアトリエで作業をしながら、頻繁に登偉のことを思い出していた。心に重く残っているのは登偉がうなされ、目覚めた途端に危険を察知したような反応をしたことだった。ただ悪夢にうなされていたのなら、あんなことになるだろうか。彼の人生になにか問題が?ふと頭をよぎったのは曽我部のことだった。

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