第十一話 シリアルナンバー

 こてん……こてん……。


 ししおどしのようなテンポ感でこちらに頭を振る花恋さん。テレビにはBパートの尻尾を描いたアニメーション映画が流されている。ついさっきまで彼女もその画面に視線を注いでいたが、ぱたりと静かになってしまった。


「んーっ……」


 彼女は唸りながら眉間に皺を寄せて、毛布を口元まで引き上げた。ゆらゆら揺れていた頭は完全に僕の肩に着地する。僕はテレビの電源を落として、にゃんこを抱きしめながら柔く瞳を閉じている彼女の寝顔を眺めた。


 寝てしまったけど、このまま隣にいてあげようか。


 僕はそっと彼女の頭に手を当てた。あまりにも滑らかな髪質に行く末を任せて撫でるうちに、彼女の瞼の隙間に透明なころもが滲み出す。一筋の袖時雨そでしぐれは彼女の寝息を半透明に塗り替えた。心なしか、いやきっとそれは震えている。寒さではない。


 毛布の上から彼女のお腹に手を添えた。痛みがあるのかどうかは、僕にはわからない。ましてや、それが痛みなのかも、痛みだとしてそれがどこなのかも、正確にはわからない。


 彼女の寝顔に涙がついているのはこれで何回目だろうか。


 何一つ濁っていない彼女の雫を指の腹で拭うと、何か頭から上に引っ張られるような感覚がした。キャトルミューティレーションはきっとこんな物理だろう。それが眠気だと気付く頃には僕も彼女へ頭をもたげていた。



 カシャ。



 何かのシャッター音に目を覚ます。


「あ、起きたぁ」


 目の前にはこちらを見つめるタピオカレンズと美咲の姿があった。なんだか嬉しそうににやけている。


「みさき……?」


「お兄ちゃん、ソファで添い寝はレベル高いね」


「あぇ?」


 僕は徐々に濃度を取り戻す脳神経で、隣にある花恋さんの寝顔と先ほどのタピオカレンズの被写体を理解する。


「今、盗撮した?」


「ばっちり!」


 美咲はスマホをこちらに向ける。一つの毛布にくるまって頭をもたげ合いながら眠っている男女。これでもかというほど恋人じみたツーショットが撮影されている。


 結局自分で仕入れやがりましたこの人。


「ばっちりっ、じゃないよ。てかなんでここいんの」


「暇だから遊びに来たの」


「……友達いないの?」


「い、いるわっ! お兄ちゃんが言うなっ」


 美咲が頬を膨らませてぷんすかする前で、花恋さんが目を覚ます。


「むぁ……? はっ、ね、寝てたっ?」


 彼女は僕に寄りかかっていたことに気が付くと、慌ててぴんと背中を伸ばした。そこに向かって我が家の十二歳が飛び込む。


「うんっ。お兄ちゃんと仲良く寝てたよっ」


「えっ!? あ、あの、映画は?」


「花恋さんが寝ちゃったから止めたよ。ごめんうちの騒がしいのが起こしちゃって」


「ご、ごめんっ。つまんなかったわけじゃないんだけど」


「いや、大丈夫だよ。また今度続き観ればいいし」


 満潮の日は浮き輪を持たないと波に飲まれるものだ。


「お兄ちゃんも寝てたもんね。いやぁ、ご馳走様です」


「?」


 にやにやを抑え切れない美咲に花恋さんは顎に人差し指を立てて首をこてんと捻った。





 液晶タブレットからペンを離して机に置いた先に、ホットミルクが用意されていた。もちろん自分で用意したものではない。僕は隣を振り向く。


「お疲れさま、高坂君」


「これ、花恋さんが?」


「うん」


 彼女は柔らかい笑顔を咲かせながら頷いた。


「ありがとう」


「少しだけ、ここにいてもいい?」


「うん。別にいいよ」


 思い返せば彼女が制作部屋に入ってくることはほとんどなかったように感じる。まあもちろん仕事関連のもので溢れているし、むやみに触って壊れたらおっかない機材が軒を連ねているから、何も知らない立場で迂闊に入れる部屋ではないけど。


 花恋さんは部屋をゆっくり見回して、窓際にある棚の上に置いてある絵の具を見つけた。それから液タブに向かう僕の方を向いて下唇を吊り上げる。


「高坂君、絵の具も使うの?」


「え? あ、それはね、あおいにもらったものなんだ」


「あ、あおい……?」


「僕の、幼馴染」


 彼女は、あっ、と口を開いて顔を曇らせた。


「な、亡くなった子?」


「そう。最後にもらった誕生日プレゼントなんだ。結局まだ使い切れてなくて、もちろん捨てられないからずっと部屋に置いてるの」


 彼女が生きていた時は普通に使っていたけど、亡くなってからは恐ろしくて使えなくなった。死んだ幼馴染からもらったものだからではない。中身がなくなって彼女の影がすっかり消えてしまうのが恐ろしかったのだ。


 言ってしまえば、形見だ。


「見てもいい?」


「うん」


 花恋さんは絵の具を手に取って中を開けた。


筆洗ひっせんだけはセットに入ってないんだけど、絵の具にしては多い四十色の基本色とそれぞれの配分表、八種類の筆。絵の具セット自体全部で5000セットしかない限定品だったんだって」


「素敵なプレゼントだね」


「ほんとにね」


 小学六年生には高い買い物に違いないし、そもそも手に入れることすら大変だ。

 花恋さんはセットをひっくり返して裏側を見て眉に皺を寄せていた。


「4267……」


「あ、それはね。多分シリアルナンバーだと思う。大事な数字だから剥がさないでってもらった時に言われて、結局そのままにしてる」


 どうして大事な数字だったのかは葵に聞かないとわからない。


「高坂君の誕生日が関係してたり?」


「んー、六月二十八日だけど、特に関係はなさそうなんだよね」


「えっ!? 六月二十八日!?」


 花恋さんは目を大きく開いて立ち上がった。


「え、どうかした? そんなに変な日じゃないと思うんだけど……」


「あ、いや、えっとその、誕生日、同じだから……」


「花恋さんも二十八なの?」


 彼女はこくりと頭を縦に動かして、えへへと笑う。白い指はいつものようにお腹の前で小さく結ばれていた。


「一緒にお祝いできるねっ」


 息を解く。


「そうだね」


 僕はホットミルクを一つ啜って、机の上に放り出していたペンをもう一度握った。画面に映った傷だらけの女の子。短い髪を引っ張られて、髪飾りを無理矢理付けられようとしている。


「なにを、描いてるの?」


 花恋さんは画面を覗いて、ぴたりと固まった。


「ん? 、かな」


 正確には女の子なのかわからない。


「イラストとか絵ってさ、眼で見るものじゃない?」


「うん」


「眼に入ってくる情報が全てだから、人間を描こうとしたら人間の体の形や髪型とか服装で全部判断するしかなくて、女の子の体で女の子の服装を描けば見る人には女の子って伝わるんだよ」


 眼は世界を切り取って表面だけを僕らに教えてくれる。かりそめの知育玩具ちいくがんぐのようなもの。


「でもその中身を覗くことはできない」


 花恋さんは画面をじっと眺めていた。


「この絵、なんだかその中身まで見える気がする。女の子なのにそう見えなくなってくるような」


「眼に見えないものを眼で見る。そういう体験をさせる絵」


「す、すごいね」


 僕はパソコンを開いて検索エンジンで『天竺てんじく葵』と打った。上から八番目の予測変換に表示された『きもい』をクリックする。


「え」


 驚く花恋さんの目の前に言葉の肥溜めが並んだ。



[天竺葵とかいうフェミニスト絵師についてw]


[正直人間舐めてる。マジでキモい]


[BuzTubeに漫画上がってるやつやろ? 絵は上手いけどワイらついていけん。宗教みたいや]


[寝取られ趣味だからな]


[どうせちょっと人気出たからって調子乗ったガキだろ? 所詮童貞どうてい偽善者]



「なにこれ……」


「天竺葵っていうのは、僕の絵師の活動名ね。で、これはその悪口スレッド。調べれば結構あるよ。もちろんファンというか、推してくれる人? もいるけど、嫌われてるのも確か」


 花恋さんは喉をぐっと絞った。


「こんなの、適当じゃん! 高坂君がどんな人なのか知らないくせにっ」


「知らないからだよ」


「え?」


「知らないから、こういう言葉を生み出せる」


 液晶を挟んだ向こう側は、眼に見えないから。


「人は、メニューにあるものしか注文できない。だから今も多くの人があげつらわれて、傷ついて、死んでる」


 本当に傷つくべき人なんていうのは順当にいけば一人も見つからないはずなのに。


「僕は人が傷つくとか嫌だからさ、だからその、なるべく多くのメニューを配るしかなくて。まずは僕がいろんなことを知って、理解されないものを広めて。今はそれなりのインフルエンサーになったから、ただの絵師としての活動じゃなくて、ストーリーテラーにもなれるかなって思ってさ」


 特に甲斐かいはない。

 一番大切な人を守れなかった償いを果たしたいだけ。背負った罪悪を野放しにして、液晶の人格で誰かを助けようとしているだけ。そういう意味では偽善者であることに間違いはない。


 だから嫌われるのも当然の報い。


「もっと早く……」


「え?」


「もっと早く、出会いたかった……」


 花恋さんは僕の服を掴んで肩に顔を押し付けた。

 鼻先が触れる距離でシャンプーがわだちに香った。

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