第二十五話 子宮の街
「あの、大丈夫ですか?」
全身がびしょびしょに濡れていた。コンクリートに打ちつける
塊は女の子だった。わずかに紫がかった長い髪が全てを隠してしまっているが、彼女の背中はかすかに上下していた。僕は開こうとしていた傘をエントランスの脇に置いて、彼女の肩に手を伸ばした。
「大丈、夫……?」
「はぁ……はぁ……」
聞こえる息がある。僕が肩に触れるとほぼ同時に、彼女はこちらへ音もなく倒れ込んできた。
長い髪のその間から見えた彼女の顔に、僕は確かな見覚えがあった。
「……すみれちゃん?」
豪雨を吸って重くなった服と反対に彼女の体はかなりの熱を持っていた。その着ている服というのもほとんど部屋着と言える軽装に一枚上着を羽織っただけのものだった。
僕は急いでおぶって部屋へ引き返した。倒れているのが誰だったとしても、このままここに放っておくのが最悪手だということが確かだったからだ。修理中で動かないエレベーターに心の中で舌打ちをして階段を上がった。
玄関を開けて、花恋さんを呼ぶ。廊下奥のリビングからとことこ歩いてきた彼女は、僕が背負っているものを見て硬直した。
「す、すみれちゃん……!? どうして?」
「わかんない。とりあえずすごい熱なんだ。花恋さん、お風呂用意してあげられる?」
「う、うん!」
花恋さんの後をついてすみれちゃんを抱えたまま脱衣所に向かい、そこから先を彼女に任せてリビングへ向かった。とりあえず温かいものを用意して、彼女の家族へ連絡もつけなければいけない。
「花恋さん?」
キッチン脇とお風呂場をつなぐインターホンで彼女を呼ぶ。
「なぁに?」
「すみれちゃんの携帯とかってある? じゃなくても連絡できそうなやつ」
「なかった」
「え?」
「すみれちゃん、何も持ってないの。ポケットの中確認したんだけど、何も」
あの服装だったし、まさか……?
「わかった」
通話を切って時計に目をやった。
午後十時。高校生が一人、強い雨の中に消えて行方をくらましている。その所在を知っているなら地面を叩くいかなる水滴よりも早く知らせるのが道徳の適解だった。
彼女の家族に直接連絡することはできない。警察や学校を経由すれば可能だろうか。
「でもな……」
例えば出かけている途中で誰かに襲われたり事件に巻き込まれて、そこから逃げて来たなら、持ち物がないことも説明がつくのかもしれないし、警察への通報も急ぐべきだ。
でも、どうもそうではなさそうだ。
傘の中の彼女はそんなことしそうに見えなかったけど。
「……いや、僕が誘拐犯になるのか」
とにかく最優先は彼女の保護だから、連絡は彼女の意識がはっきりしてからの方がいいか。もしかしたら呼ぶのは警察でも家族でもなく救急車かもしれない。
僕は小鍋にお湯を沸かして、冷蔵庫の味噌を開けた。
「すみれちゃん!」
ソファに張り付いていた花恋さんが声を上げた。
「ん……」
雪解けの遠そうな喉をかすかに震わせて、彼女はゆっくり目を開いていった。花恋さんはそんな彼女の肩に抱きついた。
「よかったぁ」
「かれん、せんぱい……?」
「心配したんだよ。大丈夫?」
すみれちゃんは重い体を深くソファに預けたまま、目だけで辺りを探った。
「ここ、は?」
「僕の家。エントランスで
すみれちゃんは僕を視界に入れると一段階瞳をギアを上げた。ゆっくり体を起こしてリビングを見渡して、もう一度僕らの方を見る。
「え、えっと。け、結婚、してるんですか……?」
「ふぇ!?」
「してないよ。花恋さんは訳あってここに居候してるだけ。誰にも言わないであげて」
その顔にはまだ戸惑いが色濃く残っていたけど、彼女は唇を結んで小さく頷いた。それからぴんと背筋を伸ばしてお腹の前で手を組んだ。それはよく見慣れた仕草だった。
「あの、ありがとうございます。助けていただいて」
花恋さんはその手を上から握った。
「ううん。無事でよかった」
少しだけ沈黙を
「何か、あったの……?」
すみれちゃんは黙って先輩に握られている手の温もりを見定めていた。呼吸は落ち着いている。
「警察に通報しようか悩んだんだ。何かの事件に巻き込まれてたら大変だし。でもすみれちゃん部屋着だったし何も持っていなかったから、何か他に訳があるんじゃないかと思ってさ」
「えっと……」
言葉に詰まる彼女を花恋さんが優しい声で包んだ。
「無理に話さなくてもいいんだよ。ただその、お父さんお母さんには連絡しないと」
途端にすみれちゃんは顔を上げた。
「や、やめてください!」
「え?」
「その、もう、帰りたく、ないんです……」
リビングにパパの溜息が響く時間が一番嫌だった。でもそれは全部私のせいだから、自分に鼓膜がついていることを恨むしかなかった。
なかったら、私は。
「妥協した高校で、この成績か」
砲丸のような一言だった。
「ご、ごめんなさい」
パパは私の成績表を床に散らして、机の上の自分の書類に視線を戻した。元はただの印刷用紙だが、私の足元に返ってくるそれは何よりも重い
「お前のごめんなさいは聞き飽きた」
「大丈夫だよ、すみれは頑張ったんだから! パパもちょっとは娘を褒めなよ」
後ろで様子を見張っていたお姉ちゃんは、駆け寄って来て私の肩を持ちながらパパに石を投げた。そんなことをできるのは、お姉ちゃんだから。
「褒めるところがあるならそうするが」
私にはないからしない。
「はぁ!? あんた自分の娘のどこ見てんのさ。すみれにだっていーっぱいいいとこあるでしょ」
「結果になってない。それが全てだ」
パパはパソコンのキーボードを叩きながらそう言った。
「患者が助かるのか助からないのか。医者に求められているのはそれだけだ。失敗が許されるなんてことはない。それがどんな無理難題だったとしても、成功させなければならない。頑張ったから褒めて欲しいなんていうのは、根のない人間の甘えだ。それはお前が一番わかっているだろう、
お姉ちゃんはすっと息を呑んだ。私の肩に乗っている手が少しだけ静かになる。
「……うん、わかってるよ。私の時もそうだった」
何かが燃えているのを感じた。
「お姉ちゃん?」
「パパは私のこと優秀な娘としか見てなかったからね。私も小さい頃から将来はパパみたいな脳外科医になるんだって、何も疑わずに頑張った。佳澄を捨てて、パパの娘になろうってさ。パパは本当に、脳を治すのが上手なんだ」
キーボードの手が止まった。
「パパの望みは、もう私が叶えたんだからさ。いや、厳密にはまだだけど、もう私は後戻りできないし。だからすみれのこと、もっと見てあげてよ」
「……何が言いたい?」
今だよ、と後ろから背中を押された気がした。私は大丈夫と何度も言い聞かせて、お腹の前で手を組んだ。
「パパ」
怖がるな。大丈夫。
「私、音大に行きたい」
しばらくの間があって、次に出たのはパパの乾いた笑いだった。
「音楽に逃げたいのか」
下瞼が震える。
「そ、そうじゃなくて……」
「逃げじゃないよ。すみれは逃げたことなんかない。全部本気だから」
「佳澄に聞いてるんじゃない」
お姉ちゃんはパパの静かな威圧感に押し黙ってしまった。
「音楽で何ができる? 癌が治るのか? 人が救えるのか?」
「私は、救われたことが、あるから……」
「それができるのは一握りの人間だけだ。お前のそれは、自分の情けなさを隠すための痛み止めにしているだけなんじゃないのか」
「ち、ちが……」
「金にもならん自己満足で生きていくなら、別のところに生まれてやれ。そんなものに投資はしない」
ばたんっ、と大きな音が鳴った。お姉ちゃんがパパのノートパソコンを勢いよく閉じた音だった。
「いい加減にしろクソジジイ」
激昂するお姉ちゃんとは対照的にパパはどこまでも冷静だった。それが培われた説得力の球根なのだ。いつも、納得するのはこちら側でなければならなかった。
「口の聞き方には気をつけなさい。卒業した後の身の振り方が大事なのは、わかっているだろう?」
「今私の話はしてない。すみれの話をしてんだよ!」
「聞いてなかったのか。もうその話は終わった」
「あんたにとっては娘のわがままなのかもしれないけど、すみれにとっては一世一代の選択なんだよ! それをそんなおざなりの応えで終わらせんな!」
「一世一代? 笑わせるな。自惚れるのも大概にしろ。多くの人間は平凡で、そんな大層な言葉は似合わない。お前もそうだ」
心臓の動かし方を一瞬忘れた。同時に清算が追いつかないほど黒くくすんだ自分がここにいていい理由も見失った。
「代々、脳外科の権威として名の通っている西野家にそんな戯言振り撒くやつは邪魔でしかない。ただでさえお前たちは男に生まれなかったんだ。名に恥じない振舞いをしろ。それが
「パパは、家のために脳外科医になったんだ?」
「……何?」
「患者を治すのなんて家の尊厳を守るための道具なんでしょ? 親族の笑顔も泣き顔も自分にとっては本当はどうでもいい。西野家だから、脳外科医の権威だから、それが守れればなんだっていい。そうなんじゃないの」
パパが途端に紙を机に叩きつけて立ち上がった。
「もう一度言ってみろ!」
「あぁ何度だって言ってやるよこの
「やめてっ!!」
多分、これまでの人生で一番大きな声を出した。二人の動きを止めるのには十分だった。
「私が、間違ってたから。全部、私が悪いからっ……!」
駆け出した。ここではないどこかに行かなきゃいけないと思った。
「すみれ!」
後ろからお姉ちゃんの声が追いかけて来る。心の中で必死に来ないで叫びながら、私は逃げた。
「あら、すみれ。え!? どこいくの? 雨よ!」
玄関先で買い物から帰ってきたお母さんにぶつかった。それでも無視して私は走った。体を打ちつける雨が、私への天啓だった。
「それで、家出してきたの?」
「はい」
食卓の上のマグカップから立ち昇る湯気が、彼女を必要以上に
「私がいなくなれば、全部うまく行くんです。だから、早く消えなきゃって思って」
「すみれちゃん……」
「多摩川がすごく黒くて、そこなら誰にも見つからないかなって思ったんですけど、結局勇気が出なくて」
花恋さんはすみれちゃんの手を包むように握った。
「いなくなればいいなんて、そんなことないよ」
「あるんです。先輩には、わからないです」
「恵まれてて、なんでもできる先輩には、わからないですっ……」
静かに息を吸う音がした。素早いそれは花恋さんのものだった。躊躇いなのか迷いなのか見当のつかない一瞬の後、花恋さんはすみれちゃんの体をゆっくり抱きしめた。
「せんぱい……?」
「明日、私と一緒に来て」
「え?」
「すみれちゃんと一緒に行きたいところがあるから」
大地から温もりを吸い取ったかのような甘くて優しい声だった。
「大丈夫。一人にしないよ」
彼女はすみれちゃんの頭をぽんぽんと撫でて僕の方を向いた。
「高坂君、今夜だけでもうちに泊めてあげられないかな」
「捜索願出されてたら警察まで絡むよ」
もう夜が深いから一人で帰すなんてのはもってのほかだけど、一晩泊めるとなるとだいぶ状況が変わってくる。ただこのまますみれちゃんを家に帰しても、根本的に何の解決にならないのも事実だ。
「お願い。今は一番すみれちゃんのためになることをしてあげたい」
「……わかった。責任は取る」
「え? あの、いいんですか……?」
花恋さんに抱きしめられて呆然としていたすみれちゃんがぴくりと肩を震わした。
「流石に何日も泊めることはできないけどさ。今日だけでもゆっくりしていって」
「あ、ありがとうございます」
「花恋さんは、今日はすみれちゃんと一緒に寝室使って。僕はこっちで一人で寝るから」
「うん。わかった」
「え、あ、あの、わ、私が一人で寝ますからっ」
「遠慮しなくていいよ、すみれちゃん」
「で、でも、お二人のその、夜の方、邪魔できないし……」
「……へ?」
「えっ?」
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