第十九話 喝采の夜明け

「あ、そうだ。学校で言ってた階段から落ちた子、すみれちゃんだったんだね」


 夕食の温かいハンバーグを挟んだ向こう側で、花恋さんが唐突にそう言った。あんまりナチュラルにいうもんだから、うんと返事をするところだったけど、すみれちゃんという名前と彼女がうまく結びつかないことに気が付いた。


「え?」


「え、そうじゃないの? えっと、髪の毛が濃い紫っぽくてロングストレートの。めちゃくちゃおしとやかな子」


「いや、そうだけど、花恋さんも知ってるの?」


「えへへ、自慢の後輩だもん」


 彼女は平たく笑顔を作った。


「あ、そうなの? 吹奏楽なんだ」


「うん! 小さい頃からヴィオラ習ってて、弦楽器繋がりでコントラバスもやってたんだって。私と違って中学校から吹奏楽にいるからさ、私先輩なのに教えてもらうことの方が多いレベルなんだよね……」


「へぇ、そうなんだ」


「しかもめちゃくちゃ頭いいし、やっぱ天才っているんだねぇ。高坂君もそうだけど」


 彼女は敵わないやという風に目を細めると玄米ご飯を小さなお口に入れてもぐもぐし始めた。


「そんな先輩も後輩のこと思って病院行かせたんだから、優しさは超一流でしょ」


「ん? なんでそのこと知ってるの?」


「すみれちゃん、今日傘忘れてたから、駅まで送って行ったんだよ。あまり自分のこと強く出さないような子だったけど、先輩のことになったら目をキラキラさせながら話すからさ、あぁ、先輩のこと本当に好きなんだろうなぁって」


 花恋さんはお茶碗をことんと置いて、ぱっと目を輝かせる。


「えっ、ほんとっ!?」


「うん」


「えへへ〜そうなんだぁ……! 嬉しいなぁ」


 花びらの肉汁を噛みこなすように、彼女は頬の裏に幸せを含んだ。やっぱりそれはひらひらとおもてに出てきて、瞬間に舞う。それが守るべき彼女の魔法だとまた思った。


「あれっ、てことは、すみれちゃんは高坂君と、あ、相合傘あいあいがさ、して帰ったの……?」


 花恋さんは人差し指をピンと立てて、唇をちっちゃく絞ると上目遣いに僕を見つめた。目線とは違って僕を真っ直ぐに向かない彼女の身体にひわ色の悋気りんきを見た。


「まあ、そういう言われ方もあるけど……。別にすみれちゃんを濡らさないように駅まで送っただけだよ?」


「でもぉ……」


「でも?」


 僕が追い込むと、彼女は「ひぅっ」と肩を弾ませて、ぷくりと頬を膨らませた。それから躊躇いと対峙するように、少しずつその心を漏らす。


「わ、私も、高坂君と、相合傘、したいもん……」


 小さな声。最後の方はほとんど僕の耳には届かなかった。


「そんな特別なことじゃないよ。これから梅雨になるし、したかったらいつでもするよ?」


「じゃ、じゃあ予約、する」


「予約?」


「高坂君の傘の特等席、今から予約するっ。蝸牛かたつむりの季節になったら、一緒に学校いくんだもんっ」


 定員一名だから特等席でもなんでもないのだが。


「相合傘で一緒に学校なんて行ったら、絶対変な噂立つと思うけど」


「あっ、そ、そっかぁ……」


 今までも朝練があるから彼女の方が先に家を出ていたけど、これから夏の大会に向けて朝練が消滅することなんて考えられない。僕が彼女に合わせる分には問題ないけど、それで噂されて彼女が嫌な気持ちするのはよろしくない。


 ただでさえ、彼女は普通に学校では人気の美少女だ。忘れてはならない。

 生田という男子が誰にも喋っていないのが奇跡なのである。


「どこかお出かけするのも良いかもね。二人とも休みの日なんてあんまりないけどさ」


 僕には仕事、彼女には部活とバイトがある。どれもお互いに、欠いてはならない大事なものだ。


「私も、高坂君とデ……、お、お出かけ、したい。せっかく一緒に住んでるのに、なんか、なにもないし」


 一緒に住んでること自体ほんとはおかしなことなのだけれど、確かに僕らのはどこか彩度が低い。一時的だとしても今は家族なのだし、もっと二人で何かいろどるのもありかもしれない。


「今度さ、一緒に映画でも観に行こっか」


「っ! うんっ! 行くっ」


 彼女は嬉しそうに顔を輝かせて頷いた。





 実行委員の長い笛が体育館に鳴り響いた。僕の足は地面に着き、弧を描いたボールは間違いなくゴールのリングを通る。瞬間に二階席から歓声が降り注いだ。得点板の数字は25から28へ。その隣には27がぶら下がっている。


「勝った……」


 思わず喉の奥からそんな独り言が漏れ出した途端、後ろからチームメイトが僕の身体を飲み込むように抱きついて来た。


「画伯ぁぁぁぁぁ、俺はっ、俺は信じてたぞぉ」


 生田くんはものすごい力で僕の背中をばんばん叩いた。その痛みも黄色いペトリコールに消える。心拍数が上がっていた。


 キャプテンの戦術は何一つ間違っていなかった。僕はほとんど、白線の手前からシュートを打っただけ。その他は彼に習った簡単な動きしかしていない。それがこれだ。バスケ部員であることが人権レベルの上級者編成で、部員二人という不利を抱えて三位。上々と言える試合結果だ。


 二階席に戻る頃には、高坂湊はヒーローになっていた。体育の時間中、空いたゴールに一人で向かっていた背の低い男子だ。それがこんな……。


「高坂っ! やるじゃんか!!」


「はい出ました。かっこよすぎです。やばすぎお前」


「生田がスカウトした意味、やっとわかったぜ!」


「最後のスリーポイント、最高にかっこよかったよ! ハラハラしちゃった!」


 男子も女子もこんな……。


「僕は、シュートが運良く決まっただけだよ」


謙遜けんそんしてんじゃねぇよ画伯。お前が一番輝いてた。準決じゅんけつは負けちまったけどさ、三位決定戦が一番アツくなるなんて誰が考えたかよ。じゃ、一番盛り上がった俺らが優勝だな」


 生田くんは僕の肩をがっちり組んでぶんぶん振り回した。緊張と焦燥から解放されて塩分の薄まった細胞がほとんどついていかない。


「とりあえず、水、飲んでいい?」


「お、そうだな。そりゃ大事だ。おい! 画伯の水筒持ってこい!」


 彼はどうやら僕を王様にしたいらしい。


「ちょっと花恋ちゃん! なーに、泣いてるのっ」


 二階席の前の方でそんな声が聞こえた。クラス中の目がそちらに集まる。彼女は女子たちに囲まれて真っ赤になった顔を必死に隠して首を横に振っていた。


「画伯。お前が泣かせたんだぞ」


 生田くんはそう耳打ちする。


語弊ごへいのある言い方やめてよ」


 彼は軽く笑った。そんなことしてる間に花恋さんを囲んでいた女の子たちが彼女を僕の前へ引っ張り出して来た。彼女は隣の子の肩に顔を埋めている。よく見たら耳まで真っ赤になってしまっている。


「画伯。お前が」


「やめてって」


 花恋さんは肩をぽんと叩かれる。


「ほーら、言わないのっ?」


「うぅ……っ」


 彼女は拠り所を巣立って、涙で真っ赤になった瞳を真っ直ぐ僕へ向けた。鮮やかでありながらとてつもない透明感に思わず心臓が跳ねた。ピアノ線をぴんと張ったように僕らの周りから声が消え去って、代わりにみんなの視線が集中した。


「お、おめでとうっ。す、すごく、か、かか、かっこよかったっ……!」


 クラッカーをぶちまけたように辺りに騒がしさが戻った。お囃子はやしが始まる。忘れかけていた息をなんとか、取り返す。


「あ、ありがとう……」


「うぅぅ、うわぁぁぁぁ」


 彼女は近くにいた安達さんの胸に飛び込んで、顔を擦り付けて恥ずかしさを隠した。周りの女子も満足気に目を細めながら彼女に寄っていく。


「俺、スリーポイントめちゃくちゃ練習するわ」


「俺も! おい、生田! 教えてくれ!!」


 クラスの可愛い女の子に「かっこいい」なんて言ってもらえるクエストを発見した男子たちはその瞳に闘気をほとばしらせていた。一方で生田くんは冷静に僕の肩に手を置き続けている。


「画伯」


「なに?」


「結婚おめでとう」


「してないっての」


 これも球技大会の一つの結果であって、みんなが盛り上がっているのは僕らが勝ったからである。告白大会ではないし、婚約会合でもない。僕はちょっと目立つような活躍をしただけだ。


「すごかったね。先生もアツくなっちゃったよ」


 浅葱あさぎ色のラインが通ったジャージ姿の梅沢先生が拍手をしながら僕らのもとへやって来た。


「高坂君はもちろんだが、生田っ。何より君の活躍が光っていたと先生は思うぞ」


「お! 先生わかってますねぇ! いーや、俺だけじゃないっすよ。五人一人たりとも欠けちゃいけなかった。その中でも画伯の力は絶大でしたよ」


「さすが我らが三組。必然の勝利というべきか。これを機に、我らの画伯がもっと友に恵まれるようになると良い。さすればもう非がないな」


「何言ってんすか。俺はもう友達以上のものを感じてますよ。仲間なんてしみったれた日本語じゃ語れねぇ。いわば……うーん、心の友ってとこですね」


 そこは引用なのね。


「どうだい。高坂画伯。人間というものは。悪くないだろう」


 先生は腰に手を当てて僕の目を真っ直ぐに捕らえた。面談の時よりもはるかにイエローの強い色調だ。


「そうですね。まぁなんというか、楽しかったです」


 それは建前じゃない。本心だ。

 何か、作っていた壁を自ら破壊してしまったような得体の知れない爽快感の裏で、チームメイトと交わした十万年前の約束の片鱗を一瞬間に見たような気がしていた。


「素晴らしい。君たちの体育は問答無用で5だ」


「先生、国語じゃないですか」


「そんなことどうでもいいの。先生は素晴らしいものをせてもらったんだから。高校生はこうでなくちゃね」


 そう言って先生は肩甲骨のストレッチをしながら二階席ギャラリーを離れて階段を下っていった。


「この後、バスケ部対学年教師のエキストラマッチだからな。俺もいかなきゃ」


「いってらっしゃい」


「ちゃんと見とけよ? 今度は俺が画伯に負けないくらい圧巻のシュート決めてやるからさ!」


「うん。応援してるよ」


 手を振って走り去る彼の背中を見送った。辺りはまだ騒がしかった。

 心臓が動いているのを感じた。

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