第十八話 贖罪データパック

 先生はゆっくり身を乗り出して白い机に手を組んだ。別に僕の成績の類が広がっているわけではない。


「どうだい。二年生は」


「いや、特に。これと言って変わりはないです」


「それはさすがにないだろう。少なくとも、家族が増えたんじゃないの?」


「あぁ、か……絹舞、さんのことですか」


「今、花恋って呼ぼうとしたね? いいんだよぉ、普段通りで」


 これっぽちの隙間も見逃さずつつきながら、先生はどこか嬉しそうに微笑んだ。生涯り年の修学旅行テンションにはもう慣れている。


「呼び捨てにするほどの仲じゃないですよ」


「んー? それは仲じゃなくて君の性格だね。いつでも冷静さと柔軟さは欠かない。先生は君のそういうとこを買ってるよ。まあ、君のおかげで大事な青春が守られたし、警戒を張って間接的に他の子の安全にもつながってる。表彰したいくらいだね」


 花恋さんの家の状況と襲われそうになった事件のことは先生を通じて学校にも報告をしていた。位置的には隣の市だが、立川を利用する生徒も多かったから近辺の教育機関や警察と合同で地域の警戒を強化したらしい。


「当たり前のことしただけです」


「人間は当たり前になるのが一番難しいんだよ」


 かつん、と爪が机を叩いた。優しい音色こわいろだった。


「去年とはだいぶ周りが変わったんじゃない? 先生からはそう見えるんだけどさ、どう? 体感で」


「話しかけられて無視できないだけです」


「……あんまり他人と関わりたくない気持ちは変わらないか」


 先生は少し外側からくだいた声で呟いた。スーラの点描てんびょうを、その並置をけないほどの距離から眺めて、先駆けてくる月にそっと午後居残った影を溶かすような、そんな優しい紅梅こうばい色をしていた。


「人と関わるのに耐えられないわけじゃないんです。別に花恋さんも生田くんも嫌いではないですし。ただ、誰かを大切にして、いい思いをしたことはなくて」


「葵ちゃんのこと、まだ心に残ってる?」


 そうか、先生には去年伝えていたか。


「……はい。情けないですよ。自分のせいで割れたのに、もう持ち合わせの絆創膏もなくて」


 そのくせ人間が傷付くというトラウマだけが一人歩きをして、必要最低限の無慈悲さを欠いた心を肋骨の裏に築いてしまった。


「変わりたい、とは思う?」


 僕は目線を上げた。先生は一枚真剣の皮を貼り付けていた。いや、逆だ。薬品の染み込んでいない果肉の方だ。


「みんなの生き方の方が楽しいとは思いますよ。絶対そっちの方がいい人生だと思います。でも変わりたいとは……」


 これでいいと言っているわけではない。自分にはことなど許されてないだけ。


「変わらなきゃいけない時は来るよ。絶対ね」


「え?」


「ヒトが最後に進化したのはいつか知ってる?」


「二十万年前とかでしたっけ」


 梅沢先生はふっと目を閉じた。たおやかに棚引く幼さと色気の混じった不思議な目尻に僕は釘付けになった。


「そうだね。少なくとも十万年以上前のハードウェアなんだよ、君のその身体。でも心はどうだい? タンパク質で出来ているのかな」


「……いいえ」


「そうだね。君のOSオーエスの最後の大型アップデートはたった五年前。対応するのかな、それ」


 贖罪しょくざいのデータパック。あらゆる不都合と不具合を抹消した僕の。


「大学の時に読んだんだ。人間はみ目なんだって」


「編み目、ですか?」


「うん。関わり合って生きる、その関わりの方こそが人で、私たちはその編み目。なんだって。踏み外した者は違いと論われ、稚拙ちせつなものは抜けとさげすまれる。よく出来てると思わない?」


 強膜に、ぷすっ、と爪楊枝つまようじを突き刺されたような感覚がした。


「だから本来はさ、世界平和だって当たり前になる計画だったんじゃないかな。でも人間は勝手に格差を付けて、嫉妬しっとやシャーデンフロイデのバグに突き当たった。どう考えても人と関わるのに不具合しか起こさないのにさ。どれだけOSをアップデートしても治らない。だからあの、お酒はすごいよね。最高のび石だもん」


 何かの、誰かの、トゲに触れて、一人を選んで、自分を正当化して。でも僕らのハードウェアは強制的にまた誰かと巡り会わせようとする。そうしないと生きていけないから。多くの人が抱える生きづらさは、精神病なんて避難所に行きついても絶えることがない。


 それは人間に生まれるもっと大きな不利益だと思った。だから僕は五年前、自分の大切と一緒に、捨てたんだ。


 家族と、生焼けの時間だけをたずさえて、僕は独りになったんだ。


「高校二年生が、まだ自分の人生を固める必要なんてないんだよ。時間は腐らないんだから。きっと高坂君にもこれから、君のOSじゃ対応できないバグがやってくる」


「……どうでしょうか」


「ハグをしてみてごらん」


 先生の瞼は上がっていた。


「ハグですか?」


「誰だっていい。家族でも、友達でも、君のでも。何か目的を持っちゃいけないよ。なぐさめてほしいとか、安心させたいとかそんな戯言はいらない。ただふとした何もない瞬間に、誰かを抱きしめて、そして抱きしめ合ってごらん。きっと、十万年前の約束を思い出せるはずだよ。宿題ね」


「で、でも……」


「提出期限はない。今すぐになんて馬鹿なことは言わないよ。あ、その気になったら別に先生でもいいからねっ?」





 昇降口を視界に入れる頃には、同時に雨音が鼓膜を揺らし始めていた。予報通りの雨ならばこれから日が落ちるまで続くだろう。傘立てに突き刺した黒い傘を引き抜いて、革靴に履き替える。


 ん?


 見覚えのある後ろ姿が立っていた。


「傘、忘れちゃったの?」


 僕の声に彼女は驚いたようにこちらを振り向く。紫がかった髪がふっと外に広がった。


「え、あ。さっきの……」


「駅は、拝島はいじま? 駅まで僕の入ってく?」


「い、いえ、でもっ。申し訳ないので。あっ」


 彼女は首を横に振りながら後ずさろうとして、そのまま足をもつれさせて転んでしまった。僕は急いで彼女に手を差し伸べる。


「その足引きずって雨の中帰るわけにいかないよ。まだ当分止まないから、ほら、入って」


 僕は外に向かって傘をはなった。シルバーグレイの空が切り取られて、ちょうど二人抱えられる程の屋根ができる。


「い、いいんですか?」


「うん」


 彼女は鞄を抱えて小さくなりながら傘の中に入った。


「痛かったら、手捕まっていいからね」


「あ、ありがとうございます」


 おぼつかない足取りの彼女に歩幅を合わせながら、校門を抜けて通りに出た。


「あ、あの」


「ん?」


「先輩、名前なんていうんですか」


「名前? 高坂こうさか、だよ」


「こうさかせんぱい……」


「どうかしたの?」


 すみれちゃんはぴくりと跳ねた。


「あぁ、いえ! その、こんなに助けてもらって、その、ありがとうございます」


「あぁ別に。気にしないでいいよ。今日は部活とかは休んだの?」


「はい。一応足はそんなに使わないんですけど、先輩が絶対病院行った方がいいっていうので」


「そっか。それは後輩想いだね」


「すっごく優しいし、めちゃくちゃ可愛いんですよ! バイトもしてるって言ってましたし、ほんとにすごいなって……私なんかよりも、ずっとキラキラしててかっこいいです」

 

 彼女の目線はコンクリートに張り付いて腐った落ち葉を踏んづけていた。


「すみれちゃんも充分頑張り屋さんだと思うよ」


「ふぇ?」


「化学の教科書、あんなマイナーな資料集までたくさん抱えて。真面目なんだね」


 彼女は頬を赤らめてくっと俯いた。


「そ、それはっ、お勉強出来ないと、しかられちゃうので……」


「叱られる?」


「元々、この学校もあんまり望まれてなかったんです。せめて、特待生は外さないようにしないと……」


 菖蒲ヶ丘ここが? ここより頭のいい高校ってなると相当……。


「何か、なりたいものとかあるの?」


 はっと彼女が息を吸った。制服のリボンをぐっと押さえるその仕草はどこか花恋さんを思い出すものがあった。


「お、お医者さん、です……」


「医者?」


「はい。脳外科医、なんですけど」


「え、すごいね。そっか、それは頑張らなくちゃいけないね」


「です、よね」


 四丁目の信号の渡って商業通りを抜けると、もうすぐに拝島駅の駅舎が見えてきた。雨はまだ強く地面を打ち続けている。すみれちゃんは駅の中にさっと入って傘を折り畳む僕の方を振り返った。


「あ、先輩、肩がっ……」


「え?」


 右肩がひどく濡れていた。通学鞄も傘の外にはみ出していたようだった。彼女はスカートのポケットからハンカチを取り出して僕の制服に押し付けた。ぽんぽんと数回押し付けて下唇を内側に巻く。


「ごめんなさいっ。私のせいで」


「気にしないでいいよ。すみれちゃんが濡れてないなら大丈夫だから。ありがとう」


「い、いえっ……」


 彼女はなんだか恥ずかしそうにハンカチを引っ込めた。


「すみれちゃんはJR?」


「あ、いや、西武せいぶです……」


「そっか。じゃあ、ここでバイバイだね。足、気をつけてね」


「は、はい」


「じゃあね」


 僕はエレベーターを使うであろう彼女に軽く手を振って、JRの改札への階段の方へ体を向けた。瞬間に袖をきゅっと掴まれる。


「あ、あのっ。先輩っ」


「うん?」


 すみれちゃんは目を泳がせながら狭そうな喉でこくっと唾を飲み込んで、それからゆっくり僕の目を見つめた。


「先輩って、何組、ですか?」


「え?」

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