第2話
横浜港と山下公園を望むバー≪LOADING―ローディング≫。湯川がそこに入っていくと、待ち合わせ相手の有賀淳子はすでに席についていた。
「やっぱり早いな」
有賀は湯川との待ち合わせの時には100%先に着いている。
「まぁ、商談だからねぇ」
有賀は表情を変えずに答えた。
湯川が席に着くと、すぐにウェイターがおしぼりを持ってくる。中腰になったウェイターの方を見ると、10日前に会ったピアニストの青年だった。
「おお!ここで働いてんの!?」
嬉しそうに湯川は驚いた。
「はい、先日はありがとうございました」
湯川は登偉の手からミントの香りのするおしぼりを受け取った。登偉は二人から注文を受けた。
「どうぞごゆっくり」
有賀淳子は、湯川と曽我部の高校の同級生で、元町や桜木町に画廊を構えている。湯川は何年かに一度、有賀のギャラリーで個展を開いている。
「いまの彼と会ったことあるの?」有賀は登偉について湯川に尋ねた。
「おとといくらいかな?曽我部に紹介されて。あの子、ジャズのバンドやってるんだよね」
そう答えると、有賀は遠くを見た。
「彼と曽我部、ここで会ったのよ」
有賀は登偉と曽我部の関係については既にお見知りおきのようだった。
「私がトイレに行って、戻ってきたらもう知り合いになってた」
「へぇ…確かにあの年の差は…」
湯川はそう言いかけて、登偉を目で追った。無駄な肉のない頬、鼻から唇のラインは美しい磁器のようで思わず触れたくなる。見惚れるくらいの美しさなのに、彼自身は良く気が回り、常連客につかまっては気さくに笑う。外国人旅行者と英語でやりとりしてるのにも見入ってしまう。
「それで―」有賀がそう切り出すと湯川は我に返った。
「うん」生返事をしながら湯川は姿勢を正す。
「12月はいつでも入れられるよ、個展」手帳に目を注いだまま有賀は言う。少し間をおいて、
「12月の中旬にしようかな。クリスマス前で、人出も増えるだろうから」
「わかった」有賀は手帳に書き込んだ。
すると有賀の携帯電話が鳴った。彼女は誰からの着信か確認すると、「ごめん」と一言だけこぼし、電話に出ながら店を出ていった。
湯川は一人になるとすぐに視線だけで登偉を探す。登偉と目が合うと湯川は右手を挙げた。登偉はかるく頷き、足早に湯川に近づいた。彼が腰を曲げ、顔を近づけてくれたことに湯川はひそかに喜んだ。
「今日、仕事何時まで?」湯川は声を低めにして目立たないようにした。
「0時までですね」
「仕事終わったら呑みにいかない?」
「湯川さん、デート中じゃないんですか?」
湯川は首を横に振った。
「彼女とは仕事だけよ」
そう言うと登偉は微笑んだ。
「いいですよ」
「よし決まり!0時すぎに桜木町駅で待ってるよ。これ俺の番号。なにかあったら連絡ちょうだい」
湯川は、名刺を人差し指と中指で挟んで登偉に渡した。
0時を過ぎると駅周辺でも灯りが消えていく。自分のいる場所を闇が覆い尽くそうという中でも、こちらに向かってくる登偉のことはすぐに見つけることができた。
「すみません、お待たせして」
「全然いいよ、おつかれ!」湯川は登偉の背中に触れて出迎えた。
「曽我部には内緒な」
「そうですね」小声の湯川に登偉はいたずらっぽい笑顔で返した。
「腹減ってるだろ?この辺は朝までやってる呑み屋たくさんあるけど、眠くなったらウチに来ても良いし」
「湯川さん家、どの辺なんですか?」
「元町よ。歩いても行けるし、タクシーならすぐ。登偉くんは?」
「僕、新杉田です」
「じゃあ、ここから一本なんだ」
2人はそう話しながら、野毛の小さなバーに入った。
「元町のはずれの中古レコード屋にいるでしょう、たまに」
ミックスピザを頬張る登偉に、湯川は目を細めながら尋ねた。少し驚いた様子の登偉だったが、すぐに嬉しそうに笑った。
「水くさいなぁ。声かけてくださいよぉ」
「まだ知り合う前だから、ただのナンパだろ?」
湯川がそう言うと、登偉はシャンディ・ガフを噴き出しそうになった。
「そうですね。別にいいですよ、ナンパでも」
登偉はいたずらっぽい笑顔を湯川に向けた。彼は若い男性らしくよく食べ、注文した料理を次々と平らげた。湯川は、そんな彼を満足げに眺めながらゆっくりと酒を呑んだ。
「今のバイトは、もう長いの?」
「はい。高校出てからすぐに働いているので、もうベテランだと思われてますね」
「若いのに!」
「そうなんですよ。年上の学生なんかに仕事を教えたりしてたこともあって。出勤すると賄いが出るので、一人暮らしの身としては助かってます」
「料理美味いね、あの店。呑むだけじゃもったいないと思った」
「ありがとうございます。ぜひ、また来てください」
「そういえば、さっき外国人と英語で話してたね」
「すこしですけどね、話せるのは。以前に行ってたジャズ・ピアノの先生がアメリカ人で、日本語が上手な人なんですが、せっかくだから英語で教えてもらって……。ていうか、湯川さん、よく見てますね」
ニンマリと笑みを浮かべて登偉は言った。
「そうかな……」
湯川は思いもよらない指摘に、急に恥ずかしくなった。
「湯川さんは、なんで絵画修復士になったんですか?」
食事も終わり、落ち着いて酒を呑みながら登偉は尋ねた。湯川は水割りをのどに流し込んで話を始めた。
「絵は中学から描いてたんだけどね、美術部で。高校生の時に実家が豪雨で浸水して、俺の絵描き部屋も一階だったからたくさんの絵が水没してしまったんだ。すごい気に入っている絵が一枚あって、その絵も……。そのことを予備校の先生に話したら、絵画修復のことを教えてくれてね。それで、その気に入っている一枚だけ修復してもらった。水没する前より全く同じではないけど、絵は蘇った。そこでなぜか、自分も生まれ変わった気持ちになった。自分が描いて、一番気に入った絵がダメになるって、ものすごい挫折感だからね。同じ絵なんて二枚と描けない。絵に対する情熱を失ってしまうのかなぁと思っていたんだけど、絵が修復されたことによって、描きつづけようと思ったんだ。
自分が描いていないものにしろ、今までの日常にあったものだから、絵や写真は。それが水や泥で汚れ、非日常に引き出されてしまう。だけど修復することによって、途切れた日常を取り戻すことへの一端になる。絵を描くことも続けやすいし、修復士になろうかなぁ、と思ったんだよね」
湯川が話しおわり登偉の方を見ると、登偉は目を潤ませていた。
「なんで!?」
「いや…いろんなこと考えているなぁって。自分が高校の時、そんなこと考えていなかった…。自分の生活がイヤで、音楽に逃げてばかりだった…」
「学生のころは現実逃避も普通だろ?でも珍しいよな、若いのにジャズを演るなんて」
「父親と父方の祖母がジャズ好きで。ピアノ弾きながら歌うと祖母や祖母の友達が喜んでくれたんですよ。ジャズのレコードやCDならいくらでもあったから、たくさん聴けましたね。お年玉とバイト代はスタジオ代や楽譜に使って」
「プロのピアニストになろうと思ったことはないの?」
「いままで音楽をつづける事に必死だったというか……考えたこともなかったです。もっと上手くなりたいと思ってたからレッスンにも行ってたんですけど」
登偉はそう言ってグラスの白ワインを飲み干した。
街は空気の温度を下げ、静かに朝を待っている。その空気は、バーを出た2人の酔いを少しだけ冷ました。湯川は自動販売機でミネラルウォーターを2本買い、1本を登偉に差し出した。
「ありがとうございます」登偉はペットボトルで首筋を冷やしてから、キャップを開けて一口飲んだ。
「なんか、大人との会話ってやつを久々に思い出しました……曽我部さんとはこんな話しないんで」
「曽我部とはどのくらい付き合ってるの?」
「付き合ってる、っていうか、どちらかというとセフレって感じですね。会ったら、やることだけやって…連絡をもらうときもやりたい時だけって感じだし。……よくよく考えたらオレから会いたいって言うことはなくて。会いたいって思うこともないし。なんか、少しいびつな関係だなって思ってます、最近は」
「正直だな。オレ、曽我部とは友人なんだけど」
「すみません……」
「まぁ、腐れ縁みたいなものだけどね……40年近く一緒にいると。部屋にも勝手に入ってくる。学生時代からな。……さ!ウチに行こう」
「はい!」
2人は元町方面へ歩き出した。
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