第五話 花曇り

「い、居候??」


「あ、じゃ、じゃなくって、そのっ」


 口をアワアワさせながら必死に手を横に振る絹舞さん。


「落ち着いて。お話はちゃんと聞くから、とりあえず上がってよ」


 僕は慌てる彼女を落ち着けながら、エントランスのキーを解除してマンションの入り口を開けた。


 居候って、どういうことだ? 

 檸檬さんと合流できたわけじゃないのか? 朝の電話は?


 三階の自分の部屋に辿り着くまでに脳内で開いた展開図に、どうやら答えらしいものは書いてなかった。何もわからないまま昨日と同じように玄関を開けて彼女を迎え入れる。


 リビングに入ると彼女は昨日と同じようにテレビの前の白いソファの脇に荷物を落とした。僕はさっと麦茶を用意して、彼女の元へ向かう。


「はい、これ」


「あ、ありがとう」


 僕はコップを彼女に渡して隣に腰を下ろした。


「それで、檸檬さんには会えた?」


「うん」


「朝の電話は本人だったんだね」


「そう。でも、入院、してるって言うから、病院に」


「入院? それは、病気とか?」


 彼女は首を横に振った。右手が何かを抑えるように左手を捕まえている。


「……あの、昨日、日野本町で火事あったの、知ってる?」


 僕はこめかみのあたりが湯煎ゆせんされたように熱を持つのを感じた。


「え、もしかして……」


 彼女の両手はいつの間にか濡れていた。


「私と檸檬さん、本町五丁目の集合住宅に住んでるんだけど、そのっ……」


 絹舞さんはそこから先の言葉を落として泣き崩れてしまった。その様子を見れば、現場を見なくても彼女たちの部屋の状況は予測できる。


「れ、檸檬さんは、無事、だったの?」


「搬送された時は意識不明だったんだけど、命に別状はなくて。でも、倒れてきた家具で腕と脚を骨折してるから、あんまり動けないの」


「あ、ほんと……」


 彼女は俯いたまま小さく頷いた。


「被害は建物丸々だったから、大家さんも急いで動いてくれてるんだけど」


 だったら仮の住まいは何とかなるのかもしれないけど、おそらく生活のすべはほとんどなくなってて、保護者は……。


「絹舞さん、お父さんは? 檸檬さんのこと、連絡してみた?」


「お父さんは、いない、から……」


「え?」


 高校入学で上京して来たんじゃないの?


「小学生の頃、病気で」


「そ、そっか。ごめん、知らずに」


「ううん」


 じゃあ、肉親は寝たきりのお母さんだけなのか。


「昨日高坂君に助けてもらったこと、檸檬さんに話したんだけど」


「うん」


 麦茶を冷やす氷塊がガラス張りの音色を響かせる。


「その分のお礼して来なくちゃじゃん、って言われて。その、高坂君の家族にも」


「それで戻って来たんだ」


 彼女は指を結びながらこくりと頷いた。


「え、で、居候っていうのは……?」


「そ、それは、私の、保護者……というか、そういう人が今檸檬さんしかいなくて。でもその檸檬さんがしばらく十分に動けないから、誰か頼れる人いないかなって思って。もしいなかった檸檬さんが退院するまでは一人だし」


 指が震えている。


「ここ来るまで色々考えててわかんなくなって言っちゃっただけなのっ。ほんとはそんなお願いをしに来たわけじゃなくて」


「そっか」


 今の彼女に、一人という選択。

 高校二年生という彼女の社会的な問題じゃなくて、今その胸の内に抱えてるもの。


「……僕の実家、来る?」


「え?」


 絹舞さんはぱっと顔を上げて僕を見る。


「いや、わかんないけど、とりあえず僕の家族に相談してみよう。多分、多分なんだけど、絹舞さんのこと受け入れてくれそうな気がするからさ」


「た、助けて、くれるの……?」


 助けるも何も、見離せないもんそんなの。


「まだ助けてあげられるかどうかは分からな――――」


 唐突に香った甘い匂いに言葉が止まる。気付けば彼女の腕は僕に背中に回っていて、可愛らしい顔は僕の胸に押し付けられていた。


「ありがとうっ」


「き、絹舞さん」


 彼女ははっと息を吸って、僕から離れた。


「ご、ごめんっ。つい」


 きゅうっと目をつぶって梅を重ねる彼女。耳に優しい声と相まって……いや、そんな印象は軽率かもしれないけど、天使のように見えた。


「絹舞さん、ご飯食べた?」


 僕はソファーを立って彼女に聞いた。


「食べてない、けど……あ、気にしないで! 自分でなんか買ってくるし」


「いや、昨日の余ってるからさ。どっちかって言うと食べてほしい」


 冷蔵庫ではまだ野菜炒めが冷えている。


 絹舞さんはお腹を押さえながら唇を甘噛みして、申し訳なさそうに俯いた。


「じゃあ、食べる……」





 食卓でスマホをかこかこ打っている絹舞さんの前にお昼ご飯を並べると、彼女は気付いてさっとスマホをどけた。


「檸檬さん?」


「ううん。結衣から、LIMEが来てて」


「あぁ、安達さん学校で心配してたよ。安達さんだけじゃなくてみんなだったけど」


「そ、そっか」


 彼女は少し俯きながら、ももの間に両手を入れ込んで肩を小さくする。


「申し訳ないなぁ」


「それだけ絹舞さんがみんなから好かれてるってことじゃないかな。多分、僕が休んでも誰も気付かないよ」


「そ、そんなことないよっ。私は気付くもん」


「隣だからね」


「そうじゃなくてぇ……」


 ぷくぅと頬を膨らます彼女の前に腰を下ろす。


「女の子はさ、とりあえず外見を味見されるんだよね。顔が可愛い、おっぱいが大きい、スカートから出る足が綺麗。でも、高坂君は私の目をじっと見つめてくれたじゃん。本当の私を許してくれるみたいに、さ……」


 花曇りの向こうに、そっと優しさが咲いているような気がした。


「……お薬のこと?」


「初めて、男の子が怖くなかった。いや、男の子だけじゃないな。本当のことを知られるって、嫌われることだと思ってたからさ」


 確かに、誰にでも知られたくないことの一つや二つはある。


「高坂君のそういうところを知れば、みんな好きになるんじゃないかな。あっ、今嫌われてるってわけじゃなくてっ……」


 僕は彼女から視線を落として、豚汁の湯気を目でゆっくり追った。それから僕の耳にも聞こえないほど小さく呟く。


「僕には、もうないかな……」


「えっ?」


「あ、いやなんでもないんだ。ていうか、ほら食べようよ。冷めちゃうし」


 僕は箸を持ち上げた。


「そ、そうだねっ。いただきます!」


 絹舞さんはぱっと表情を明るくして、ぱちっと手を合わせた。そのまま左手でお茶碗ちゃわんを持って、目の前の野菜炒めを口に運ぶ。


「んっ、美味しいっ! この味、香味ペースト?」


「うん。それだけで味付けできるから、すぐに作れるんだよね」


「へぇ! 私も今度……」


 その先を見失ったのか、彼女は箸をお茶碗に重ねて白いご飯に目線を落とした。


 今度、か。


「き、絹舞さんも料理するの?」


 僕は急いで話の方向を変える。


「うん。檸檬さんと当番決めてるんだ」


「そうなんだ。大変だね」


 練習の多い部活に入って、毎日お母さんのお見舞いにも行って。疲れちゃうのも当たり前か。


「そういえばさ」


「ん?」


「高坂君の実家って、ここではないんだよね? ここは高坂君の家なの?」


「あぁ、それは、えっと……」


 僕はお茶碗と箸を食卓に置いた。


「他の誰にも、言わない?」

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