第十話 甘えんぼ
スタジオの扉を引いて本日二回目のただいまを呟く。廊下の突き当たりにあるリビングの扉は閉じられていて彼女が出てくる気配はない。流石に面接は終わっていると思うのだけれど。
僕は静かにリビングの扉を引いた。
「ただいま……って、え?」
姿見を見つめながら髪の毛をいじる花恋さんの後ろ姿が目に入った。見間違えでなければ日曜に買った色の薄いデニムから髪の毛と同じ色の尻尾が生えている。頭には二つの猫耳。見間違いでなければ。
「か、花恋さん?」
「にゃぁ? ……あっ、高坂君っ」
彼女はとろんとした表情でこちらを振り向いて僕に気付くと、前にかけていたベージュのエプロンを
「どうしたのそれ。コスプレ?」
「え、えっとこれはその、ば、バイトの、制服っていうかその、衣装っていうか」
耳もエプロンも全部彼女の髪の色にそっくりだから生物として完成されすぎているのか。当人は恥ずかしそうに顔を赤くして顔を背けている。
「な、なんのバイト?」
「ね、ねこかふぇ……」
「あぁ、なるほど」
店員さんも猫にされちゃうタイプの猫カフェなんだ。それにしても親和性がすごいな。ケーキ屋さんもすごく似合ってたけど、間違いなくこちらが天職だろう。
「可愛いね」
「ふぁ!? か、かわっ!?」
「すごく似合ってて可愛いと思うよ。猫好きな子はその子自体猫みたいなんだね」
花恋さんは口を横に緩めて頬を人差し指でなぞるように掻いた。
「そ、そうかにゃ?」
「うん。そうだにゃ」
「え、えへへっ。そ、そっかにゃぁ?」
再び姿見に移る自分ににんまりする彼女を横目に僕は荷物を置いてキッチンへ向かう。
「夜ご飯にしよう。ちょっと作る時間なかったからお弁当とお
いつの間にか僕のお腹に白い腕が回されている。ぎゅうと締め付けられて、背中にはぴったり温かいのと柔らかいの。首筋はもふもふに撫で回される。
「ど、どうしたの?」
「ん?」
喉の奥を掠めて出てきたような甘い声。彼女は回した腕を解いて、僕の背中を手のひらで流す。温もりは相変わらずぴたりと張り付いたままだ。
「すごく、近くにいたいの。なんかっ、なんか自分でもよくわかんないんだけどっ」
僕はゆっくり彼女を振り返った。ほんのり紅色に染まった頬に何か渇望に近いものが映写されているような気がする。彼女は僕の右手の袖を小さく摘んだ。
「さ、触って?」
「え?」
「どこでも、いいからっ」
花恋さんは目を瞑って口を結んだ。小さな手は胸の前で組まれている。傾げられた頭。撫でられるのを待つようにぴんと立ったふわふわの耳。
僕はおそるおそる彼女の頭へ手を伸ばして、耳ごと包み込むようにゆっくり撫でた。
「ふぁ……」
半熟の瞳が僕をほんのり見つめる。反則的な可愛らしさ。止まらなくなる前に撫でる手を彼女の頭から離した。つもりが、もっと撫でてと言わんばかりに彼女の頭が逆に僕の手についてくる。しまいには僕のブレザーの胸の襟を摘みながら顔を擦り付けて喉を鳴らしていた。完全に猫が憑依してしまった彼女を前に撫でる手を止めることなど許されない気がする、が。
「か、花恋さん」
「んーんっ」
甘えんぼモードは治まりを見せない。
「と、とりあえずご飯にしない? お腹、空いたでしょ?」
「……はっ」
彼女はふと我に返ったように僕の襟から手を離した。それから自分の猫エプロンの胸元を手で押さえて、視界を左右に振る。
「私、今、甘えちゃんしてた……?」
甘えちゃん? そういうモード名なのかな。
「だ、だいぶ」
「ご、ごめんっ。時々なっちゃうの。迷惑、かけてない? なんか変なことしたとか」
え、無意識なの……? 変なことって言ったら変なことなのかもしれないけど。別に何か被害を
「ぜ、全然。大丈夫だよ」
「ほんと? なんか、檸檬さんにもしちゃうんだよね。いつの間にか抱きついてたり、撫でられてたり」
彼女の瞳にはまだ、とろけていた頃の名残が残っていた。
「撫でるくらいなら、別にいつでもしてあげるよ」
そんくらいのスキンシップだったら美咲が呆れるほど求めてくるから、別に抵抗などはない。彼女のブラコンも別に迷惑な話ではないのかもしれない。怖いくらいに正直なのがいいところでもあるわけで。
「じゃ、じゃあ……」
花恋さんはもう一度、僕に頭を差し出した。まだお風呂には入っていないはずだけど、彼女の髪からはいつでもお風呂上がりかと錯覚させるほどいい匂いがする。
「おかわり、くださいっ」
いつもの甘い声を弾ませたおねだりが飛んできた。夜ご飯を前にそんなにおやつを食べたらお母さんからお叱りが来るのがオチだけど、彼女のそれはきっと別腹どころの話ではない。
「うん」
僕は再び彼女の頭に優しく手を当てて、綺麗な髪に沿ってゆっくり撫で下ろした。彼女は再び幸せそうに表情をでろでろに溶かす。
「えへへ〜。猫さん撫でられるの気持ちいいでしゅ」
「君店員さんなんだから、お客さんに撫でられる側に行っちゃダメなんだよ?」
カレンダーは再び左端に巻き戻った。いつもの通りソファから起き上がる。春めく季節には遅れているけど、暖房を消すと朝には部屋が少し冷えている。流石に毛布一枚で寝るのはまだ早いかもしれない。
凍える指先でカーペットを探り当ててソファを離れた。リビングを出て花恋さんが眠る寝室へ向かう。音で起こさないようゆっくり扉を開くと、ベッドは抜け殻になっていて彼女の姿はなかった。
「あれ? 花恋さん?」
朝からどこかへ出かけるといった話は特に聞いていないけど。
僕は中途半端にベッドから落ちかかっている掛け布団をめくった。
「……あっ」
まあわかりやすく甘えんぼになるから、前兆は高坂君でも察せれると思うよ。
「そっか」
僕は掛け布団を戻して、彼女の元へ向かおうと後ろを振り返った。瞬間、泣きそうな顔で立っている彼女と目が合う。トイレから戻ってきたのだろう。
「あ、あのっ。ごめん、シーツ汚しちゃって」
彼女はお腹を押さえながら俯いた。どうやら昨日は
「気にしないで大丈夫だよ。具合悪くない? お薬飲んだ?」
「うん……」
「とりあえず今日は身体あっためてゆっくりしてて。朝ごはん、温かいの作るから。パジャマも汚れちゃってたら着替えて洗濯出しちゃっていいから」
「あ、ありがとう。本当にごめんね」
彼女は申し訳なさそうに僕の部屋着の裾を摘んだ。首を横に振って彼女の肩にそっと手を置く。
「謝ることじゃないよ」
僕は寝室を出てキッチンへ向かった。お湯を沸かして抹茶ラテを淹れ、僕が寝ていたソファで毛布にくるまる彼女の隣に腰を下ろす。
「はい。ちょっと甘いのしかなかったけど」
「ううん。私、甘いの大好きだから大丈夫。ありがとう」
「朝ごはんにしようって思ったけど、食欲はある?」
彼女はカップの縁に唇をくっつけながら、小さく首を横に振った。
「そっか」
「……待って」
「ん?」
立ち上がろうとする僕の指が彼女に捕まる。
「できれば、と、と、隣に、いて欲しい……」
時計の秒針と心臓の動態がずれ始めた。
違う違う。そういうことじゃない。
「うん。いいよ」
花恋さんはテーブルにカップを置いて毛布をこちらへ広げた。
「一緒に入ろ?」
「いや、一人で使っていいよ」
「ふ、二人の方があったかいもんっ……」
ぷくっと膨らんだほっぺたの上で、綺麗に輝く二つの瞳が僕を見つめている。
「じゃあ」
僕は彼女が広げた毛布の中に入るように座った。今までとはまるで類の違う温もりに体が包まれる。花恋さんは体育座りをするように膝を折って、僕の方へ寄りかかった。よく見たらその隣に例の黒いにゃんこも
「にゃんこ持ってきたのね」
彼女はぱっと顔を明るくした。
「えへへ〜。もふもふで気持ちいいから。にゃんにゃんっ」
彼女は太ももとお腹の間でにゃんこを抱えて、手のようになっている短い前足を指で可愛らしく動かした。そのままにゃんこは僕の方へ進撃してくる。
「えいにゃ! えいえいっ」
「ちょっと、うぐぐ……」
ぽこぽこ顔を
「あははっ。高坂君かわいーっ」
「もう、そっくりそのままお返しするよ」
美咲相手の癖でそう言うと、彼女はきょとんとして目を丸く開いた。
「えっ。あ、えと……にゃ、にゃんちゃんの方、だよね?」
「どっちもだよ」
「ふぇぁ!? で、でもでもっ、猫耳してないよっ? 私、猫じゃないよ?」
昨夜のことだろうか。顔を真っ赤にして目をあっちこっちに泳がせる彼女を前にテレビの方へ視線を流しながら呟く。
「別に、花恋さんは普通にしてても可愛らしい女の子だと思うけどな。あっ、映画でも観よっか。今日は僕も別にやることないし」
美咲に二人で住んでるなら何かしら二人でやれって言われたし。
テレビの黒い画面から花恋さんに視線を戻す。
「ね? ……あれ?」
しゅー……。
ふ、沸騰、してる?
お兄ちゃんって女誑しだよね。
……なんか聞こえた気がする。
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