第二十四話 Pudding Night
シンクを流れる水の音に可愛らしい鼻歌が混じり始めた。直後にリビングの扉がカチャリと開いて、細い首にバスタオルをかけた花恋さんが小粋なステップで入ってくる。
「あ、洗い物手伝うよー」
彼女は僕に体を寄せてシンクの中を覗き込んだ。シャンプーが
「もう終わっちゃうよ、洗い物」
「えぇーそっかぁ」
むっ、と頬を膨らませて冷蔵庫を開いた。鼻歌は再上映される。
「ご機嫌だね」
「えへへ〜。今日はね、ご褒美があるから」
花恋さんはそう言って冷蔵庫から小さなカップのショートケーキを取り出した。
「テスト頑張った自分への。高坂君の分もあるから、はいどうぞ」
「え、ありがとう。いいの?」
人差し指と親指はお互いに牽制しながら主導権を求めて僕の裾を噛んだ。
「高坂君と一緒に食べたくて買ってきたんだもん。いっぱいお勉強教えてもらえたし。だからその、い、一緒に食べよ?」
綺麗な瞳が僕を捕らえた。僕は頷いた。
二人でベランダに出た。新緑が世代を引き渡した湿り気のある夜の
「すっかり梅雨だね」
「そうだよね。髪が、湿気で……」
花恋さんは苦い顔でお風呂上がりの暖かい髪に指を絡めた。
「別にいつも綺麗だよ」
「えっ、そ、そう……?」
彼女のカップケーキが何かを隠すように空気に触れた。透明なプラスチックのスプーンにリビングの光が反射する。
「ハーフアップにしてたのはそのせい?」
「え? あぁテストの時?」
「そう」
いつものポニーテールの方が髪型作るのは楽そうだけど。
「あれは
「願掛けね」
「うん。そんな感じ」
彼女は苺を口に運んだ。
「寒くない?」
「うん。大丈夫」
「そっか」
少し空白ができた。人間は心臓に
「お母さんは、元気?」
独り言の縄張りに入らないように呟いたその言葉に、彼女のスプーンが
「う、うん。まあ、わからないけど……」
「まだ、目を覚まさないの?」
彼女の母親に直接会ったことはなかった。それに関しては花恋さんが首を横に振るから無理に会いに行くのも違うのだろう。彼女にしかわからない家族の
事故で意識を失った。
知っていることはそれだけだった。
「絶対、戻ってくるから……」
彼女はそう小さく呟いた。それだけだった。
「すみれ? いる?」
部屋のドアがいきなり開いた。慌てて鍵盤の蓋を下ろし、ドアの方を向いた。
「あ、お姉ちゃんか……」
「なによ、お姉ちゃんじゃ不満だった?」
「いや、その」
ピアノ椅子から離れた。そこにいてはいけないって、わかってるから。
「ピアノ弾いてたの?」
お姉ちゃんはたった一言で核を突いた。ばつが悪い。
「う、うん。ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「だって……」
私はデスクライトを消した勉強机に目を向ける。
「まーたパパになんか言われたの?」
「いや、まだ……」
通学鞄の中にはアイデンティティが欠落した無価値な解答用紙が入っている。
「うまく、いかなかった?」
お姉ちゃんの声は摩擦がなくて優しかった。
「が、頑張ったけど、あんまり、よくない……」
下瞼の裏がぐうっと膨張した。他意のない情けなさだけが心の奥底を流れて毛細血管を無慈悲にかき混ぜる。
「お姉ちゃんはちゃんとできたのに、私は」
私の言葉を遮るようにお姉ちゃんは私の体を抱き寄せた。すっかり女性の柔らかさになったそれは、私が失敗作である証拠であるにも関わらず、ただひたすらに私を肯定してくれた。
「パパの言うことなんか聞かなくていいよ。すみれはすみれで大事なものがあれば充分だから」
「でも」
私は西野すみれである前に、西野家の次女だから。
「もっと頑張らないと、パパやお姉ちゃんみたいになれない」
「すみれは、なりたいの?」
「え?」
「脳外科医」
「なりたいって言うか、ならなきゃ」
「そんなことないんだよ? もしすみれが脳外科医を目指しているのが、私やパパのせいなら絶対にやめた方がいい」
お姉ちゃんは私の体を離して大きな目で私を見つめた。綺麗な手が肩を温めた。
「そんなこと、パパが絶対許さないよ」
お姉ちゃんはベッドに腰を下ろして、おいで、と掛け布団をとんとん叩いた。隣に腰を下ろす。
「やっぱり何かやりたいことがあるの?」
「え、えっと」
「パパには言わないから、お姉ちゃんだけに教えて?」
閉じた鍵盤の蓋に目線を投げる。
「プロの、音楽家になりたい」
手が震えた。これではメスにも白鍵にも嫌われてしまう。
お姉ちゃんは何も言わずにその手を握ってくれた。数十秒そうやって私に寄り添って、それから言った。
「素敵じゃん。それでいいんだよ」
「でも、お医者さんより全然難しいし、お金もかかるし。許してもらえないよ」
「お姉ちゃんがついてるから」
「え?」
「確かに簡単には許してもらえないと思う。でもすみれが本当になりたいものなんだから、お姉ちゃんいくらでも味方になるよ」
少しだけ握る手に力を入れた。お姉ちゃんはちゃんとそれに呼応してくれた。
「一緒に話してみよう。大丈夫だから」
「う、うん……」
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