第六話 針

「え」


 絹舞さんはお箸を止めてぽかんと口を開いた。数回目をしばたいて、固唾を飲むように僕を見つめる。


「な、なにか、育ててるの?」


「あ、そういうのじゃないよ! ただその、誰にも言ってないことだし、知られると色々面倒くさいことになりそうだから」


「わかった。言わない」


「ほんと?」


 こくりと頷く彼女の瞳を見つめる。真っすぐできれいなそれは少しも震えようなどという素振りを見せなかった。


「実はここ、スタジオなんだ」


「すたじお?」


「父さんにすすめられて、ネットで絵師やってるんだ。最近はイラストレーターとしての仕事とか、結構もらえるようになって。それ以外にも個人的な活動もしてるから、その制作スタジオとして部屋借りてて」


 彼女はすっかり固まってしまった。


「絹舞さん?」


「え、あっ、いや、思ったよりも凄かったから。でも、絵は趣味でやってるって」


「まあ元々は趣味なんだけどね」


「す、すごいね……」


「運が良かったのもあるよ。インフルエンサーがいなかったらそんなに有名にもなってなかった」


「でも、高校生なのに有名になるだけの実力があって、それが評価されてるってとんでもないことだと思うよっ。そんな人とクラスメイトだなんて、自慢したくなっちゃう!」


 気持ちを抑えるようにきゅっと目をつぶる彼女。


「自慢しちゃだめだよ」


「わ、わかってるよっ。言わない。言わないからっ。私だって、秘密守ってもらってるんだもん」


 君の秘密の方が何倍も重い気がするけど。


「いいなぁ、かっこいいなぁ……!」


 絹舞さんは目を輝かせながらご飯を口に運んだ。





 昭島駅の改札をくぐったのは、午後三時をちょうど回るくらいだった。

 今から帰ると美咲に連絡したから、もしかしたら玄関で待ち構えているかもしれない。いや、流石にそこまではしないか。


 でも、進級して早々女の子を連れて帰るって非常事態だな。


「こっち?」


 代わり映えのしない住宅街に彼女の甘い声がしたたった。


「うん」


「日野とあんまり変わらない。雰囲気」


「どっちもベッドタウンだしね」


 ちっちゃい頃はもっと楽しそうな世界に見えていたのに、今はただの無機質な背景に過ぎない。僕も誰かのエキストラだ。


「やっぱ東京の住宅街はいいな。なんとなく清楚せいそな感じがする」


「そうかな。田舎の方が空気は澄んでるし人も穏やかなんじゃないの?」


 絹舞さんは白線を見つめながら、その上を丁寧に歩いた。


「どう、かな……」


「ん?」


「あ! 『高坂』ってここっ?」


 彼女は目の前の家の表札を指差した。それは紛れもなく僕の家だ。リビングの電気が付いているから、少なくとも母さんはいるだろう。後、美咲も。


「うん。ほら、入って」


 僕は前庭まえにわの門を開けて彼女を招き入れた。


「お、おじゃまします」


 絹舞さんは肩にかけていた鞄を前に下ろした。ちゃんとした髪型にしなきゃ、とハーフアップにまとめなおしていた髪が反動で左右に揺れる。


 僕は玄関の扉を引いた。


「ただいま」


「お兄ちゃんおかえり! 早かった、ね……?」


 二階の自分の部屋にいたのだろう美咲は、玄関の音に気付いてどたどたと階段を下りてきて見事に処理落ちする。


「あぁ美咲、この人は――――」


「ケーキ屋さんの、お姉ちゃん? え、えっ、えっ!?」


「ん?」


 美咲は裸足のまんま土間に飛び込んできて、絹舞さんの手を取った。


「お兄ちゃんの、彼女カノジョっ……?」


「か、かのっ……!? え、えと、そういうのじゃ」


 絹舞さんはカッと頬を赤くして首をぶんぶん横に振った。


「違うよ。今日はちょっと家に用があって来ただけ」


「で、でもでもでも!! なんで? お兄ちゃんと、知り合いなの?」


 今度は僕の服を摑む美咲。


「いやいやなんで美咲は絹舞さんのこと知ってるの?」


「だからケーキ屋さんのお姉ちゃんじゃん!! ほら去年の私の誕生日の」


 僕は絹舞さんを今一度見る。

 耳に残る甘くて可愛らしい声。綺麗な撫子色の瞳。それに気のせいだろうか、頭には苺のような帽子が浮かんで……。


「……あぁ!! あの時の!?」


 覚えてないって言ってたの、それ!?

 え、でも僕の名前知ってたのは何だろう。注文客として覚えてたんなら相当……。


「け、ケーキ屋さんはアルバイトで。でも留学する時にやめちゃったから、今は違うの」


「え、そう、なの?」


 美咲は残念そうに眉尻を下げた。


「もう何? 騒がしい……って、えっ、えっ、えっ!?」


 リビングから母さんが出て来たと思えば、今しがたそこで披露された妹のそれと全く同じ反応をされた。こういう時、不可避な個体間完全遺伝クローンの存在を信じざるを得ない。


「か、彼女? 彼女? 湊の彼女? かわいーいっ!」


 母さんは美咲以上に目をキラキラさせながら、スリッパを脱ぎ捨て土間へ飛び込んできて、絹舞さんを抱き締めて頬っぺたをむにむに揉み出した。美咲も同じように抱きつく。


「む、むぁ……!」


「ちょっと、困ってるから! それに彼女じゃないから!」


「え。そうなの?」


 あんまり馴れ馴れしくしないでよ恥ずかしい。


「あ、あにょっ!」


 これ以上ペースを持って行かれまいと、絹舞さんは声を上げた。母さんの手は絹舞さんから離れる。


「実は昨日、男の人たちに襲われそうになって、それを高坂君が助けてくれたんです。今日は、その、お礼を伝えたくて……」


「まぁ、それは危なかったねっ。怖かったでしょう」


 母さんは女子高生から母親のテンションに戻って、彼女の手を優しく握った。


「とりあえず上がって。ゆっくりしていくといいわ」


「あ、ありがとうございます」


「大丈夫よ」


 絹舞さんは革靴を脱いで丁寧に揃えると、母さんに招かれるままリビングに入っていった。僕と美咲もそのすぐ後ろをついていく。


「いや、それにしても、襲われそうになったところを助けるなんて。湊が、ねぇ」


「そりゃ助けるよさすがに。見殺しも同然じゃん」


「私、お兄ちゃんにそんなことされたら好きになっちゃうなぁ……!」


 そういう問題じゃないんだよ。


「本当にありがとう。高坂君」


「ううん。大丈夫だよ。それよりも、あのこと、話さないと」


「あのこと?」


 キッチンで紅茶を用意していた母さんは顔を上げてこちらを向いた。ソファの背もたれに身を投げてこちらを向いている美咲も不思議そうに首を傾げる。


「そ、そうだね」


「なになに? 婚約なら大歓迎だよっ」


「だから違うっての」


 母さんは妙ににこにこしながら紅茶を持って来て僕らの前にカップを置き、自分は絹舞さんの正面に座った。しばらくの間、立ち昇る湯気だけが空間を流動する。


 どうやら明るい話題ではないと悟った母さんは、笑顔の柔らかさをすり替えてテーブルの上に手を組んだ。


「なんでも言って。大丈夫」


 美少女はすっと、温もりを掬い上げた。


「じ、実は……」





 晩御飯の匂いがリビングにただよい始めるころ、僕は噛み千切りそうな勢いでおやつに食らいつくルリと戦っていた。


「はーい、はいはい。お腹空いてんの、ん? いてっ」


「もう、お兄ちゃん下手くそだなぁ」


 美咲は僕からチュールを強奪すると、驚いて針を立ててしまったルリの前にゆっくり手を差し出した。そのまま彼女はいとも簡単に手乗りをさせて、ちゅーるのビニールを絞っておやつを食わせる。


「美咲にはだいぶなついてるんだね」


「お兄ちゃんとは愛の次元が違うからね」


「わ、ハリネズミだっ。かわい~」


 いつの間にか後ろにいた花恋さんが僕の肩に手を置いてひょっこり顔を出す。お風呂上がりのシャンプーの香りが、脳みその方まで響いた。


「名前は、なんていうの?」


「ルリだよっ。十二月生まれなの」


 去年の美咲の誕生日の少し後にうちの家族になったまだ赤ちゃんな男の子。

 美咲に優しく背中を撫でられている彼に、花恋さんはそれこそ宝石のように目を輝かせた。


「へぇ! 素敵っ。針、痛くないの?」


 美咲は得意気に鼻を鳴らす。



「愛があれば、触っても痛くないんだよ」



「そ、そうなの」


「持ってみる?」


 美咲はお食事中のルリのお腹を抱えて、花恋さんの元へった。


「お腹のあたり持ってあげて」


「こう?」


「うん」


「うわぁかわい~! 食べちゃいたいっ……あっ」


 本当に捕食されるとでも思ったのか、ルリは花恋さんの手から暴れ落ちて住処すみかの中に引っ込んでしまった。


「ご、ごめんなさい」

 

「あははっ。まあ初めましてだったもんね。私でも時々逃げられるから、しょうがないよ」


「でもぉ」


 花恋さんは人差し指をつんつんしながらしょげてしまった。美咲はその肩に手を置いて、大丈夫だよと笑う。


「お姉ちゃん可愛いから、きっとルリもすぐ心開いてくれるって」


「ハリネズミって、そういうものなの……?」



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