第二十三話 辻褄

 窓際の一番後ろは教室の喧騒から離れるのに最適な場所だった。今日の昼休みも二つのノートが教科書を共有電子ついにして並んでいる。昼ごはんを食べ終わったクラスメイトたちもテストに向けてノートを広げる者とそうでない者に二分されていた。


 彼女のシャープペンシルが止まった。それが演算処理か行き止まりなのかは判断がつかないから彼女の手が僕の袖を引っ張るまでは決して僕から声をかけない。


「んー……」


 ペンのお尻の方を下唇に押し当てて唸る。目線の先には無慈悲なωオメガが根を張っていた。


 少しだけ考えさせてあげようか。


 僕が自分のノートに目を落としたその時。


「花ぁ恋っ」


「ぁんっ」


 いつの間にか背後に回っていた安達さんが彼女の脇腹あたりにくすぐりついて、三組のマドンナは不覚にもを見せた。


 えっ、とクラス中の視線が集まった。流石にその中には僕も含まれていた。


「ぁ……えと……」


 花恋さんは真っ赤に頬を染めて細かく唇を迷わせる。時間にして二秒にも満たなかったが、安達さんを含めその教室内の全ての思考回路が切断されていた。


「ば、ばかぁ……! うぅ」


 彼女は安達さんをぽこぽこ殴るとそのまんま恥ずかしさを隠すように走って教室を抜け出した。我に返った安達さんが必死に謝りながらその後を追っていく。


 空気が溶けた。みんなの新たな矛先は当然僕である。


「おーい画伯何したんだよー!」


「昼休みに保健勉強すんなや」


「何もしてないって。数学だし」


 僕は数Ⅱの教科書を机から少し浮かせて、蝶のようにはためかせた。


「セクハラか?」


 生田くんが前の席をこちらに傾けて小声で囁くように聞いた。口角は「微笑ましい」と言いたげに上がっている。


「違うよ」


「まあ、今日のおかずは決まったな」


 彼は僕の肩をつんと人差し指で小突いた。


「それ、セクハラだからね」


「お?」





 女子トイレに向かって逃げていく花恋を必死で追いかけた。心臓が重力を受けてないような、青い春の高揚感が鼻先に香っていた。


 彼女が個室のドアを閉めるその寸前に、ぎりぎりドアの隙間に腕を突っ込んだ。思いっきり挟まれて、激痛が走る。


「あぁ、ごめんっ結衣!」


 花恋は慌ててドアを開いて私を中に入れてくれた。


「イタタ……、あたしの方こそごめんねいきなり」


「ほ、ほんとだよぉ」


 まだ彼女の熱は引いていない。真っ赤に染まった頬も、きつく閉じられた瞼も、全てが愛おしく感じた。この子に対する悪戯心は正当なものだった。


「気になったんだもん。画伯と並んでさ、仲良さそうに勉強してるから」


「数学教えてもらってるの!」


 確かに高坂は中学の頃から数学が得意だけど、花恋は今年初めて一緒になっただけなのにどうして、と考えて、毎日画伯に教科書を見せてもらっていることを思い出した。そりゃ見ればわかるのか。


「でもあたしら文系クラスだよ? 花恋そんなに数学ガチじゃなかったじゃん。英語できすぎるし」


「え、えっと、でもその……に、苦手だから……」


「えぇ〜? そう言って本当は、画伯と一緒に勉強したいからじゃないの?」


 彼女はくっと喉の奥の方から可愛らしい音を出して固まった。もう、どう考えても図星。ほんとにわかりやすいんだなぁ、この子は。


「やっぱり好きでしょ?」


 これを言うのは何度目だろう。聞く度に花恋は否定するけど、本当のことはもうわかりきっていて、その度に少しずつ寂しさに似た群青が積み重なっていく。


 今日も彼女は首を横に振った。


「みんな気付いてるよ?」


「ば、ばれてないもんっ」


ってことは、ほんとは好きなんじゃん」


「え? ……あっ」


 花恋は少しだけ固まって、気付いたものを隠すようにあたしに顔を押し付けた。


「もぉ、かわいいなぁ」


「い、言わないでっ」


「言うも何も、画伯も勘付いてるんじゃないの?」


「そうじゃなくて、高坂君が噂立てられたり揶揄からかわれたりして傷つくの、嫌なの……」


 綺麗な二つの目が私を見つめた。間違いなく心の底から湧いた純粋じゅんすいが、惑星に水鞠みずまりを宿していた。


「本気で、好きなんだね」


 彼女ははにかみながら小さく頷いた。可愛いのは言うまでもないが、それとは別に肺の奥の方で小さく破裂するものを感じた。


「でも、そばにいれるだけでも嬉しいから、その、壊したくなくて……」


 わかってる。からそうだったもんね。


「応援するよ」


「え?」


 花恋は意外そうに目を見開いた。


「どうしたの、結衣」


「何が?」


「だって、ついこの間まで私が高坂君と一緒にいたらぷんぷんしてたじゃん」


「あ、あぁ……それはほら、いきなりあいつとくっつくから、あたしが置いてかれてるような気がして」


「そんなことないよ! 結衣のことも大好きだよ」


 心臓が音を立てる。


「もう、可愛い女の子がそんなに大好き大好き振り撒かないの」


「ほんとだもん」


 柔らかい手があたしを包んだ。

 そんな些細なことが、下した決断を簡単に揺さぶるんだから。


「実はね、花恋にはいつか言おうと思ってたんだけど」


「うん?」


 もしが言えたら。


「あたし、か、彼氏カレシ、できたんだよね」


 花恋はどんな顔をしてくれるんだろう。


「え! ほんと!? おめでとう! え、誰? 三組の人?」


 頬が熱を持っていた。お相子あいこ様だ。


「ううん。小学校の頃の同級生。つい最近いきなり告白されて」


「そうなんだぁ! いいなぁ」


「花恋にも恋してる人がいるなら、邪魔なんかしてる場合じゃないなって思って……」


 うーわ。偉そうだなぁ、あたし。

 なんだよそれ。ほんとは必死に辻褄合わせしてるだけなのに。


 帰納きのう的で、都合の良い女。


「えへへ、ありがとう。結衣も幸せにね」


「……ん、頑張る」


 透き通った笑顔が目の前にある。あたしにはそれで充分すぎた。


 変に湿っぽくなるのもおかしいから、笑顔のギアを入れ替えて花恋の脇腹をつついた。


「ていうか、花恋結構可愛い声出すんだね?」


 途端に彼女は顔を赤くする。


「もうやめてよぉ。恥ずかしくて教室戻れないじゃん」


「教室じゃなくて、いとしの高坂君のとこに戻れないんでしょ?」


「ばかぁぁ!」


 花恋はちっちゃく握った手であたしをぽこぽこ殴る。その度に香る彼女のいい匂いが鼻腔を幸せにした。


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