第十二話 興奮

「大丈夫?」


 僕は水面を掠めるような手つきで彼女の肩に触れた。彼女はふんわり顔を上げて僕から離れた。


「ご、ごめん。お仕事の邪魔して」


「ううん。気にしないでいいよ」


 用意してくれたホットミルクを持ち上げて彼女の方を向きながらスタンディングデスクに背中を預けた。冷めないうちを喉に通す。


「ね、ねぇ高坂君」


「ん?」

 

「わ、私のこと、触って」


「え? なにいきなり」


「いいからっ」


 彼女は僕の前裾まえすそを掴んで下唇を巻き込むように柔く噛んだ。彗星が宿る瞳は軽く白を見つめ上げる。僕は戸惑いながらも彼女の手をそっと握ってアルプスを数える高さまで上げた。彼女の手が右手を包み出すのを感じて、僕は片割れを輪っかのない天使の頭に沿わせた。


「高坂君ってさ」


「うん?」


「私と二人っきりで、その、興奮したりとか、しないの?」


「興奮?」


 いつの間にか花は赤く色づいている。


「私もその、女の子だし……」


 彼女は握った僕の手を自分の胸元へ運んだ。指先から手のひら、生命線。押し付けられた感触に肘からこちら側のブレーカーが落ちる。


「え、ちょ」


「あんまおっきくはないけどっ、Cはあるよ? ここならずっと二人っきりだし、そういうこと、考えないのかなって……」


 僕が固まっていると彼女は胸に押し付けていた僕の手を離してあたふたしながら手をぶんぶん振った。


「さ、誘ってるわけじゃないのっ! 私もまだ、したことはないしっ……でも、男の子と二人だけってなったら、その、求められることもあるだろうなって。本当の私のこと知っても高坂君は指を差さないで手を広げてくれたから、私は高坂君の側で暮らしたいって思ったんだけど、その、もちろんそういうことも覚悟はしてて」


 彼女の首筋を視線が勝手に辿っていく。


「それでも高坂君の優しさって全然条件がなくて。気付いたら私の方が求めちゃってるし、助けてくれたお礼もまだ……」


 深く吸った息が喉仏に刺さった。


「花恋さんに魅力がないわけじゃないよ。可愛らしいし、一生懸命だし。でも興奮はしない。襲おうなんて思わない」


 彼女はゆっくりと顔を上げる。


「大事な初めてだと思うし、返済なんかに使おうなんて考えなくていいよ。別に僕は花恋さんの身体目当てて一緒に住んでるわけじゃないから。それに」


 僕は棚の上に戻された絵の具に目をやった。空の絵を描いた時の青が減ったままほとんど全てが残っている苦い味の祝酒いわいざけ


「花恋さんはまだ、自分の幸せを選べる人だから。ちゃんと愛し合いたい人に出会うまでそれは取らなくていいと思う」


「愛し合いたい人……」


「花恋さんが元に戻れるようになるまでだけど、一緒に住んでる限りは僕は花恋さんのこと家族だと思ってる。同じ朝に起きて、一緒にご飯を食べて。学校ではただのクラスメイトだけどさ。花恋さんの大切なものはちゃんとそのまま受け渡すから」


 そうしてまた僕も元に戻ればいい。自分で選べない人間がぷかぷか適当に浮いてていい理由は、元ある秩序を乱さないと約束したことだった。


「だいたい僕が花恋さんを求めたとしてさ、それで花恋さんが傷ついたら、僕が助けた意味全くなくなっちゃうでしょ?」


 こくり、と小さな頭が頷いた。それからそっと笑み菖蒲が咲く。その香りが届く前に彼女は僕に抱きついた。


「高坂君の優しさに触れると、いつもそれが気になってたの。高坂君が私を求めないなら、私が高坂君にできることってどんなことがあるのかなって。わかんなくて……」


 机の上のホットミルクからもう湯気は立ち昇っていない。


「嬉しい時に笑ってくれればいいよ」


「え?」


 僕は液タブのデジタルペンを左手の指に通した。


「花恋さんの笑顔、すごく綺麗で可愛らしいから。人の笑顔の印象が変わるし、綺麗なものを描こうって思えるようになる。何より、僕自身が安心する」


 可愛らしい彼女はきょとんと目を丸くしていた。


「きっといろんな人を幸せにする笑顔を、壊さないでいられたって確認できるから」





 体育館にはシューズが摩擦を生む音とバスケットボールの打音が響いていた。全部で八箇所あるゴールにみんなはそれぞれ散らばってシュート練習をしている。大体仲の良い人で集まるから、僕は誰もいない端っこのゴールを占領していた。


 数回ボールをついて、白曲線の手前からリングに向かってボールを放つ。リングを通ったボールを拾いにいくの繰り返し。


 ゴールの方を向き直るとイケメンがレイアップシュートを狙ってゴール下に浮いていた。


「おあー!?」


 思った以上のスピードだったのかボールはゴール板に跳ね返されて僕の方へ飛んできた。イケメンは奇声とともに床に不時着する。僕は飛んできたボールをキャッチしてそのままゴールに放り込む。ゴール板の白線にワンバウンドしてリングをするりと抜けたそれに彼の目線は僕とボールを二往復する。


「え? 画伯やば」


「生田くんが起き上がるまでの時間稼ぎ。急になにしにきたの」


「画伯が一人でやってるから」


「生田くんむこうで試合してたでしょ? いいの? こっち来て」


「お前の腕前が気になるんだよ。チラ見したら毎回シュート決めてるんだもん。成功率おかしくね? って思ってリサーチしに来た。ところでバスケ部に入る気は?」


 輝かしい目。


「ないよ。話進めすぎだし」


「えー。じゃあちょっとさ、そこから一発打ってみてシュート」


 僕はその場でとんっと地面を蹴ってボールを軌道に乗せる。ゴールのネットはまたぱさりと揺れた。


「は? やばいやばいやばい。画伯、スリーポイントだぞ? ここ」


「うん」


「いやうんじゃなくて。俺でもそんなに入んないのに」


 彼も地面のボールを一つ拾ってリングに放る。難なくリングを通るそれ。


「あ。こ、これはまぐれね」


「そこは外すんじゃないの? さすがバスケ部」


「違うんだって」


「人がいないゴールで練習してると、多分他の人の三倍くらい本数打てるから、打ち慣れちゃったって言うか……だからあれ、対人のドリブルとかできないしさ」


「充分だよ。シュートできる奴が一番モテるんだから」


 生田くんはその場で低く体を落として、体育館の床ごと抉り取るような勢いでゴール下へ駆け上がった。ジャンプ力が異次元すぎて透明な床があると思い込まざるを得ない。今度のレイアップは綺麗にネットをくぐり抜けた。


「ね、かっこいいっしょ? もちろん大事なのはシュートだけじゃない。でもわかりやすくかっこいいのは得点入れた奴になるからなぁ」


「生田くんはかっこいいからバスケしてるの?」


「んー三割はそうだね」


「意外と高いね」


 彼はパチンと指を鳴らして僕を指さした。


「そうだ。五月にある球技大会、バスケ種目あるんだよ。初心者組と上級者組に分かれんだけど、画伯もチーム入ってくれよ!」


「え、もちろん初し」


「上級者チームな」


「は?」


「お願いだ入ってくれ! みんなビビって全然メンバーが集まんねぇんだよぉ! いつもは体育でガンガンやってるくせにさ。バスケ部もうちのクラスは二人だけだからあと三人いる」


 彼の手は僕の手をがっしり掴んでいた。投げ出されたボールは寂しそうに恥の方へ転がっていく。


「僕より適した人絶対いるから。それにシュートしかできないって言うのなんか初心者チームの方が向いてるでしょ」


「じゃあ俺が教えるから!」


「え?」


「試合で戦える最低限の動きとコツ教えるから。それと画伯の得点力があれば脳内最強!」


ね」

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