第四話 諧謔的朝ぼらけ

 美少女は大きな毛布を肩にかけた司祭しさいのようなで立ちで、目をこすこすこちらへ歩いてきた。


「れもんしゃーん、わたしのメガネしらなぁい?」


 え、め、メガネ? 昨日してなかったよね……じゃなくてはまずいよ!


 毛布の隙間から無防備にさらされている水色の絶対領域らんじぇりー

 さっきまで上着てたよね? 着て寝てたよね?


「き、絹舞さんっ。あ、あの」


「ねーぇ、無視しないでよぉ」

 

 詰まるような僕の声は全く彼女に届かない。見えてないからわからないのか、僕のこと。


 完全に寝ぼけている彼女は僕の腕を摑んで揺する。その拍子に彼女を包んでいた毛布が地面に滑り落ちた。多分目に触れてはいけない綺麗な肌の色が視界を席捲せっけんする。


「ぼ、僕、だよ」


「む?」


 全然気づく気配がない。

 僕、触った感じ全然女性じゃないでしょ。


 彼女の方が少し背が低いから、顔を見ると絶対に身体の方まで画角入りしてしまう。僕は天井を仰ぎながら彼女の攻撃を必死にかわした。


「だ、だから、僕。あ、あのね」


 シュールである。


「こ、高坂、湊。分かる? 檸檬さんじゃないの」


「え」


 恐る恐る彼女へ視線を戻していく。彼女はぼおっとした目で僕を見つめて何かをダウンロードすると、はっと気づいたように自分の身なりに目をやって、急いで床に落ちた毛布を身体に巻きつけて隠した。


「み、見たっ?」


 顔を真っ赤にしながら涙目で僕を見上げる。


「み、見てない……よ?」


「う、うそぉ! 絶対見たぁ! うわぁぁん!」


「見てない見てないっ。ほんとに見てないから!」


 うずくまる彼女を慰めようとしゃがむと、彼女は胸の所で毛布をぎゅっと摑んで、僕の目を真っすぐ見つめた。廉恥れんちうるおったその瞳の綺麗さに、一瞬心臓が跳ねる。


「あ、あのっ。がっかり、しないでください……」


「え?」


「その、男の子に見せたことないから、あの」


 見せたわけではなくない、かな。


「き、気にしないから大丈夫だよ」


「……やっぱ、見たの?」


「え」


 まずい。墓穴ぼけつ掘ったかも。


「と、とりあえず、着替えちゃってよ。ほら、制服はそこ掛けてあるし。後、檸檬さんとも連絡取らないと。ね?」


 苦しまぎれに無理やり舵を切ったが、絹舞さんは素直にモード変換されて、スマホを探し出した。


「テレビの所、充電してあるよ」


「あ、ありがとう」


 毛布が滑らないように綺麗に抱えながら、スマホの元へとてとて歩いていく彼女。僕のその後ろを追って、カーテンレールの制服を外した。


「あ、もしもし。檸檬さん? う、うん。大丈夫。……え?」


 どうやら電話が繋がったらしくカーペットに座り込む彼女にそっと制服を差し出すと、彼女は耳に押し当てていたスマホを離して僕を見上げた。


「大丈夫そうだった?」


「い、行かなきゃ」


「え?」


 瞳が濡れているのはさっきの涙ではなさそうだ。


 彼女はすっと立ち上がって僕から制服をもぎ取った。毛布がするりと落ちて必死に隠していた綺麗な身体があらわになる。


 ぎゅぅぅ。


 戸惑っている間もなく、急に抱き締められた。エスプレッソは匂いばかりでない。


「いっ、色々ありがとう。今度ちゃんとお礼するから、今は、これで」


「あ、う、うん……」


 彼女は僕に回した腕を解いて、恥ずかしそうに制服で胸を隠した。


「じゃあ、急がなきゃいけないからっ。き、着替えるの、寝室借りていい?」


「あぁ、いいよ。行ってらっしゃい」


「ありがとう」


 絹舞さんは僕の手をぎゅっと握って微笑むと、そのままくるっと振り向いてリビングから出て行った。





「あれ、絹舞ちゃんは? 休み?」


 生田くんは窓際に部活バッグを置きながら僕の隣の空席を不思議そうに眺めた。始業時間はもう五分後に迫っていて、クラスには七割ほどの人影がある。


「あ、なあ画伯」


 創作ノートに鉛筆を走らせる僕の元に声が降ってきた。自覚はないけどそっと顔を上げる。


「ぼ、僕?」


「そうだよ。明らかお前だろその手元。え、てかめっちゃうめぇな」


 生田くんは僕の手元に顔を近づけながら背もたれが障壁になり得ないほど長い脚で椅子をまたいで後ろ向きに座った。


「可愛い」


 広げたノートの上には名前も付いていない女の子が浮かんでいる。まだ線画すらしていないかりそめの姿。


「そ、それはどうも。で、何?」


「え? あぁそうだよ。今日のニュース見た?」


「見てない、けど」


 朝絹舞さんを送り出して僕もそのまま学校へ来たから、テレビなんて見る時間はなかったし、行きの電車は英単語帳を開く時間だった。


「あ、まじ? 昨日の夜、日野本町でさ、大火事があったんだってよ。住宅五棟全焼だって。まだ鎮火してねぇらしいよ。朝、空撮くうさつ流れてた」


 え?


「日野って……」


「あぁ、画伯家結構遠い? 日野っていうのは」


「いや、昭島あきしまだからわかるよ」


「俺より近いやんけ」


 正確には今日は立川から来たけど。


 止まっていた手を動かそうとノートに目線を戻そうとしたとき、教室の後ろのドアが勢いよく開いて安達さんが鞄も置かずにこちらへつかつか歩いてきた。


「花恋、来た?」


「え、いや」


 生田くんは首を横に振る。


「やっぱり? どうしたんだろう、朝練にも来なかったし」


「え、吹部もう朝練してんの?」


 安達さんは眉をぴくりと浮かせて、口をらせながら腕を組んだ。


「ま、まあねっ。別に、それは当たり前だから」


 吊り上げた彼女の肩はすぐに地面に引っ張られていく。


「花恋、留学のブランク埋めるために朝練行かなきゃって言ってたのに、どうしちゃったんだろう」


「体調不良とか? でも新学年二日目からって相当だな」



「絹舞さんの最寄が日野……」



 ノートに視線を落としながら僕は小さくつぶやいた。同時に安達さんが息を吸う音が聞こえた。心の中に落としたつもりが、彼女の耳には届いてしまったみたいだ。


「え? ちょ、ちょっとなんであんたがそれ知ってんのよ」


「え、あ、えっと……」


「え? なになに何の話?」


 何も聞こえなかったのだろう生田くんは腕を組んで僕へ首を傾ける。


「き、聞いたから」


「い、いつ?」


「昨日だよ」


「昨日って言ったってそんな喋る時間なんて……。あんた、花恋とどういう関係なの?」


 安達さんは僕を鋭く突き刺すようににらんだ。

 もちろんだが、昨日彼女を家に泊めたなんて言えるわけがない。それ以上の関係を怪しまれて終了する未来が見える。


「どういうって、別に昨日知り合っただけで」


「でもっ、でも……」


 安達さんの口調がだんだん弱まっていく。僕は昨日見た絹舞さんのスマホの待ち受けを思い出した。


「ま、まあいいわ。あとでLIMEらいむで聞いてみるし」


 安達さんはぷくっと頬を膨らませて、自分の席の方へ戻って行った。生田くんはその後ろ姿を少しだけ追って、僕のノートを覗き込むようにして小さな声で僕に聞いた。


「あの子、安達ちゃん、だっけ。結構あるな」


「え? あぁ」


 生田くんが胸の前にドームを構えているのを見て察する。


「冬服の上からでもわかるくらいってかなりでかいよな。Eとか? いやFくらいあるんかな」


 知らないよそんなの……。





 絹舞さんを泊めながら自分も寝落ちしたことで全く進まなかった作業をするために、僕は実家に帰るという予定を急遽きゅうきょ変更してスタジオにこもっていた。作画機材、動画撮影や編集に使うパソコンが並んだ部屋で、アナログを捨てた作業に視神経ししんけい消耗しょうもうさせる時間が淡々たんたんと過ぎていく。


 作業デスクに置いたスマホ画面が、LIMEのメッセージ受信で明るくなった。


[今日も帰って来ないの? 仕事ばっかの男は家族を不幸にするんだぞっ!]


 妹の美咲からのメッセージである。

 これを送られたのはこれで何回目だろうか。


[ごめんね。夜には帰れるから大丈夫だよ]


 そう送って画面を伏せた。

 作業に戻ろうとペンを持ち上げたところでインターホンが鳴る。耳にしたばかりのイヤホンを外して僕は部屋を出た。


「はい」


「あ、高坂君」


 モニターに映った女の子が僕の名前を呼んだ。比較的目に新しい色がポニーテールになっている。


「え、絹舞さん?」


「うん」


「い、いまそっち行くよっ」


 通話を切って玄関を飛び出す。階段を下ってエントランスまで行くと、そこには今朝出て行った制服姿のままの絹舞さんがぽつんと立っていた。


「ど、どうしたの? 檸檬さんには、会えた?」


「え、えっと」


 彼女は胸元のリボンに手をかけて目を泳がせた。革靴とレンガの擦れる音が耳をつつく。



「あのっ……居候しちゃ、ダメかな?」

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